希望、生命の断崖

第64話 富岳act.6―another,side story「陽はまた昇る」
昼下りの窓から陽射しふる静謐にページ繰る音が優しい。
応接テーブル挟んだ向かい、白衣姿の手はファイルを捲ってゆく。
そのページ奔らす視線の動きが速くて、素直な賛嘆に周太はため息吐いた。
―すごく読むのが速いな、雅人先生…それだけ理解力も速くて頭良いんだ、
あらためて医師の優秀さを見つめる向かい、捲るファイルは最終ページに辿り着く。
そして奔る視線にファイルは閉じられて、穏やかな声が愉しそうに笑ってくれた。
「すごいですね、このファイル。応急処置がよくまとまってる、銃創の手当てまであるのがスゴイな、警察官らしいよ、」
褒めてもらえた、それが素直に嬉しい。
嬉しくて周太はファイル作成者のことを想い、雅人医師へ微笑んだ。
「これ、英二が、あ、宮田が作ってくれたんです。勉強の参考にって、」
「宮田くんか、なるほどね、」
納得だな?そんな笑顔ほころんでファイルを開いてくれる。
そのページを広げたままテーブルに置き、長い指が紙面をなぞった。
「この銃創の資料、父が作った資料と似てるなって思ったんだ。宮田くんなら父の教え子だからね、納得だよ、」
「はい、」
嬉しく頷いてファイルを覗きこむ。
そんな周太に雅人医師は微笑んで穏やかな声に教えてくれた。
「でもな、銃創は実際に手当てするとなると難しいんだ。なにせ経験も症例も少ないよ、俺もまだ1回しかない。父なら何回もあるけど、」
「そうなんですか?」
すこし驚いて訊き直してしまう。
この国で銃創の処置経験が何度もある医師は珍しい、その驚きに雅人は頷いた。
「父はアメリカに留学時代、大学附属病院のERにいたんだよ。アメリカは銃社会だからな、そこで何度か銃創処置をやってるんだ、
それに奥多摩も害獣駆除とかで猟銃をつかうだろう?今年も1件、流れ弾に当たった擦過射創を宮田くんが応急処置して父が処置してる。
ちょうど俺は出張中で立ち会えなかったんだけどね、後で父から色々と聴かせてもらったよ。宮田くんの手当は良かったってすごく褒めてた、」
そんなことがあったんだ?
いま知らされた英二の経験値に驚いてしまう、そのまま質問に周太は口を開きかけた。
けれどデスクの電話が鳴りだして、白衣姿は立ちあがると子機を取った。
「はい、…解かりました、すぐ搬送して下さい、」
短い応答に電話を切ってすぐ、雅人は白衣を脱いだ。
そのままロッカーへ歩いて青い服を出しながら、困ったよう悪戯っ子の目が笑った。
「噂をすればってヤツだ、湯原くん。ここに銃創患者が運ばれてくるよ、また流れ弾だけど盲管射創らしい、」
今、ここに銃創患者が来る。
―こんな偶然ってあるの?
驚きが声を消して手術衣に着替える医師を見つめてしまう。
そんな周太へと若い医師は真直ぐ瞳を向けて尋ねた。
「湯原くん、怪我人の応急処置の経験はある?血を見ても大丈夫?」
「あ、はい、大丈夫です、」
声に引き戻され頷くと明るい瞳が笑ってくれる。
そのまま扉を指さした仕草に立ち上がった周太に、雅人は言ってくれた。
「手術のモニタリングルームで見てると良い、実際の銃創処置を現場で見ることは君の役に立つんだろ?」
リアルタイムで銃創処置を見せてもらえる、こんなチャンスはきっと現場に立つまで無い。
そして遠慮する暇も自分には残されていない、その判断にファイルとペンを抱えた。
「はい、よろしくお願いします、」
「よし、行くよ?」
さらり笑って院長室の扉を開いて、その眼前に驚いた貌が現われた。
当に鉢合わせしそうな至近距離、手術衣姿の鹿野が緊張のまま微笑んだ。
「失礼しました。あの、大先生は今、戻れないそうです、」
「父が、なぜ?」
廊下を歩きながら答える声に微かな緊張が奔る。
その隣を小走りに歩きながら鹿野は落着いた声で報告した。
「往診中に堀内さんが破水されたそうです、もう頭も出始めています、予定日より10日早いのですが、」
「お産か、」
短く応えた瞳が一瞬だけ困ったよう笑い、けれど真直ぐ視線は廊下の先を見る。
