俤の場所、幸運の遭遇
第64話 富岳act.8―another,side story「陽はまた昇る」
見慣れた田園と森の道は、初めて見る色彩に輝きわたる。
森ゆれる風に緑の豊穣薫る、その裾から青い水田ひろやかに稲穂の波が陽光ひるがえす。
ゆっくり息を吸って吐く、その肺と気管支の感覚に微笑んで周太はオレンジ色のパッケージを取出した。
―すこしでも喉とかの負担を無くさないとね?
さっき教えられた注意を想い、馴染んだオレンジと蜂蜜の香を唇に含む。
爽やかな甘さを口に転がしながら歩いてゆく、その道の明るい照り返しがなんだか楽しい。
こんなふう軽やかな気持で今いられるのは雅人医師のお蔭だ、その感謝と笑って周太は懐かしい駐在所を覗きこんだ。
「こんにちは、」
呼びかけた声に、奥の扉開いてくれる。
すぐ現われたブルーの制服姿は日焼顔を向け、すこし微笑んだ。
「はい、何かお困りですか?」
初対面の貌はどちらかと言えば仏頂面、けれど深く俊敏な瞳は温かい。
それが想う人の初対面とは正反対で逆に想いだす。
―英二は愛想のいい笑顔だった、でも…冷たい目は泣いてた、ね
もう1年半前になる瞬間へ、ふっと戻される。
けれど今ここに来た目的を思い出して周太は山ヤらしい青年に笑いかけた。
「すみません、岩崎さんはいらっしゃいますか?湯原と伝えて頂けたら解かると思うんですけど、」
笑いかけた先、精悍な眼差しが真直ぐ周太を見た。
初めて会う瞳はぶっきらぼうなよう見えて底が優しい、そして篤実が温かい。
―この人が今、英二とパートナー組んでいる人なんだね
初対面の貌は不器用そうで律儀、口重たそうでも朴訥が大らかに明るい。
そんな印象を見つめる周太に低い声が尋ねてくれた。
「湯原さんって、もしかして射撃大会で優勝した?」
「あ、…はい、」
自分のことを知っていた?
意外な展開にすこし途惑いかけた時、奥の扉が開いた。
そして現われた山岳救助隊服姿は周太を見、からり微笑んだ。
「お、湯原くんじゃないか、」
懐かしい声が日焼顔ほころばせてくれる。
3ヶ月ぶりになる再会が嬉しくて周太は室内礼で笑いかけた。
「ご無沙汰しています、岩崎さん、」
「ああ、久しぶりだな。ちょっと痩せたろ?日焼もして精悍な顔になってるぞ、」
気さくなトーンが給湯室へ戻りながら笑ってくれる。
その動きに気がついて周太は頼もしい背中を追いかけ微笑んだ。
「岩崎さん、僕が淹れさせてもらっても良いですか?」
「ありがとう、湯原くんの茶は嬉しいよ、っと」
言いかけて気がついたよう岩崎は周太の肩を軽く叩き、表へ押し出してくれる。
そして制服姿の精悍な貌と周太を見比べながら、可笑しそうに笑ってくれた。
「まだ自己紹介してないんだろ?二人とも人見知りの方だからな、」
そう言えば名乗りをしていない。
私服姿の気楽さと手術立会後の緩みに、つい油断してしまった?
こんな迂闊に気がついて周太はすぐ青い制服姿へ向き直り、端正な室内礼で微笑んだ。
「ご挨拶が遅れてすみません、第七機動隊銃器対策レンジャー所属の湯原です、」
「あ…知ってます、」
ぼそり答える声はぶっきらぼうに聴こえて、けれど少し羞んでいる。
どうやら岩崎の言うように自分に劣らず人見知りな方らしい?
そんな共通点に微笑んだ周太に精悍な瞳が少し笑った。
「原です、7月まで七機の山岳救助レンジャーにいました、」
笑うと懐っこい印象こぼれだす。
その明るさは不器用なまま優しくて、なにか嬉しくて微笑んだ向こうガラス扉が開いた。
「アレ、周太のが先だったね。岩崎さん、さっきはドウも、」
テノールが歌うよう笑ってパーカー姿の長身が入ってくる。
底抜けに明るい瞳が駐在所を見渡す、そんな視線に岩崎は笑った。
「おう、国村。さっきはありがとうよ、休みで帰って来てるのに悪かったな?」
「救助隊に休みなんてね、現場近くにいたら無いのが普通でしょ?」
いつもの明るいトーンに笑って光一は元上司の前に立った。
その明快な声に青い制服姿はそっと背筋を伸ばして、精悍な瞳が微かに息呑んだ。
―あ、原さん、ちょっと緊張してるの?
