萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第64話 富嶽act.7―side story「陽はまた昇る」

2013-05-13 20:34:14 | 陽はまた昇るside story
最高峰の記憶、その真相



第64話 富嶽act.7―side story「陽はまた昇る」

吉田口五合目、4ヶ月ぶりの山小屋は緑翳す陽光に立っていた。
雪まとわない姿は初対面のよう鮮やかで、けれど記憶のままに懐かしい。
これで3回目になる訪問に微笑んで扉開くと、野太い声が出迎えてくれた。

「おう、宮田くん。待ってたよ、」
「お久しぶりです、お世話になります、」

笑顔で応えて入っていく後ろから、ゆっくり足音もう1つ続いてくれる。
そして小屋の中ふたり並んだ隣を見、小屋主は日焼顔ほころばせ腕を広げた。

「後藤さんじゃないか!なんだ、宮田くんの連れって後藤さんだったのかい?」
「ほい、俺だよ?今夜はよろしくなあ、」

のどやかに笑って後藤も腕を広げ、その頼もしい両手を主人の肩においた。
ぽん、軽やかな音に呼応するよう小屋主も後藤の肩に手を置いて、旧知の山ヤ同士は笑った。

「久しぶりだなあ、後藤さんが夏の富士に来るなんて。何年ぶりだい?」
「俺も自分で覚えていないよ、冬は4年前に来たと思うが、」
「ああ、冬に来たな。蒔田くんと一緒だった、彼は元気にしてるかね?」
「元気だが忙しくってなあ?パートナーのあいつが忙しい所為で俺もな、プライベートは登っていないんだよ、」
「そりゃあ寂しいな、後藤さんが来ないって色んな山が寂しがってるだろうに?」

愉しげに笑いあう二人は屈託ない。
けれど後藤の現実を知る心は軋みかける、その傷みにも微笑んだ英二に声がかけられた。

「お久しぶりです、宮田さん、」

若い声に振りかえるとエプロンをした日焼顔が笑ってくれる。
これも3回目になる対面に英二は懐かしく笑いかけた。

「こんにちは、上田くんですよね?」
「はい、救助して頂いた上田です。本当にお世話になりました、」

嬉しそうに日焼顔ほころばせ頭下げてくれる、その体躯が前より逞しい。
初対面の1月を想い、2度めだった4月を考えながら英二は笑いかけた。

「大学の夏休みでバイトに?」
「そうです、またバイトに入れてもらってます。こちらにお名前を書いていただけますか?」

笑って答えながら帳面とペンを出してくれる、そんな物腰も4月より慣れた。
きっと忙しかったのだろう日々を想い、ペンを奔らせながら訊いてみた。

「夏休みはここも忙しかったでしょう?」
「はい、でも常連さんが多かったので教えてもらうことが沢山できました。合間には清掃登山しながら天辺にも行ってきたんです、」
「あ、もしかして富士初登頂?」
「はい、行ってきました。やっぱり高いですよね、」

帳面を書きながら話す彼の貌は前よりも頼もしい。
あの1月に出会った時とは別人のよう日焼の明るい貌はもう、山の男だろう。
そんな感想が嬉しく話しながらも我が身を想い、英二は微笑んだ。

「上田さん、4月の時より良い貌になったって常連さんとかに言われませんか?」
「言われます、オヤジさんにはまだ甘ったれの貌だって笑われますけどね。あ、今日の部屋は前と同じとこです、」

今日の部屋は前と同じところ。
その意味に感謝して英二は小屋主へ笑いかけた。

「オヤジさん、また個室をお借りして良いんですか?」
「もちろんだよ、宮田くんは俺と上田の恩人だからな。今夜はあと4組ほど泊まるが、ゆっくりしていってくれ、」

野太い声は朗らかに笑ってくれる。
その笑顔と心遣いに感謝して英二は、後藤と共に部屋へ入った。
登山ザックを下ろしテルモスの水を飲み、一息ついて携帯電話の電源をONにする。
そしてすぐ着信したメールを開封して、思わず声が出た。

「周太?」

From :湯原周太
subject:奥多摩に行きます
本 文 :おはようございます、富士の天気はどうですか?
     今日は休みになったので吉村先生に会いに行きます、質問があるんだ。夕方には帰ります。

―質問って周太、銃創のことか?それとも他の何か?だけど俺の居ない時に来るなんて、どうして、

メール文から読みとれる情報を探り、逢いたい人の意図を探ってしまう。
どうして唯一の留守日に周太は奥多摩へ来たのか、それは偶然に休暇が取れただけだろうか?
その理由も吉村医師に聴けば解かるかもしれない、そんな思案と携帯電話見つめる向かいから後藤は尋ねてくれた。