その視線が周太と鹿野を振り向いて、迷わない声が指示を出した。
「鹿野さん、湯原くんに手術衣の一式を着せて下さい。一緒に入室して貰います、」
「え、」
予想外の指示にこぼれた声が二つ重なって、周太と鹿野は顔を見合わせた。
途惑うまま廊下を歩いていく隣から、若い院長は困ったよう微笑んだ。
「湯原くんの記憶力は抜群だって父から聴いてるよ、だったらさっきのファイルの中身も全部覚えているんだろう?それで援けてほしいんだ、
俺も銃創の処置は父のサポートで1回経験しただけで自信なんか無い、でも迷った時に湯原くんに症例を教えて貰えたら心強いだろ?頼むよ、」
頼むよ、
そう言って笑ってくれる貌に頷きたくなる。
そして自分がこの医師を援けられる可能性が嬉しい、周太は覚悟と一緒に頷いた。
「はい、僕で良かったら使って下さい、」
「よし、鹿野さん頼んだよ?」
笑って雅人は廊下の奥へと駈け出した。
そこへ同じ青い手術着姿が1人駆け寄り共に扉の向こうへ入っていく。
あわただしくなる空気を見つめながら周太は、鹿野に付いて廊下を駈け出した。
ふたり並んで進みながら優しい声は微笑んで、申し訳なさそうに言ってくれた。
「湯原くん、急に色々ごめんなさいね、でも手術室に入るなんてしっかりしてるのね、医学部志望なの?」
褒めてくれるのは嬉しい、けれどまた間違われている?
もう大学でも慣れっこになった反応に周太は笑ってしまった。
「僕、警察官なんです。それで英、宮田の応急処置に立ち会ったことがあるんです、」
「えっ、ごめんなさい!高校生だと思ってたわ、すみません、」
扉を開きながら明るい瞳が周太を見、驚いたまま謝ってくれる。
きっと幾つも年下だと思い込んでいた、そんな容子が可笑しくて笑いながら周太は訊いてみた。
「鹿野さんこそ看護師さんだったんですか?手術の恰好してるけど、」
「臨床工学技師です、午前中は事務方が主だけど午後は本業メインなの。はい、これ、」
笑って答えてくれながらロッカーを開き、青い服を渡してくれる。
その日焼あわい手は爪が短く切られてマニキュアも無い、この指先に彼女の姿勢が見える。
―…先生のこと好きになって、お手伝いしたいって思ったんです…大学で勉強しながら秘書検や医療事務を身につけてね、
昼食の時に語ってくれた彼女の軌跡は、きっと容易くなかった。
そこまでして鹿野が雅人を慕い手伝おうとするのは「好き」だけが理由だろうか?
―雅人先生がお姉さんの最期を幸せにしてくれたって言ってた、それってどういうことなのかな?
思案しながらもすぐ手術衣に着替え終えてファイルを抱える。
そんな周太に振り向いた鹿野は楽しげに笑いながら、また扉を開いた。
「着替えるのホント速いですね、警察官の方とかは速いって聴いたことあるけど、」
「はい、皆すごく速いです、」
答えながら出た廊下にサイレンの音が響きだす。
すぐ窓には赤い点滅が映りだし外の喧騒が起き、若い横顔は緊張に微笑んだ。
「来たわね、さあ手術エリアに入るわよ?」
日焼あわい貌は凛と笑み、そして開いてくれた扉は二重構造になっていた。
その向こうへ一緒に入ると手洗い場に立ち、鹿野は説明と微笑んだ。
「まず肘の上まで水洗いしてください、次にこの洗剤で手指から掌、手の甲、手首、肘の上までを洗います。そうしたら消毒の洗剤です。
このブラシに洗剤を取ったら指の間や爪の間も残さずに、掌と手の甲、手首から肘の上までを残らずに全部、細かく丁寧にゴシゴシ洗います。
それから泡を洗い流してくださいね、こちらの専用使い捨てタオルで手の先から肘に向かって順番にふきますから。あと何も触らないで下さいね、」
細かな指示通りに肘まで洗って殺菌していく。
この作業は青梅署診察室で英二や吉村医師がするのと似ている。
そんな「似ている」に懐かしさを想いながらも周太は、これからの時間へ緊張ごと深呼吸した。
(to be continued)