いま現われた緊張感は多分、光一に向かうものだろう。
その理由が今はもう自分にも解る、いつも七機の日常で見る眼差しと原は同じだ。
こんな視線の中心に幼馴染があることが不思議で、けれど納得する思いの向こうテノールが笑った。
「原さんとは、ちゃんと話すのは初めてですね?いつも俺の宮田が世話になっています、」
今、なんて言ったの?
―俺の、って言ったよね?
そんなこと言うなんて鼓動がひっくり返りそう。
もしもアイガーの夜に気づかれたら困るんじゃないだろうか?
そんな心配と予想外の台詞に見つめた先、底抜けに明るい目が笑っている。
けれど原は温かい仏頂面のまま少し考え込んで、変らないトーンの低い声で応えた。
「こちらこそ世話になっています、」
「ふうん、だろね?」
可笑しそうにテノールが笑って日焼顔を覗きこむ。
その視線にすこし途惑うよう顎引いた原に、悪戯っ子の瞳は笑いかけた。
「で、今日は原さんに事情聴取に来たんだけどね?ちゃんと答えてくれるかな、ねえ?」
ねえ?
なんて語尾が出る時の光一は、怒っているか企んでいるかの二択だ。
いったい今はどちらだろう?そう見つめる向うで幼馴染は楽しげに笑った。
「ほら周太、茶を淹れてくんない?4人前よろしくね、」
「あ、はい、」
幾らか気を呑まれながら答えた先、雪白の貌は機嫌よく笑って奥へと踵返していく。
その後を青い制服姿は付いて行きながら岩崎を見、その眼差しに頷きながら御岳駐在所長は笑った。
「休憩して来て良いぞ、原。国村、あんまり虐めるんじゃないぞ?」
「あれ、俺がイジメるだなんて人聞き悪いですね?」
からり明朗なテノールは答えて休憩室に入った。
そのまま原が引っ張り込まれ扉が閉まると、可笑しそうに岩崎は笑った。
「あははっ、原のヤツちょっと怯えてたな?まあ国村相手じゃ仕方ないけど、」
やっぱり原はすこし緊張していたらしい。
そんな事実に今朝の会話を確かめたくて、周太は尋ねてみた。
「国村さん、事情聴取って七機のことでしょうか?」
「ああ、たぶんな、」
答えながら岩崎は表の椅子を引くと腰を下ろした。
その膝に軽く掌組むと奥の扉を見、幾らか低めた声で周太に微笑んだ。
「同じ七機だもんな、色々と湯原くんも見聞きしてるんだろ?あいつの立場のこともさ、」
「はい、」
素直に頷いて周太は幼馴染の元上司を見つめた。
視線の先で岩崎はゆっくり瞬き一つして、低い声のまま尋ねてきた。
「9割は心酔して指示が固まっている、でも残り1割がしぶとい。そんなとこだろ?」
岩崎が言う通り、第七機動隊における山岳救助レンジャー第2小隊の新小隊長はそんな立場にある。
この1割について七機全体でも噂になりだした、その事実に周太は困りながら微笑んだ。
「はい、僕の所属する銃器でも噂で聴きます、」
「そうか、銃器でも言われてるほどなんだな、」
溜息ごと笑って岩崎は立ち上がると、給湯室に並んで入ってくれる。
そして急須をとる周太の隣から落着いた声が話してくれた。
「その1割の核になっているヤツはな、確かに優秀な山ヤで優秀な警察官だよ。山はインターハイでの入賞から色んな実績がある。
卒配から五日市に行って1年で七機に移ってな、海外の遠征訓練も成績が良い、山エリートって感じだよ。大学も成績良かったらしい。
警察学校でも場長を務めてな、入校からずっと上位クラスをキープしてた。面倒見も悪くない、カリスマ性もある、だが警部補の試験に落ちた、」
ずっと好成績でエリートの立場にあった、けれど警部補昇進試験に落ちた。
そのとき彼が何を感じたのか少し自分には解るかもしれない。
―きっとプライドが挫かれたんだ、俺がそうだったみたいに、
警察学校でも自分は確かに首席だった。
けれど本当は警察官の適性が最も無いと思い知らされた、そしてプライドは壊れた。
それから同期の全員が羨ましくて、何も無い自分が悔しくて十三年の目的にすら怯え始めた。
そんな自信喪失を突きつけられた相手は誰よりも、唯ひとり想う相手だったことが皮肉で、そして眩しい。
―誰よりも英二のことが羨ましかったんだ…だから、あの時も本当に悔しかった、ね
あのとき、冬富士の雪崩に遭った英二と再会した後の夜。
あの夜の恐怖は今も本当は残っている、それは英二に対してだけじゃない。
きっと、男としてのプライドを砕かれても選んでしまうだろう自分が何より怖かった。
男であること、父の息子であること、その全てを唯ひとりの為に棄てるかもしれない?
