発つ場所、迎えられる温もりに
第63話 残照act.2―side story「陽はまた昇る」
黄昏の光芒が長く朱色の光を投げかける。
携行品保管の手続きを終えた廊下、窓の残照が一日の暮を示して沈みだす。
二人並んで歩きながら原はクライマーウォッチと窓を見比べて、小さく微笑んだ。
「召集の待機、8時まで待つか?」
「はい、そのくらいでお願いします。俺も7時半位までは診察室にいるので、」
「じゃ、藤岡と食堂にいる、」
互いの予定を告げあって別れると、制服に登山ザックを背負ったまま英二は歩きだした。
足早に行く廊下はライトが灯り窓は暗く沈みだす、もう道迷いの救助要請が入りやすい時間になる。
そんな今のひと時に無事を祈りながら角を曲がると、自販機コーナーのベンチに白衣姿を見て英二は微笑んだ。
「吉村先生、」
呼びかけにロマンスグレーが振向いて、缶コーヒー片手に笑ってくれる。
いつものワイシャツに白衣をはおった姿は立ちあがり、穏やかに笑ってくれた。
「お帰りなさい、宮田くん、」
「ただいま戻りました、ここに先生がいらっしゃるのは久しぶりですね、」
帰りの挨拶に笑いかけた先、切長の目を優しく細めてくれる。
その眼差しが診察室の写真とよく似ていて、心そっと突かれた前で吉村医師は微笑んだ。
「ここで君を待てるのも後十日もありません、そう想ったら座っていたくなってね?まだ仕事やりかけなのに来てしまいました、」
君を待てるのも後10日も無い。
この言葉に篤実な医師の想いが温かい、そして切なくて英二は約束と微笑んだ。
「先生、異動しても休みの日はお手伝いに来ます。救急法も法医学も、教えてほしいことが沢山あるんです、」
本当に教えてほしいことが沢山ありすぎる。
医学以外にも聴きたいことは多くて、その為にも此処へ来たい。そんな想いに吉村医師は嬉しそうに頷いてくれた。
「はい、お待ちしています。本当はね、宮田くんにはお給料を払っても来て頂きたいんです。でも警察官だとバイト禁止でしょう?」
本音の願いと冗談と。そんなトーンで医師は笑ってくれる。
そのどちらも嬉しくて、笑って一緒に歩きだしながら英二は提案した。
「バイト代は受け取れません、でも先生?実は図々しいお願いがあるんですけど、」
「宮田くんが図々しいお願いって珍しいですね、なんでしょうか?」
何でも言ってごらん?
そんな笑顔が訊いてくれるまま、英二は思い切って甘えを言った。
「俺、御岳の剣道会は続けるんです。それで土曜が休みの時は朝稽古に出たいんですけど、前の晩は病院の仮眠室とかに泊めて頂けませんか?」
御岳の朝練に参加するなら出来れば御岳で前泊したい、けれど適当な宿も無くて困ってしまう。
たぶん光一に言えば実家に泊めてくれる、そう解かっているけれどアイガーの夜の後では甘え難くて言えない。
―もし一軒家で二人きりになったら俺、自制心とか自信あんまり無いからな…もう傷つけたくない、
アイガーを見上げる部屋の記憶は今も、本当は鮮やかに甘く熱い。
この熾火を再燃させかねない自分を信用できなくて、1月の前科があるだけに自分で困っている。
まだ七機の寮でなら自制も利く、山でも大丈夫だろう、けれど完全なるプライベートの空間は避けたい。
そんな想いから図々しく願い出たことなのに、吉村医師は嬉しそうに笑ってくれた。
「仮眠室なんて言わないで我が家に泊まって下さい、家内と私と雅人だけですから気楽ですよ?」
「すみません、ありがとうございます、」
受けとめてもらえた、その安堵に英二はきれいに微笑んだ。
けれど吉村の言葉に気になって診察室にザックを下すと訊いてみた。
「雅人先生は独身なんですか?」
「困ったことにね?今年で四十になるのですが、」
困ったな?そんな笑顔で吉村はデスクの写真立てを見た。
写真のなか医師の次男は美しい笑顔で佇んでいる、その眼差しを見つめながら吉村医師は教えてくれた。
「雅人はね、雅樹が亡くなってから医大に入りなおしたでしょう?雅樹より1つ上で、26歳になる春に学士入学で2年次に編入したんです。
だからインターンが終った時にはもう三十過ぎていてね、そのまま私から御岳の病院を引き継いでくれたんです。そんな雅人は忙し過ぎました、」
―…雅樹が亡くなって私は思ったんです、雅樹に私と一緒に生きて貰おう、って…私は、雅樹の夢に生きることにしました。
私は自分だけで夢を見つけることは出来ない、雅樹も自力では夢は途中になってしまった、けれど兄弟ふたりでなら叶えられる。
春3月の雪崩に遭った後、検査をしてくれた時に雅人医師が語った言葉たち。
あの言葉は今もあざやかに「雅樹」がどういう男だったのか偲ばせる。
そして雅人の抱いている真摯を想いながら英二は微笑んだ。
「雅人先生も雅樹さんと同じで、きちんとした真面目な方って感じがします、」
「はい、本当に雅樹は真面目です。でも雅人はちょっと違うんですよ?」
可笑しそうに笑いながら吉村医師は抽斗を開き、いつものファイルを渡してくれる。
受けとりながら目で話を促すと、二人の息子の父親は愉快に笑いだした。
「雅人は器用なんですよ。医大に入る前は結構な遊び人でね、朝帰りもよくしていました。それを隠す手伝いを雅樹にさせたりしてね、」
あの雅人医師が遊び人だった?
