リアルと虚構→文責
言葉、文字、文章の存在とリアル
何げなく書いた文章で破滅した書き手、読み手、いったいどれだけいるのでしょうか?
万朶の桜あふれる今日、山に川に、町でも花見客を見かけました。
花に酒や食事を楽しむ、そういう日本って良いなあと思います。
そんな人の中で印象的だったのは携帯電話で桜を撮っていた青年です。
住宅街を奔る線路脇、連なる桜並木を通りがかりに見上げて立ち止まった。
そんな日常の一コマに花を撮る姿と心は、この国らしい優美が穏やかです。
そういう人や花がある国の言葉を綴り、物語を文章に変えて表し書いている。
そんな自分の今あることに、いつもパソコンの前から「文章の責任」を思います。
この文章を透して自分は、明るいプラスになる何かを読む方に手渡せているのか?
読んで温かい気持になれたら良いなあ、など考えながら写真やイラストを貼って物語を綴っています。
文章を読む時間は一瞬です、それでも言葉から受けとめた心は一生になることもあります。
そういう責任とかを想うほど、いつも一言一句どれもが大切です。
そんなふう自分は想うんですけども。
違う人もいるんだなあと、WEBで文章を書く中で知りました。
文章への敬意、リスペクトが無い。それがWEB小説の現実に対する率直な感想です。
剽窃、って言葉をご存知ですか?
文章や設定などを無断借用することを剽窃と言います。
これを本人に借用許可を得たり、引用文として紹介すればOKなのですが、それをしない。
自分のオリジナルのよう見せかけて言葉などを無断使用する、いわゆる著作権侵害にも抵触する行為です。
この剽窃について、大学時代に教授たちは「最も恥ずべき行為」と固く戒めてくれました。
大学とは「文章を書く」ことを学ぶ場でもあるかと思います。
自分も学生時代には何本のレジュメや論文を書いたか?記憶にないほど書きました。
そこで「剽窃」が嫌忌されるのは、誰もが文章を書く喜びと苦しみを実体験で解かるからです。
だから思ってしまいます、きっと剽窃を出来る人間は「文章を書く」意味も存在も何も解っていない。
WEBは匿名性が高いよう勘違いする為でしょうか?
安易な剽窃や盗作がWEB小説は多いと感じますが、それは「文章」と呼べないと思います。
たとえ書店に並んでいなくても、作品である以上はWEB小説も著作権が当然あることが理解できない。
それは「文章」そのものへの敬意=リスペクトが無いから、他者の創作した文章を「盗む」ことをNGだと気付けない。
そういう無神経な剽窃は、本気で文章を書いている人間には出来るはずがありません。
本気で文章を書く人ならば、その言葉を、表現を、一文を綴るまでには努力があります。
その努力はペンを持って(パソコンを打って?)文章を書くことは勿論、現実の経験を積むことも書く上の努力です。
人が小説を書く時、実際に見た・聞いた・触れた実体験を元にして物語の虚構を設定し、文章化します。
人が感じた感情考えた思考を実体験のフィルターに濾過して生み出された文章、それが小説の側面です。
そして読者の方も自身の実体験をベースに文章、小説を読んでいます。
実体験を透って生まれた文章を、実体験の記憶になぞって読む。
それが出来たとき文章は現実感をもって読み手に響き、そこにリアリティは生まれます。
人間が生きていれば様々な経験をする、その経験を文章化すればリアリティは心響くはずです。
どの人間も誰もが一本は名作を書けると思います、それが成功して一作だけだと俗にいう「一発屋」になります。
この一発屋ではなく幾作も名文を生みだしていける人間が、いわゆる文豪と呼ばれ天才とも言われる作家です。
そうした作家たちは多くの実体験と確かな知識を豊かにする努力をしています、その例外はゼロ・皆無です。
文章が面白くある為には面白い実体験は不可欠、それ無くしてリアリティの力ある名文は生まれません。
この「書き手の実体験」が剽窃作品にはありません、そこに本当のリアリティは生まれ得ない。
小説を描きだす場所は、机ではなく実体験と研究調査の現場です。
言葉、文字、文章、そして論文に小説に物語。
どれも形無く触れられない存在です、そして「無形」だからこそ不滅です。
ペンの力は剣より強い、あの格言が謂いたいことはソンナ無形の普遍性に立っています。
感情や感覚、記憶、想い、そうした形も無いモノの瞬間を結晶させる、そんな力が文章です。
だからこそ「言葉は消せない」とも言われます、無形だからこそ心に直接痕跡を残すのが言葉です。
そういう意味をWEBの書き手は、どれだけの方が理解しているのでしょうか?