「周太くんからのメールかい?」
「はい、今日は休みになって奥多摩に来たそうです、吉村先生のところに、」

メールに書いてある事だけを答えながら、心裡は数々のパターンを考えてしまう。
自分が不在中に吉村医師を訪問した、その理由と意味を知りたい。そんな願いの向かい頼もしい山ヤは微笑んだ。

「だったら無事の下山を電話したらどうだい?きっと心配して待っとるよ、周太くんは優しい子だからな、」

周太は優しい、そう言ってくれるトーンがやわらかい。
後藤は周太の父と親しかった、その過去を想い英二は尋ねてみた。

「後藤さんは周太の小さいころをご存知なんですよね、やっぱり小さいころから優しかったですか?」
「ああ、優しくって賢い、可愛い子だったよ。懐かしいなあ、」

朗らかに笑ってテルモスに口付け後藤は水を飲みこんだ。
その呼気や胸郭の膨らみ、顔色に悪い兆候は見られない。
どうやら肺気腫の進行は無いらしい、この容子に安堵した英二に朗らかな声は教えてくれた。

「周太くんの父親、湯原はな。いつも奥多摩に来ると俺のトコに寄ってくれたんだ、そのたび嬉しそうに息子と奥さんの話をしていったよ。
初めて粥を食べたとか、初めて喋った言葉が『ご本』だったとか、そんな他愛ない幸せを笑ってなあ、そういう時は本当に幸せそうだった。
それで周太くんが3つになる春だったな、初めて奥多摩に連れてきたんだよ。奥さんも一緒にな、山桜を見せてやるんだって抱っこして来た、」

いまから21年前の春、周太を抱いて馨は奥多摩を訪れた。
その日に見た桜は周太の記憶に今も遺されてあるだろうか?

―…強いショックを受けた所為でしょう、湯原くんは部分的に記憶喪失になっています。特に、お父さんと過ごした記憶の部分です、

数ヶ月前、吉村医師は何度目かの対面で周太の記憶障害について調べてくれた。
その診断結果が今も登山ザックに納めた救命具ケースの、あの中に潜む金属部品の正体が呼応する。
そして起きかける怒りの瞳が意識を覆いかけて、けれど呼吸ひとつ微笑んで英二はただ21年前の春へ笑いかけた。

「周太、可愛かったですか?」
「そりゃあ可愛かったよ、」

楽しげに笑って日焼顔ほころばせてくれる。
その笑顔は遠い懐かしい春を楽しむように、朗らかな声で続けてくれた。

「ちょっと癖っ毛の黒い髪が天使みたいでなあ、奥さんそっくりの黒目がちが可愛くて、やわらかい優しい雰囲気の羞み屋な子供さんだったよ。
俺は息子さんだって最初から知ってたけどな、一緒に勤務してた同僚が可愛いお嬢さんですねって褒めちまったほど愛くるしくて可愛かったぞ。
光一も初めて会った九つの時は女の子だと思ったらしいよ。おっとりして上品で素直な子でなあ、ぱっと咲く笑顔は本当に無邪気で天使だったぞ、」

すみません後藤さん、今、俺には言葉責めになってますけど?

そんな本音が心で浮ついてしまう、だって想像するだけで可愛いくて自分こそ抱っこしたい。
いま23歳10ヶ月になっても少年のような周太は可愛い、それが幼少期の頃は本当に天使だったろう。
もしも当時そんな周太と出逢ってしまったら自分はどうしたのか?そんな思案が心で独り言に笑った。

―ひと目惚れだろうな?きっと電話番号とか聴きだして川崎まで逢いに行きそうだよな、子供の俺でもさ、

幼い春に目覚めたはずの恋心、こんな想いすらなんだか幸せになる。
本当に最初に逢えていたのなら違う今があったろう、もっと周太を幸せに出来たかもしれない?
もちろん叶わないと解っていても楽しい気持ちに願いは起きて、すこしだけ困りながら英二は心裡に微笑んだ。

―周太そっくりの子供がほしいな、男の子でも女の子でも…ほんとに子供が出来たら良いのに、

あのひとの子供がほしい。

もしも願えるのなら自分との子供がほしい。
ふたりの想いを結晶した宝が欲しい、そして愛して幸せにしたい。
こんな叶わぬ願いに自覚させられる、自分は誰を一番に求めてしまうのか?
誰よりも傍にいたくて見つめていたい、そんな相手の子供を夢見て幸せに微笑んでしまう。

―逢いたいよ、周太、

ほら、本音が心でもう叫ぶ。
けれど逢える日がいつ訪れるのかも解らない。

もう週末には第七機動隊に自分も異動する、そうすれば周太と同じ隊舎での生活になる。
けれど「逢える」わけじゃない、宿舎の部屋だって近くになるとは限らず所属チームも違う。
なによりも、周太が自分と逢うことを望んでくれるのかなんて自信は今、本当は欠片も無い。

―このあいだ東大で会った時はキスさせてくれたけど、でも今日は俺が居ない時に来たんだ…どうして?