それも生真面目な雅樹に隠匿を手伝わせていたなんて、意外過ぎる。
思いがけない過去に驚かされてしまう、驚いて瞳ひとつ瞬いた英二に吉村は教えてくれた。
「雅人は小さい頃からコミュニケーション能力が高くてね、話し上手で機転も利くし愛嬌があるから、女の子にも好かれていました。
出版社に勤めた頃までは恋人も女友達もいたようです、医大の時も何人かつきあっていたろうね、でも御岳で医者になったでしょう?
遠いし忙しいから別れたらしくてね、しかも出逢いの機会も少ないから今はフリーみたいです。もし良い方がいたら紹介してやって下さい、」
雅人は一見、父親の吉村医師とよく似ている。
けれど性格は父とも弟とも違う面があるらしい、そんな意外に英二はつい笑ってしまった。
「すみません、俺、雅人先生って吉村先生と似てるなあって思っていたんです。でも少し違うんですね、」
「外見はそっくりでしょう?今は中身も似てきましたけどね、でも雅樹の方が私と性格は似ています。頑固で堅物で、不器用でね?」
楽しそうに息子二人を話してくれる、その笑顔には愛惜が温かい。
こんなふう父親に話してもらえることは幸せだ、そんな想いに父のことが想われた。
―父さん、すこしは母さんと会話してるかな?
最後に父と母に会ったのは1ヵ月半ほど前になる。
ふたりの夫婦らしい会話が少しは増えていてほしい、そう願いながら父の本心が心に傷む。
それでも実の親は懐かしくて、今は遠い俤ふたつ想いながら英二はパソコンデスクに就くと仕事を始めた。
カタ、カタカタタッ、タタ…
キータッチが白い部屋に響きながら、紙を捲る音にペン先は奔る。
ふたり互いに集中し合う時間は穏やかに過ぎていく、こんな時間はいつしか自然に馴染んだ。
こうした時間を異動の後もほしい、そんな願いを意識の片隅に仕事を終えて英二は相談事を思い出した。
―美代さんのこと相談してみようかな、でもどうしよう?
きっと吉村医師に話したら気は楽になれる、けれど美代と吉村は旧知の仲だ。
そんな関係にある女性の事をどう話して良いのか?それすら解からなくて相談自体に途惑ってしまう。
周太のことも光一のことも話せたのに今回は何かが違って、この困惑ごと英二はパソコンを静かに閉じた。
「先生、お待たせしました、」
印刷した資料と記録媒体を携え振りかえると、ちょうど吉村医師もカルテをしまっている。
良い頃合いに仕事を終えられた、それが嬉しくて微笑んだ先で医師も笑いかけてくれた。
「ありがとうございます、もしお時間あればコーヒーお願い出来ますか?」
「はい、大丈夫です、」
答えながら見た時計は19時15分過ぎを指している。
まだ20分は大丈夫だろう、そう考えに微笑んで英二は流し台に立った。
マグカップ2つ並べてドリップ式のインスタントをセットする、そのときノックが響いて扉が開いた。
「お、やっぱり宮田はここだったな。吉村、邪魔させてもらうよ、」
「はい、どうぞ後藤さん、」
吉村医師の返答に、痩身でも肩の広いスーツ姿が入ってくる。
予想外の来訪者に驚きながらも嬉しくて英二は笑いかけた。
「おつかれさまです、副隊長、」
「おう、おつかれさん。俺にもコーヒー頼むよ、ホットでな、」
深い目を笑ませて後藤は椅子に腰を下ろすと、サイドテーブルに書類袋を置いた。
それらを視界の端に見ながら英二はマグカップを1つ追加し、ゆっくり湯を注いだ。
ゆるやかな芳香が昇っていく湯気がエアコンに揺れる、その背後で二人の会話が始まった。
「昨日見てきたんだけどな、なかなか良さそうだったぞ?でな、これが書類なんだ。ちょっと見てくれ、」
「拝見しますね…あ、私が見たのと同じですね。カリキュラムも変っていない、」
「じゃあここで申請出しておくかな、まあ本人次第なんだが。今、話しちゃってもいいかい?」
「もちろんです、早い方が良いでしょうから、」
二人の会話が何なのか、いま一つ解り難い。
今のタイミングで後藤が来るなら検査入院のことだろうか?