WEB公開は誰にでも読めてしまいます。
たとえばR18指定にしても18歳未満の方が読んでしまうことが現実に多いです。
そしてWEB小説には選別がありません、印刷の出版物は校閲で公開の可否が選別されますがWEBには無い。
だからこそ書いて公開する人間の「責任」は重い、その現実に匿名性への甘えが許されるのか?
ぶっちゃけね、匿名性に甘ったれた文章を書くなら。
チラシの裏にでも書いていれば良いと思います、エログロとかは特にね。
そういうチラシ作家はBL小説の書き手に多いなあと、それは実際に読んだ感想です。
女性にとってBLが面白いのは、BL=男性だけの世界=女性は責任を持たなくていい世界だからです。
無責任だからストーリーも犯罪性や残虐性の高いモノも多くて、登場人物を玩弄している陰惨が昏いです。
だから現実に同性愛の方は大半がBL小説の愛好家、腐女子を嫌います。取材と称して入りこまれることも侵害と感じるようです。
そうした境界線を引かせているのは、BL特有のファンタジー=虚構性が作りだす偏見と根底の差別にあります。
この為に傷つく人が現実にいて、その加害者に安直な文章がなっている側面を知ってほしいトコです。
こういう少数派マイノリティへの「マイナス要因」に成り得る表現は「偏見」の温床となる現実があります。
もし「BLはファンタジーだから何やってもOK」って発言するなら、それこそ現実逃避の責任逃れです。
どうせ「知らなかったし、自分はそこまで影響力無いからイイじゃん」とか言うんでしょうけど。
無知を盾に責任逃れをする事は人間としても書き手としても馬鹿だと自覚しろ、と。
ホントの責任ある社会人だったら「公共性」ってモンを責任のなか常に考えます。
そうした公共性が欠落しているから「何やってもOK」ってプライド無く言えてしまう。
確かに小説とは、文章表現はある意味で個人的嗜好です。
けれどWEB公開するなら「責任ある」作品だけに自制することは、人間として当然の責務です。
文章は人間の心を明にも暗にも動かすことが出来る、それを理解できない書き手はチラシ作家です。
文章を読んだ人が感じることに「責任」がとれない文章は、書く事へのプライドに懸けて公開すべきではありません。
きっとチラシ作家さんは、こういうこと考えていないんだろうなって思います。
そんな難しいコト考えなくて良いじゃんとか言うのでしょうが、考えること放棄するなら書く資格すら無い。
だってね「書く」は考える「思考」の結果にある、で「読む」も考えるコトです。思考出来ない人間はロクでもない文章しか書けません。
そして、考えることなく書いた文章が無残な影響を招いた時「自分は無罪」って言えるのか?ってことです。
WEBで何げなく書いた一文が事件になる実例は、よくツイッターやスレッド版で問題になりますよね?
小説でもそういう事例は数多いです、たとえば青木ヶ原樹海が自殺の名所になったのは一冊の小説が原因です。
その小説が発行されて数十年が経っています、それでも今、樹海では自殺遺体の発見は哀しい現実です。
おかげで上九一色村の方達は定期的に山狩りを行って、自殺遺体の収容に務めていらっしゃいます。
その小説を書いた作者の意図は「生命力豊かな森に『再生』を懸ける」だったそうです。
けれど小説が招いた現実は「自殺への憧憬」でした、この作者は文豪と呼ばれるほど著名です。
そんな人間が別の意図で書いた文章ですら何十年もの惨劇を生むことがある、この事実をどう考えますか?
きちんと校閲を受けた小説ですらこの結果がある、それならチェックも通らないWEB公開作品はどうなのか?
意図はなく、何げなく書いた文章で破滅した書き手、読み手、いったいどれだけいるのでしょうか?
いまブログにて文章の練習がてら小説を連載していますが、練習でも1つの言葉を大切にします。
ときおり感想やメッセージをコメントやメールで頂くとき、コンナ文章の責任を思うことも大きいです。
いま独りパソコンに向かい文章を綴る、それが会ったことの無い未知の誰かに何か影響を与えて、未知のまま繋がる。
そんな現実は匿名のようで違っている、実態が無いようでWEBに綴られた物語を透して対話しているんですよね。
何げなく書いた文章で破滅した書き手、読み手、いったいどれだけいるのか?
そしてまた赦されて救われて、泣いて笑って生かされる、そんな文章はどれだけ生まれる?