そんな予兆が怖かった。
そんなふう唯ひとりに全てを懸けたなら、また十歳になる春と同じことを繰り返す?
また喪う瞬間が来る、そして自分自身すら記憶ごと失ってしまう、そんな可能性が怖くて哀しい。
そんな恐怖をも相手に押しつける?そんな可能性こそが何よりも哀しくて怖くて、けれど今は違う。
―植物学があるから、賢弥も美代さんも居てくれるから、青木先生が信じてくれるから、もう、独りでも立てる、
樹木医になりたい、
この夢が蘇えった瞬間に、自分の深くから背骨が真直ぐ徹った。
目的でも義務でも無い、ただ自分が夢見て望む世界の扉を開けられた。
そこに生きることを始められたから今、警察官の世界で抱えた羨望も卑屈も超えられる。
―でも、もしも自分の夢に見た世界でプライドをくじかれたら、きっと辛い
きっと今「1割の核」である男は、苦しんでいる。
彼には別の道はたぶん無い、そこが夢と見つめた世界なら。
自分のように本当の夢が隠れていたのとは違う、そこでプライドが壊れても逃げられない。
そんな彼が光一という天才と向きあう時なにを想うのか?その思案に茶を淹れる隣から岩崎が尋ねた。
「湯原くん、今日は宮田がいないのに来たのは、吉村先生のとこ?」
聴かれた問いかけに鼓動、ひとつ打って緊張こみあげる。
この体のことが岩崎には解ってしまったろうか、けれど岩崎の前では咳していない。
きっと喘息ことには気づかずに言っている、そう想い直し周太は湯呑を手に微笑んだ。
「はい、救急法のおさらいをさせて頂こうと思ってきました、」
「そうか、銃器対策だと応急処置とかあるかもしれないな。じゃあ吉村先生の病院にいたのか?」
気さくに聴いてくれながら岩崎は表の椅子に座り、隊服姿の足を組んだ。
その脚包んだスラックスのカーキ色が一部どす黒い、そして気がついたまま聞いてみた。
「はい、雅人先生に資料を見せて頂いていました。あの、銃創の方を救助されたの岩崎さんですか?」
「そうだよ、」
気軽に笑って頷いてくれる。
机上へ用紙を出しながら岩崎は振向くと、さらり答えてくれた。
「でもな、あの応急処置をしてくれたのは国村なんだ、」
光一が今日も救助隊を手伝っていた?
予想外の答えに瞳瞬いた向こう、御岳駐在所長は教えてくれた。
「国村は自分の家の山と、吉村先生の山林と両方の管理をしているんだよ。でな、今日は吉村先生の山に国村は入ってたんだよ。
その近くで誤射があったんだ、いつもの有害獣駆除だが都会のハンターさんがミスしてな。その銃声を聞いて急行してくれたんだ、」
銃創の処置は普通、経験が無いと難しい。
けれど光一なら出来ても納得できる、そしてチャンスが与えて貰えたのかもしれない。
―今日の処置を光一に聴いてみよう、きっと役に立つよね、
自分も今日は雅人の傍らで手術の様子は見た。
あのファイルに纏めた盲管射創の項目を記憶から読み上げ、それを現実の傷と照合する雅人の判断を聴いている。
あのとき見聞きした全ては日本において希少な手術だろう、けれど自分により必要なのは銃創の応急処置になる。
それを今日の現場で行ったのが幼馴染であることは、きっと幸運のチャンスが近づいた。
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