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第64話 富岳act.6―another,side story「陽はまた昇る」
昼下りの窓から陽射しふる静謐にページ繰る音が優しい。
応接テーブル挟んだ向かい、白衣姿の手はファイルを捲ってゆく。
そのページ奔らす視線の動きが速くて、素直な賛嘆に周太はため息吐いた。
―すごく読むのが速いな、雅人先生…それだけ理解力も速くて頭良いんだ、
あらためて医師の優秀さを見つめる向かい、捲るファイルは最終ページに辿り着く。
そして奔る視線にファイルは閉じられて、穏やかな声が愉しそうに笑ってくれた。
「すごいですね、このファイル。応急処置がよくまとまってる、銃創の手当てまであるのがスゴイな、警察官らしいよ、」
褒めてもらえた、それが素直に嬉しい。
嬉しくて周太はファイル作成者のことを想い、雅人医師へ微笑んだ。
「これ、英二が、あ、宮田が作ってくれたんです。勉強の参考にって、」
「宮田くんか、なるほどね、」
納得だな?そんな笑顔ほころんでファイルを開いてくれる。
そのページを広げたままテーブルに置き、長い指が紙面をなぞった。
「この銃創の資料、父が作った資料と似てるなって思ったんだ。宮田くんなら父の教え子だからね、納得だよ、」
「はい、」
嬉しく頷いてファイルを覗きこむ。
そんな周太に雅人医師は微笑んで穏やかな声に教えてくれた。
「でもな、銃創は実際に手当てするとなると難しいんだ。なにせ経験も症例も少ないよ、俺もまだ1回しかない。父なら何回もあるけど、」
「そうなんですか?」
すこし驚いて訊き直してしまう。
この国で銃創の処置経験が何度もある医師は珍しい、その驚きに雅人は頷いた。
「父はアメリカに留学時代、大学附属病院のERにいたんだよ。アメリカは銃社会だからな、そこで何度か銃創処置をやってるんだ、
それに奥多摩も害獣駆除とかで猟銃をつかうだろう?今年も1件、流れ弾に当たった擦過射創を宮田くんが応急処置して父が処置してる。
ちょうど俺は出張中で立ち会えなかったんだけどね、後で父から色々と聴かせてもらったよ。宮田くんの手当は良かったってすごく褒めてた、」
そんなことがあったんだ?
いま知らされた英二の経験値に驚いてしまう、そのまま質問に周太は口を開きかけた。
けれどデスクの電話が鳴りだして、白衣姿は立ちあがると子機を取った。
「はい、…解かりました、すぐ搬送して下さい、」
短い応答に電話を切ってすぐ、雅人は白衣を脱いだ。
そのままロッカーへ歩いて青い服を出しながら、困ったよう悪戯っ子の目が笑った。
「噂をすればってヤツだ、湯原くん。ここに銃創患者が運ばれてくるよ、また流れ弾だけど盲管射創らしい、」
今、ここに銃創患者が来る。
―こんな偶然ってあるの?
驚きが声を消して手術衣に着替える医師を見つめてしまう。
そんな周太へと若い医師は真直ぐ瞳を向けて尋ねた。
「湯原くん、怪我人の応急処置の経験はある?血を見ても大丈夫?」
「あ、はい、大丈夫です、」
声に引き戻され頷くと明るい瞳が笑ってくれる。
そのまま扉を指さした仕草に立ち上がった周太に、雅人は言ってくれた。
「手術のモニタリングルームで見てると良い、実際の銃創処置を現場で見ることは君の役に立つんだろ?」
リアルタイムで銃創処置を見せてもらえる、こんなチャンスはきっと現場に立つまで無い。
そして遠慮する暇も自分には残されていない、その判断にファイルとペンを抱えた。
「はい、よろしくお願いします、」
「よし、行くよ?」
さらり笑って院長室の扉を開いて、その眼前に驚いた貌が現われた。
当に鉢合わせしそうな至近距離、手術衣姿の鹿野が緊張のまま微笑んだ。
「失礼しました。あの、大先生は今、戻れないそうです、」
「父が、なぜ?」
廊下を歩きながら答える声に微かな緊張が奔る。
その隣を小走りに歩きながら鹿野は落着いた声で報告した。
「往診中に堀内さんが破水されたそうです、もう頭も出始めています、予定日より10日早いのですが、」
「お産か、」