それとも手術が決ったのだろうか?そんな思案のなか淹れたコーヒーを英二は運んだ。
トレイから3つのマグカップをサイドテーブルに置き、いつもの席に座るとすぐ後藤が問いかけた。
「なあ宮田、救急救命士の免許を取ってみないか?七機で勤めながら夜学で2年間だがね、」
どういうことだろう?
急な提案に一瞬だけ意識が止められる。
それでも目で問いかけた英二に後藤は話し始めた。
「今の日本ではな、救急救命士って言えば消防かあとは自衛隊ぐらいだろう?官業独占だって言われてるが法律でもその通りだよ。
だがな、官業独占でも警察は外れてるんだ。でも実際には事故や傷害事件、特に災害救助の現場で警察官は人命救助が求められるだろう?
だから警察学校でも救急法を学ぶんだがな、現場になったら中々に上手くいかないのが現状だよ。でも改善が進まないのは何故だと思う?」
救急救命士法 第四十四条
救急救命士は医師の具体的な指示を受けなければ、厚生労働省令で定める救急救命処置を行ってはならない。
2 救急救命士は救急用自動車その他の重度傷病者を搬送する為の者であって、
厚生労働省令で定めるもの「救急用自動車等」以外の場所においてその業務を行ってはならない。
ただし、病院又は診療所への搬送のため重度傷病者を救急用自動車等に乗せるまでの間において、
救急救命処置を行うことが必要と認められる場合は、この限りでない。
“救急救命士は救急用自動車その他の重度傷病者を搬送する為の者であって「救急用自動車等以外の場所」で業務を行ってはならない”
この条文がある為に救急救命士を職業とするならば「救急用自動車等」いわゆる救急車がある機関に所属するしかない。
それは日本では消防機関か自衛隊になってしまい官業独占と言われている、けれど警察機関は含まれていない。
この周辺事情は2年目の今なら解かる、今日までに見聞した事から英二は答えた。
「初総でも同期の話を聴きましたが、実際に救急法を使う機会が少ない上に、定期的な講習も行っていない所轄も多いそうです。
その代り術科の特練や昇進試験に時間を遣っています、いつ来るか解らないレスキュー現場の為には時間を割けない、そんな印象でした。
人命救助のモチベーションは個人差が大きいです、その為に京都府警の例にあるよう世論の評価も差が生まれて改善も進まないのだと思います、」
こうした現状は周太の所轄勤務に解かりやすいだろう。
射撃特練の練習か交番勤務、あとは手話講習に有志で参加、そこに救急法の定期講習は無い。
もちろん周太は救急法の勉強を続けていた、けれど所轄からの命令指示は無くて個人的な努力に過ぎない。
それは7月に光一が救急法講習を担当した時も感じたことだった、あのときのアンケート結果を思う前から後藤が尋ねた。
「ふん、おまえさん京都府警の件も知ってるんだな。宮田の知ってる警察レスキューの評価と問題をちょっと話してくれるかい?」
警察のレスキューに関する知識と問題点への考察、それを後藤は問うている。
なんだか口頭試問みたいだな?そんな感想と今まで考えて来たことに英二は口を開いた。
「はい、評価は賛否両論ですが軽んじられる傾向が強いです。その原因は現状が知られていない事だと思います、」
まず結論から応えると英二は困ったよう微笑んだ。
他の警察について話すなら言葉は慎重になる、思案廻らせながら話し始めた。
「まず京都府警は5名全員が自費です、免許を取る目的は大震災などの災害救助がメインですが、交通事故の対応等も視野にいれています。
このモチベーションに対しては評価する意見が大多数です、ただし救急救命士の救命処置には制限があることを理由に否定意見もあります。
また自費での取得を否定意見の核にもされています、警察では救急救命士の資格を生かす場所が無いのに自費など無駄だと言われていました、」
この5人の警察官たちは自身が大震災の被災経験がある、だからこそ自費でも技能の習得を目指していた。
これを単純に否定できる人間はたぶん「現場」を全く知らないから言える、そんな想いと英二は言葉を続けた。