そんなこと思いながら、また今日も続きを書きます。
知っとけ1ブログトーナメント
言葉、文字、文章の存在とリアル
何げなく書いた文章で破滅した書き手、読み手、いったいどれだけいるのでしょうか?
万朶の桜あふれる今日、山に川に、町でも花見客を見かけました。
花に酒や食事を楽しむ、そういう日本って良いなあと思います。
そんな人の中で印象的だったのは携帯電話で桜を撮っていた青年です。
住宅街を奔る線路脇、連なる桜並木を通りがかりに見上げて立ち止まった。
そんな日常の一コマに花を撮る姿と心は、この国らしい優美が穏やかです。
そういう人や花がある国の言葉を綴り、物語を文章に変えて表し書いている。
そんな自分の今あることに、いつもパソコンの前から「文章の責任」を思います。
この文章を透して自分は、明るいプラスになる何かを読む方に手渡せているのか?
読んで温かい気持になれたら良いなあ、など考えながら写真やイラストを貼って物語を綴っています。
文章を読む時間は一瞬です、それでも言葉から受けとめた心は一生になることもあります。
そういう責任とかを想うほど、いつも一言一句どれもが大切です。
そんなふう自分は想うんですけども。
違う人もいるんだなあと、WEBで文章を書く中で知りました。
文章への敬意、リスペクトが無い。それがWEB小説の現実に対する率直な感想です。
剽窃、って言葉をご存知ですか?
文章や設定などを無断借用することを剽窃と言います。
これを本人に借用許可を得たり、引用文として紹介すればOKなのですが、それをしない。
自分のオリジナルのよう見せかけて言葉などを無断使用する、いわゆる著作権侵害にも抵触する行為です。
この剽窃について、大学時代に教授たちは「最も恥ずべき行為」と固く戒めてくれました。
大学とは「文章を書く」ことを学ぶ場でもあるかと思います。
自分も学生時代には何本のレジュメや論文を書いたか?記憶にないほど書きました。
そこで「剽窃」が嫌忌されるのは、誰もが文章を書く喜びと苦しみを実体験で解かるからです。
だから思ってしまいます、きっと剽窃を出来る人間は「文章を書く」意味も存在も何も解っていない。
WEBは匿名性が高いよう勘違いする為でしょうか?
安易な剽窃や盗作がWEB小説は多いと感じますが、それは「文章」と呼べないと思います。
たとえ書店に並んでいなくても、作品である以上はWEB小説も著作権が当然あることが理解できない。
それは「文章」そのものへの敬意=リスペクトが無いから、他者の創作した文章を「盗む」ことをNGだと気付けない。
そういう無神経な剽窃は、本気で文章を書いている人間には出来るはずがありません。
本気で文章を書く人ならば、その言葉を、表現を、一文を綴るまでには努力があります。
その努力はペンを持って(パソコンを打って?)文章を書くことは勿論、現実の経験を積むことも書く上の努力です。
人が小説を書く時、実際に見た・聞いた・触れた実体験を元にして物語の虚構を設定し、文章化します。
人が感じた感情考えた思考を実体験のフィルターに濾過して生み出された文章、それが小説の側面です。
そして読者の方も自身の実体験をベースに文章、小説を読んでいます。
実体験を透って生まれた文章を、実体験の記憶になぞって読む。
それが出来たとき文章は現実感をもって読み手に響き、そこにリアリティは生まれます。
人間が生きていれば様々な経験をする、その経験を文章化すればリアリティは心響くはずです。
どの人間も誰もが一本は名作を書けると思います、それが成功して一作だけだと俗にいう「一発屋」になります。
この一発屋ではなく幾作も名文を生みだしていける人間が、いわゆる文豪と呼ばれ天才とも言われる作家です。
そうした作家たちは多くの実体験と確かな知識を豊かにする努力をしています、その例外はゼロ・皆無です。
文章が面白くある為には面白い実体験は不可欠、それ無くしてリアリティの力ある名文は生まれません。
この「書き手の実体験」が剽窃作品にはありません、そこに本当のリアリティは生まれ得ない。
小説を描きだす場所は、机ではなく実体験と研究調査の現場です。
言葉、文字、文章、そして論文に小説に物語。
どれも形無く触れられない存在です、そして「無形」だからこそ不滅です。
ペンの力は剣より強い、あの格言が謂いたいことはソンナ無形の普遍性に立っています。
感情や感覚、記憶、想い、そうした形も無いモノの瞬間を結晶させる、そんな力が文章です。
だからこそ「言葉は消せない」とも言われます、無形だからこそ心に直接痕跡を残すのが言葉です。
そういう意味をWEBの書き手は、どれだけの方が理解しているのでしょうか?