短く応えた瞳が一瞬だけ困ったよう笑い、けれど真直ぐ視線は廊下の先を見る。
その視線が周太と鹿野を振り向いて、迷わない声が指示を出した。
「鹿野さん、湯原くんに手術衣の一式を着せて下さい。一緒に入室して貰います、」
「え、」
予想外の指示にこぼれた声が二つ重なって、周太と鹿野は顔を見合わせた。
途惑うまま廊下を歩いていく隣から、若い院長は困ったよう微笑んだ。
「湯原くんの記憶力は抜群だって父から聴いてるよ、だったらさっきのファイルの中身も全部覚えているんだろう?それで援けてほしいんだ、
俺も銃創の処置は父のサポートで1回経験しただけで自信なんか無い、でも迷った時に湯原くんに症例を教えて貰えたら心強いだろ?頼むよ、」
頼むよ、
そう言って笑ってくれる貌に頷きたくなる。
そして自分がこの医師を援けられる可能性が嬉しい、周太は覚悟と一緒に頷いた。
「はい、僕で良かったら使って下さい、」
「よし、鹿野さん頼んだよ?」
笑って雅人は廊下の奥へと駈け出した。
そこへ同じ青い手術着姿が1人駆け寄り共に扉の向こうへ入っていく。
あわただしくなる空気を見つめながら周太は、鹿野に付いて廊下を駈け出した。
ふたり並んで進みながら優しい声は微笑んで、申し訳なさそうに言ってくれた。
「湯原くん、急に色々ごめんなさいね、でも手術室に入るなんてしっかりしてるのね、医学部志望なの?」
褒めてくれるのは嬉しい、けれどまた間違われている?
もう大学でも慣れっこになった反応に周太は笑ってしまった。
「僕、警察官なんです。それで英、宮田の応急処置に立ち会ったことがあるんです、」
「えっ、ごめんなさい!高校生だと思ってたわ、すみません、」
扉を開きながら明るい瞳が周太を見、驚いたまま謝ってくれる。
きっと幾つも年下だと思い込んでいた、そんな容子が可笑しくて笑いながら周太は訊いてみた。
「鹿野さんこそ看護師さんだったんですか?手術の恰好してるけど、」
「臨床工学技師です、午前中は事務方が主だけど午後は本業メインなの。はい、これ、」
笑って答えてくれながらロッカーを開き、青い服を渡してくれる。
その日焼あわい手は爪が短く切られてマニキュアも無い、この指先に彼女の姿勢が見える。
―…先生のこと好きになって、お手伝いしたいって思ったんです…大学で勉強しながら秘書検や医療事務を身につけてね、
昼食の時に語ってくれた彼女の軌跡は、きっと容易くなかった。
そこまでして鹿野が雅人を慕い手伝おうとするのは「好き」だけが理由だろうか?
―雅人先生がお姉さんの最期を幸せにしてくれたって言ってた、それってどういうことなのかな?
思案しながらもすぐ手術衣に着替え終えてファイルを抱える。
そんな周太に振り向いた鹿野は楽しげに笑いながら、また扉を開いた。
「着替えるのホント速いですね、警察官の方とかは速いって聴いたことあるけど、」
「はい、皆すごく速いです、」
答えながら出た廊下にサイレンの音が響きだす。
すぐ窓には赤い点滅が映りだし外の喧騒が起き、若い横顔は緊張に微笑んだ。
「来たわね、さあ手術エリアに入るわよ?」
日焼あわい貌は凛と笑み、そして開いてくれた扉は二重構造になっていた。
その向こうへ一緒に入ると手洗い場に立ち、鹿野は説明と微笑んだ。
「まず肘の上まで水洗いしてください、次にこの洗剤で手指から掌、手の甲、手首、肘の上までを洗います。そうしたら消毒の洗剤です。
このブラシに洗剤を取ったら指の間や爪の間も残さずに、掌と手の甲、手首から肘の上までを残らずに全部、細かく丁寧にゴシゴシ洗います。
それから泡を洗い流してくださいね、こちらの専用使い捨てタオルで手の先から肘に向かって順番にふきますから。あと何も触らないで下さいね、」
細かな指示通りに肘まで洗って殺菌していく。
この作業は青梅署診察室で英二や吉村医師がするのと似ている。
そんな「似ている」に懐かしさを想いながらも周太は、これからの時間へ緊張ごと深呼吸した。
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