「自費でも無駄と批難するなら公費での取得はより否定するでしょう、それくらい警察官の救命技能は不要だと考えているようです。
そこには救急救命士が必要なら消防に任せれば良いという意見があります、同じことを2005年の衆議院内閣委員会でも言われていました。
これはレスキューは初動が重要と知らないから言える意見です、救助の現実に理解が浅い為に警察のレスキューを軽視するのだと思います、」
京都府警の事例があった2007年当時は救急救命法の改正前だった。
いま事例にあげた内閣委員会も2005年だから、双方とも現在とは事情が異なる。
それでも「警察官のレスキュー」が軽視されがちな傾向は現在も大差ない、この現実への危惧に英二は口を開いた。
「心停止から4分で蘇生率は50%を切ります、ですが119番通報から現場到着の時間平均は5分から6分という統計があります。
意識不明者の発見後に救急車到着まで6分が経過して、その間に警察官が救命措置を行わずに亡くなった実例もある、それが現状です。
実際は6分を超える地域もあります、警察にレスキューが不要とは言えません。この現実が内外とも知られていない事が軽視の原因と思います、」
こうした軽視の傾向が世論からなのか?
それとも警察内部のブラッシュアップが不足している為なのか?
そう問われたらレスキューが常態の自分は「相互作用」と言うしかない、この溜息と微笑んだ向かい後藤が笑ってくれた。
「おい宮田、俺と国村の訓練を受けて吉村の手伝いもして、よくこんなに勉強してるなあ?おまえさんの一日は何時間あるんだい?」
「普通に24時間です、」
生真面目な言葉で答えながら英二は笑ってしまった、この程度ならWebですぐ調べられるのに?
そんな感想と面映ゆさに微笑んだ前で後藤が吉村医師を見、そして英二を真直ぐ見た。
「警察のレスキューは宮田が言ったような理由で改善が進まないよ、だけど俺たち山ヤの警察官にとっては全くの別問題だろう?
俺たち山岳レスキューは救急救命士と同じレベルが求められているよ、それが山の現場で現実だ。これは警視庁だけの問題じゃない。
だから全国警察の山岳レスキューで選抜して救急救命士を育てようって案が出たんだよ、警視庁は宮田を推したいんだがどうだい?」
警察の山岳レスキューなら救急救命士の免許を活かす現場にいる、それは救急救命士法 第四十四条の2
“病院への搬送のため重度傷病者を救急車等に乗せるまでの間において、救急救命処置を行うことが必要と認められる場合はこの限りでない”
この項目こそが自分たち山ヤの警察官の真骨頂でもある、そして、なぜ後藤が英二を推そうとするのか?
その理由を確かめたくて英二は上司へ問いかけた。
「副隊長が俺を推薦してくれるのは、吉村先生のお手伝いをする俺なら第四十五条が守りやすいと考えるからですか?」
救急救命士法 第四十五条
“救急救命士はその業務を行うに当たっては、医師その他の医療関係者との緊密な連携を図り、適正な医療の確保に努めなければならない”
この「堅密な連携」をとれる強固なパイプを持つなら緊急時に迅速な対応が出来る、そんな人間を最初のテスト人員する方が安全だろう。
そう考えたままを笑いかけた先、後藤は嬉しそうに微笑んで口を開いた。
「その通りだよ、だから俺は吉村の手伝いするのも喜んで許可したんだ。それにな、こういう事や政治的な事情も宮田なら理解が速いだろ?
おまえさんの救命処置は真面目で正確で、ご遺体とご遺族への態度も立派だよ。だから適任だと思うんだがね、さあ、やってくれるかい?」
さっき自分で言ったように公費での免許取得は失敗すれば「批難」を浴びる。
その責任は光一の補佐役という立場にとって軽くは無い、その反面成功すれば大きい。
それに救急救命士は雅樹も取得していた、あの憧憬と嫉妬に想う男の軌跡を少し辿れる。
それが自分の生きる道を固め大切な人を援けることに繋がるだろうか?
―まずやってみること、だな?