WEB公開は誰にでも読めてしまいます。
たとえばR18指定にしても18歳未満の方が読んでしまうことが現実に多いです。
そしてWEB小説には選別がありません、印刷の出版物は校閲で公開の可否が選別されますがWEBには無い。
だからこそ書いて公開する人間の「責任」は重い、その現実に匿名性への甘えが許されるのか?
ぶっちゃけね、匿名性に甘ったれた文章を書くなら。
チラシの裏にでも書いていれば良いと思います、エログロとかは特にね。
そういうチラシ作家はBL小説の書き手に多いなあと、それは実際に読んだ感想です。
女性にとってBLが面白いのは、BL=男性だけの世界=女性は責任を持たなくていい世界だからです。
無責任だからストーリーも犯罪性や残虐性の高いモノも多くて、登場人物を玩弄している陰惨が昏いです。
だから現実に同性愛の方は大半がBL小説の愛好家、腐女子を嫌います。取材と称して入りこまれることも侵害と感じるようです。
そうした境界線を引かせているのは、BL特有のファンタジー=虚構性が作りだす偏見と根底の差別にあります。
この為に傷つく人が現実にいて、その加害者に安直な文章がなっている側面を知ってほしいトコです。
こういう少数派マイノリティへの「マイナス要因」に成り得る表現は「偏見」の温床となる現実があります。
もし「BLはファンタジーだから何やってもOK」って発言するなら、それこそ現実逃避の責任逃れです。
どうせ「知らなかったし、自分はそこまで影響力無いからイイじゃん」とか言うんでしょうけど。
無知を盾に責任逃れをする事は人間としても書き手としても馬鹿だと自覚しろ、と。
ホントの責任ある社会人だったら「公共性」ってモンを責任のなか常に考えます。
そうした公共性が欠落しているから「何やってもOK」ってプライド無く言えてしまう。
確かに小説とは、文章表現はある意味で個人的嗜好です。
けれどWEB公開するなら「責任ある」作品だけに自制することは、人間として当然の責務です。
文章は人間の心を明にも暗にも動かすことが出来る、それを理解できない書き手はチラシ作家です。
文章を読んだ人が感じることに「責任」がとれない文章は、書く事へのプライドに懸けて公開すべきではありません。
きっとチラシ作家さんは、こういうこと考えていないんだろうなって思います。
そんな難しいコト考えなくて良いじゃんとか言うのでしょうが、考えること放棄するなら書く資格すら無い。
だってね「書く」は考える「思考」の結果にある、で「読む」も考えるコトです。思考出来ない人間はロクでもない文章しか書けません。
そして、考えることなく書いた文章が無残な影響を招いた時「自分は無罪」って言えるのか?ってことです。
WEBで何げなく書いた一文が事件になる実例は、よくツイッターやスレッド版で問題になりますよね?
小説でもそういう事例は数多いです、たとえば青木ヶ原樹海が自殺の名所になったのは一冊の小説が原因です。
その小説が発行されて数十年が経っています、それでも今、樹海では自殺遺体の発見は哀しい現実です。
おかげで上九一色村の方達は定期的に山狩りを行って、自殺遺体の収容に務めていらっしゃいます。
その小説を書いた作者の意図は「生命力豊かな森に『再生』を懸ける」だったそうです。
けれど小説が招いた現実は「自殺への憧憬」でした、この作者は文豪と呼ばれるほど著名です。
そんな人間が別の意図で書いた文章ですら何十年もの惨劇を生むことがある、この事実をどう考えますか?
きちんと校閲を受けた小説ですらこの結果がある、それならチェックも通らないWEB公開作品はどうなのか?
意図はなく、何げなく書いた文章で破滅した書き手、読み手、いったいどれだけいるのでしょうか?
いまブログにて文章の練習がてら小説を連載していますが、練習でも1つの言葉を大切にします。
ときおり感想やメッセージをコメントやメールで頂くとき、コンナ文章の責任を思うことも大きいです。
いま独りパソコンに向かい文章を綴る、それが会ったことの無い未知の誰かに何か影響を与えて、未知のまま繋がる。
そんな現実は匿名のようで違っている、実態が無いようでWEBに綴られた物語を透して対話しているんですよね。
何げなく書いた文章で破滅した書き手、読み手、いったいどれだけいるのか?
そしてまた赦されて救われて、泣いて笑って生かされる、そんな文章はどれだけ生まれる?
そんなこと思いながら、また今日も続きを書きます。
知っとけ1ブログトーナメント