心裡ひとり微笑んで、先への覚悟が肚に積もりだす。
その想い素直に笑って英二は後藤副隊長と吉村医師に頷いた。
「はい、やらせて頂きます。よろしくお願いします、」
(to be continued)
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第63話 残照act.2―side story「陽はまた昇る」
黄昏の光芒が長く朱色の光を投げかける。
携行品保管の手続きを終えた廊下、窓の残照が一日の暮を示して沈みだす。
二人並んで歩きながら原はクライマーウォッチと窓を見比べて、小さく微笑んだ。
「召集の待機、8時まで待つか?」
「はい、そのくらいでお願いします。俺も7時半位までは診察室にいるので、」
「じゃ、藤岡と食堂にいる、」
互いの予定を告げあって別れると、制服に登山ザックを背負ったまま英二は歩きだした。
足早に行く廊下はライトが灯り窓は暗く沈みだす、もう道迷いの救助要請が入りやすい時間になる。
そんな今のひと時に無事を祈りながら角を曲がると、自販機コーナーのベンチに白衣姿を見て英二は微笑んだ。
「吉村先生、」
呼びかけにロマンスグレーが振向いて、缶コーヒー片手に笑ってくれる。
いつものワイシャツに白衣をはおった姿は立ちあがり、穏やかに笑ってくれた。
「お帰りなさい、宮田くん、」
「ただいま戻りました、ここに先生がいらっしゃるのは久しぶりですね、」
帰りの挨拶に笑いかけた先、切長の目を優しく細めてくれる。
その眼差しが診察室の写真とよく似ていて、心そっと突かれた前で吉村医師は微笑んだ。
「ここで君を待てるのも後十日もありません、そう想ったら座っていたくなってね?まだ仕事やりかけなのに来てしまいました、」
君を待てるのも後10日も無い。
この言葉に篤実な医師の想いが温かい、そして切なくて英二は約束と微笑んだ。
「先生、異動しても休みの日はお手伝いに来ます。救急法も法医学も、教えてほしいことが沢山あるんです、」
本当に教えてほしいことが沢山ありすぎる。
医学以外にも聴きたいことは多くて、その為にも此処へ来たい。そんな想いに吉村医師は嬉しそうに頷いてくれた。
「はい、お待ちしています。本当はね、宮田くんにはお給料を払っても来て頂きたいんです。でも警察官だとバイト禁止でしょう?」
本音の願いと冗談と。そんなトーンで医師は笑ってくれる。
そのどちらも嬉しくて、笑って一緒に歩きだしながら英二は提案した。
「バイト代は受け取れません、でも先生?実は図々しいお願いがあるんですけど、」
「宮田くんが図々しいお願いって珍しいですね、なんでしょうか?」
何でも言ってごらん?
そんな笑顔が訊いてくれるまま、英二は思い切って甘えを言った。
「俺、御岳の剣道会は続けるんです。それで土曜が休みの時は朝稽古に出たいんですけど、前の晩は病院の仮眠室とかに泊めて頂けませんか?」
御岳の朝練に参加するなら出来れば御岳で前泊したい、けれど適当な宿も無くて困ってしまう。
たぶん光一に言えば実家に泊めてくれる、そう解かっているけれどアイガーの夜の後では甘え難くて言えない。
―もし一軒家で二人きりになったら俺、自制心とか自信あんまり無いからな…もう傷つけたくない、
アイガーを見上げる部屋の記憶は今も、本当は鮮やかに甘く熱い。
この熾火を再燃させかねない自分を信用できなくて、1月の前科があるだけに自分で困っている。
まだ七機の寮でなら自制も利く、山でも大丈夫だろう、けれど完全なるプライベートの空間は避けたい。
そんな想いから図々しく願い出たことなのに、吉村医師は嬉しそうに笑ってくれた。
「仮眠室なんて言わないで我が家に泊まって下さい、家内と私と雅人だけですから気楽ですよ?」
「すみません、ありがとうございます、」
受けとめてもらえた、その安堵に英二はきれいに微笑んだ。
けれど吉村の言葉に気になって診察室にザックを下すと訊いてみた。
「雅人先生は独身なんですか?」
「困ったことにね?今年で四十になるのですが、」
困ったな?そんな笑顔で吉村はデスクの写真立てを見た。
写真のなか医師の次男は美しい笑顔で佇んでいる、その眼差しを見つめながら吉村医師は教えてくれた。
「雅人はね、雅樹が亡くなってから医大に入りなおしたでしょう?雅樹より1つ上で、26歳になる春に学士入学で2年次に編入したんです。
だからインターンが終った時にはもう三十過ぎていてね、そのまま私から御岳の病院を引き継いでくれたんです。そんな雅人は忙し過ぎました、」
―…雅樹が亡くなって私は思ったんです、雅樹に私と一緒に生きて貰おう、って…私は、雅樹の夢に生きることにしました。
私は自分だけで夢を見つけることは出来ない、雅樹も自力では夢は途中になってしまった、けれど兄弟ふたりでなら叶えられる。
春3月の雪崩に遭った後、検査をしてくれた時に雅人医師が語った言葉たち。
あの言葉は今もあざやかに「雅樹」がどういう男だったのか偲ばせる。
そして雅人の抱いている真摯を想いながら英二は微笑んだ。
「雅人先生も雅樹さんと同じで、きちんとした真面目な方って感じがします、」
「はい、本当に雅樹は真面目です。でも雅人はちょっと違うんですよ?」
可笑しそうに笑いながら吉村医師は抽斗を開き、いつものファイルを渡してくれる。
受けとりながら目で話を促すと、二人の息子の父親は愉快に笑いだした。
「雅人は器用なんですよ。医大に入る前は結構な遊び人でね、朝帰りもよくしていました。それを隠す手伝いを雅樹にさせたりしてね、」
あの雅人医師が遊び人だった?
それも生真面目な雅樹に隠匿を手伝わせていたなんて、意外過ぎる。
思いがけない過去に驚かされてしまう、驚いて瞳ひとつ瞬いた英二に吉村は教えてくれた。
「雅人は小さい頃からコミュニケーション能力が高くてね、話し上手で機転も利くし愛嬌があるから、女の子にも好かれていました。
出版社に勤めた頃までは恋人も女友達もいたようです、医大の時も何人かつきあっていたろうね、でも御岳で医者になったでしょう?
遠いし忙しいから別れたらしくてね、しかも出逢いの機会も少ないから今はフリーみたいです。もし良い方がいたら紹介してやって下さい、」
雅人は一見、父親の吉村医師とよく似ている。
けれど性格は父とも弟とも違う面があるらしい、そんな意外に英二はつい笑ってしまった。
「すみません、俺、雅人先生って吉村先生と似てるなあって思っていたんです。でも少し違うんですね、」
「外見はそっくりでしょう?今は中身も似てきましたけどね、でも雅樹の方が私と性格は似ています。頑固で堅物で、不器用でね?」
楽しそうに息子二人を話してくれる、その笑顔には愛惜が温かい。
こんなふう父親に話してもらえることは幸せだ、そんな想いに父のことが想われた。
―父さん、すこしは母さんと会話してるかな?
最後に父と母に会ったのは1ヵ月半ほど前になる。
ふたりの夫婦らしい会話が少しは増えていてほしい、そう願いながら父の本心が心に傷む。
それでも実の親は懐かしくて、今は遠い俤ふたつ想いながら英二はパソコンデスクに就くと仕事を始めた。
カタ、カタカタタッ、タタ…
キータッチが白い部屋に響きながら、紙を捲る音にペン先は奔る。
ふたり互いに集中し合う時間は穏やかに過ぎていく、こんな時間はいつしか自然に馴染んだ。
こうした時間を異動の後もほしい、そんな願いを意識の片隅に仕事を終えて英二は相談事を思い出した。
―美代さんのこと相談してみようかな、でもどうしよう?
きっと吉村医師に話したら気は楽になれる、けれど美代と吉村は旧知の仲だ。
そんな関係にある女性の事をどう話して良いのか?それすら解からなくて相談自体に途惑ってしまう。
周太のことも光一のことも話せたのに今回は何かが違って、この困惑ごと英二はパソコンを静かに閉じた。
「先生、お待たせしました、」
印刷した資料と記録媒体を携え振りかえると、ちょうど吉村医師もカルテをしまっている。
良い頃合いに仕事を終えられた、それが嬉しくて微笑んだ先で医師も笑いかけてくれた。
「ありがとうございます、もしお時間あればコーヒーお願い出来ますか?」
「はい、大丈夫です、」
答えながら見た時計は19時15分過ぎを指している。
まだ20分は大丈夫だろう、そう考えに微笑んで英二は流し台に立った。
マグカップ2つ並べてドリップ式のインスタントをセットする、そのときノックが響いて扉が開いた。
「お、やっぱり宮田はここだったな。吉村、邪魔させてもらうよ、」
「はい、どうぞ後藤さん、」
吉村医師の返答に、痩身でも肩の広いスーツ姿が入ってくる。
予想外の来訪者に驚きながらも嬉しくて英二は笑いかけた。
「おつかれさまです、副隊長、」
「おう、おつかれさん。俺にもコーヒー頼むよ、ホットでな、」
深い目を笑ませて後藤は椅子に腰を下ろすと、サイドテーブルに書類袋を置いた。
それらを視界の端に見ながら英二はマグカップを1つ追加し、ゆっくり湯を注いだ。
ゆるやかな芳香が昇っていく湯気がエアコンに揺れる、その背後で二人の会話が始まった。
「昨日見てきたんだけどな、なかなか良さそうだったぞ?でな、これが書類なんだ。ちょっと見てくれ、」
「拝見しますね…あ、私が見たのと同じですね。カリキュラムも変っていない、」
「じゃあここで申請出しておくかな、まあ本人次第なんだが。今、話しちゃってもいいかい?」
「もちろんです、早い方が良いでしょうから、」
二人の会話が何なのか、いま一つ解り難い。
今のタイミングで後藤が来るなら検査入院のことだろうか?
それとも手術が決ったのだろうか?そんな思案のなか淹れたコーヒーを英二は運んだ。
トレイから3つのマグカップをサイドテーブルに置き、いつもの席に座るとすぐ後藤が問いかけた。
「なあ宮田、救急救命士の免許を取ってみないか?七機で勤めながら夜学で2年間だがね、」
どういうことだろう?
急な提案に一瞬だけ意識が止められる。
それでも目で問いかけた英二に後藤は話し始めた。
「今の日本ではな、救急救命士って言えば消防かあとは自衛隊ぐらいだろう?官業独占だって言われてるが法律でもその通りだよ。
だがな、官業独占でも警察は外れてるんだ。でも実際には事故や傷害事件、特に災害救助の現場で警察官は人命救助が求められるだろう?
だから警察学校でも救急法を学ぶんだがな、現場になったら中々に上手くいかないのが現状だよ。でも改善が進まないのは何故だと思う?」
救急救命士法 第四十四条
救急救命士は医師の具体的な指示を受けなければ、厚生労働省令で定める救急救命処置を行ってはならない。
2 救急救命士は救急用自動車その他の重度傷病者を搬送する為の者であって、
厚生労働省令で定めるもの「救急用自動車等」以外の場所においてその業務を行ってはならない。
ただし、病院又は診療所への搬送のため重度傷病者を救急用自動車等に乗せるまでの間において、
救急救命処置を行うことが必要と認められる場合は、この限りでない。
“救急救命士は救急用自動車その他の重度傷病者を搬送する為の者であって「救急用自動車等以外の場所」で業務を行ってはならない”
この条文がある為に救急救命士を職業とするならば「救急用自動車等」いわゆる救急車がある機関に所属するしかない。
それは日本では消防機関か自衛隊になってしまい官業独占と言われている、けれど警察機関は含まれていない。
この周辺事情は2年目の今なら解かる、今日までに見聞した事から英二は答えた。
「初総でも同期の話を聴きましたが、実際に救急法を使う機会が少ない上に、定期的な講習も行っていない所轄も多いそうです。
その代り術科の特練や昇進試験に時間を遣っています、いつ来るか解らないレスキュー現場の為には時間を割けない、そんな印象でした。
人命救助のモチベーションは個人差が大きいです、その為に京都府警の例にあるよう世論の評価も差が生まれて改善も進まないのだと思います、」
こうした現状は周太の所轄勤務に解かりやすいだろう。
射撃特練の練習か交番勤務、あとは手話講習に有志で参加、そこに救急法の定期講習は無い。
もちろん周太は救急法の勉強を続けていた、けれど所轄からの命令指示は無くて個人的な努力に過ぎない。
それは7月に光一が救急法講習を担当した時も感じたことだった、あのときのアンケート結果を思う前から後藤が尋ねた。
「ふん、おまえさん京都府警の件も知ってるんだな。宮田の知ってる警察レスキューの評価と問題をちょっと話してくれるかい?」
警察のレスキューに関する知識と問題点への考察、それを後藤は問うている。
なんだか口頭試問みたいだな?そんな感想と今まで考えて来たことに英二は口を開いた。
「はい、評価は賛否両論ですが軽んじられる傾向が強いです。その原因は現状が知られていない事だと思います、」
まず結論から応えると英二は困ったよう微笑んだ。
他の警察について話すなら言葉は慎重になる、思案廻らせながら話し始めた。
「まず京都府警は5名全員が自費です、免許を取る目的は大震災などの災害救助がメインですが、交通事故の対応等も視野にいれています。
このモチベーションに対しては評価する意見が大多数です、ただし救急救命士の救命処置には制限があることを理由に否定意見もあります。
また自費での取得を否定意見の核にもされています、警察では救急救命士の資格を生かす場所が無いのに自費など無駄だと言われていました、」
この5人の警察官たちは自身が大震災の被災経験がある、だからこそ自費でも技能の習得を目指していた。
これを単純に否定できる人間はたぶん「現場」を全く知らないから言える、そんな想いと英二は言葉を続けた。
「自費でも無駄と批難するなら公費での取得はより否定するでしょう、それくらい警察官の救命技能は不要だと考えているようです。
そこには救急救命士が必要なら消防に任せれば良いという意見があります、同じことを2005年の衆議院内閣委員会でも言われていました。
これはレスキューは初動が重要と知らないから言える意見です、救助の現実に理解が浅い為に警察のレスキューを軽視するのだと思います、」
京都府警の事例があった2007年当時は救急救命法の改正前だった。
いま事例にあげた内閣委員会も2005年だから、双方とも現在とは事情が異なる。
それでも「警察官のレスキュー」が軽視されがちな傾向は現在も大差ない、この現実への危惧に英二は口を開いた。
「心停止から4分で蘇生率は50%を切ります、ですが119番通報から現場到着の時間平均は5分から6分という統計があります。
意識不明者の発見後に救急車到着まで6分が経過して、その間に警察官が救命措置を行わずに亡くなった実例もある、それが現状です。
実際は6分を超える地域もあります、警察にレスキューが不要とは言えません。この現実が内外とも知られていない事が軽視の原因と思います、」
こうした軽視の傾向が世論からなのか?
それとも警察内部のブラッシュアップが不足している為なのか?
そう問われたらレスキューが常態の自分は「相互作用」と言うしかない、この溜息と微笑んだ向かい後藤が笑ってくれた。
「おい宮田、俺と国村の訓練を受けて吉村の手伝いもして、よくこんなに勉強してるなあ?おまえさんの一日は何時間あるんだい?」
「普通に24時間です、」
生真面目な言葉で答えながら英二は笑ってしまった、この程度ならWebですぐ調べられるのに?
そんな感想と面映ゆさに微笑んだ前で後藤が吉村医師を見、そして英二を真直ぐ見た。
「警察のレスキューは宮田が言ったような理由で改善が進まないよ、だけど俺たち山ヤの警察官にとっては全くの別問題だろう?
俺たち山岳レスキューは救急救命士と同じレベルが求められているよ、それが山の現場で現実だ。これは警視庁だけの問題じゃない。
だから全国警察の山岳レスキューで選抜して救急救命士を育てようって案が出たんだよ、警視庁は宮田を推したいんだがどうだい?」
警察の山岳レスキューなら救急救命士の免許を活かす現場にいる、それは救急救命士法 第四十四条の2
“病院への搬送のため重度傷病者を救急車等に乗せるまでの間において、救急救命処置を行うことが必要と認められる場合はこの限りでない”
この項目こそが自分たち山ヤの警察官の真骨頂でもある、そして、なぜ後藤が英二を推そうとするのか?
その理由を確かめたくて英二は上司へ問いかけた。
「副隊長が俺を推薦してくれるのは、吉村先生のお手伝いをする俺なら第四十五条が守りやすいと考えるからですか?」
救急救命士法 第四十五条
“救急救命士はその業務を行うに当たっては、医師その他の医療関係者との緊密な連携を図り、適正な医療の確保に努めなければならない”
この「堅密な連携」をとれる強固なパイプを持つなら緊急時に迅速な対応が出来る、そんな人間を最初のテスト人員する方が安全だろう。
そう考えたままを笑いかけた先、後藤は嬉しそうに微笑んで口を開いた。
「その通りだよ、だから俺は吉村の手伝いするのも喜んで許可したんだ。それにな、こういう事や政治的な事情も宮田なら理解が速いだろ?
おまえさんの救命処置は真面目で正確で、ご遺体とご遺族への態度も立派だよ。だから適任だと思うんだがね、さあ、やってくれるかい?」
さっき自分で言ったように公費での免許取得は失敗すれば「批難」を浴びる。
その責任は光一の補佐役という立場にとって軽くは無い、その反面成功すれば大きい。
それに救急救命士は雅樹も取得していた、あの憧憬と嫉妬に想う男の軌跡を少し辿れる。
それが自分の生きる道を固め大切な人を援けることに繋がるだろうか?
―まずやってみること、だな?
心裡ひとり微笑んで、先への覚悟が肚に積もりだす。
その想い素直に笑って英二は後藤副隊長と吉村医師に頷いた。
「はい、やらせて頂きます。よろしくお願いします、」
(to be continued)
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