ほら、こんなにも自信無く心は呟いてしまう。
こんなにも項垂れてしまうのは唯ひとりの相手だけ、それを今更に思い知らされる。
こんなに求めてしまう自分なのに、どうして他の相手をも本気で恋焦がれて肌交わしたのだろう?
そんな自分の身勝手が痛いと感じることも知らなかった、あの唯ひとりは深い痛覚すら自分に与えてくれる。

けれど、あのひとに与えられるなら痛みすら愛しい。
そう想うまま記憶が秋の初めに辿りついて、初めての夜に抱いた覚悟と幸福が今の勇気をくれる。
まだ会えるなら逢瀬のチャンスも掴めるかもしれない?そんな想い微笑んだ英二に、深い声が尋ねてくれた。

「なあ、宮田?周太くんは吉村に何の用があったんだい?」

問いかけに、一瞬で思案が廻りだす。
今のタイミングで周太が吉村医師に会いたい理由、それは1つだけ確実に解かる。
それを後藤も想定しているだろう、そう解るから英二は正直に答えた。

「銃創の応急処置を質問したいんだと思います、たとえ訓練でも周太には必要になる可能性がありますから、」

銃器対策レンジャーに所属する以上、被弾する可能性は零じゃない。

この現実は警察官なら誰もが周知の事実だろう、そこに所属する周太が応急処置を知りたいのは当然のこと。
こんな常識に今あの少年のよう無垢な心が佇む現実は哀しい、それでも微笑んだ英二に静かな声は言った。

「そうか、それだけなら良いんだが、」
「それだけなら?」

予想外の言葉をオウム返しに訊き返してしまう。
後藤が言った「それだけなら」は他の理由を示唆している、そう感じて見つめた英二に後藤は口を開いた。

「湯原に訊かれたことがあるんだよ、小児喘息の子供が山に登る注意点を教えてくれってな、」

なぜ、馨は「小児喘息」を質問したのだろう?

その理由を考えかけた思考が悲鳴を上げそうになる。
今すこし掠めた答えが現実ならば周太が今立つ場所は何を起こす?
その解答が怖くて息が喉に詰まる、この声が出ないままに後藤の声は過去を告げた。

「周太くんが小学校に上がった夏だったよ、湯原は周太くんを連れてこの富士山に登りに来てなあ。吉田口の1合目からスタートした筈だ。
この国の最高峰の森を歩かせてあげたい、天辺で雲が足の下を流れるのを見せてあげたい、この小屋で一泊して夕陽も星空も朝も見せたい。
そんなふう計画を話してくれたよ、本当に嬉しそうだった。だけど2週間後に俺のとこに来た時、哀しそうな顔で喘息のことを俺に訊いたんだ、」

17年前の夏、馨は周太を連れて富士山に訪れた。
そのとき何が起きたのか?それが「喘息」の2文字で自分には解ってしまう。
もう以前に吉村医師からも教わっている知識が現実を告げだす、そんな意識に深い声が続いた。

「周太くんを富士に連れて行った後に小児喘息のことを訊いたんだ、俺だって何が起きたか想像つくよ、だから訊かせてもらった、
富士山で周太くんが高山病になったのかってな。そうしたら湯原、両手を組んで額に当ててなあ、目を瞑って頷いて教えてくれたんだよ。
森林限界を超えて間もない6合目までは登れた、でもその先で息子は動けなくなったってな。真青になって呼吸がおかしくなったらしい、」

吉田口六合目は標高2,390m、その地点で周太は歩けなくなった。
まだ山頂まで1,400m以上の標高差がある場所、そこで馨が下した判断を後藤は語った。

「湯原は周太くんを抱き上げてな、そのまま5合目まで戻ったんだよ。そうしたら周太くんはすぐ元気になってな、この小屋に泊まったらしい。
星空を元気に楽しんで機嫌よく眠ったそうだよ、朝起きた時も元気でな、だから湯原は周太くんと山頂を目指したが、昨日と同じ事が起きた。
それで高度順化だけが問題じゃないって気がついて下山したらしい。すぐ病院で検査したら喘息が解かったんだ、それで最大酸素摂取量も低い。
健常の心肺ならトレーニングで補えるが気管支自体の問題だから難しいよ、しかもSpO2が普通より低かったらしくてな、順化が厳しいんだ、」

最大酸素摂取量VO2maxは高所登山に必要な行動体力の中核になる。
一般の20歳代男性なら約50%、高所登山のトップクライマーなら60ml前後が目標値になる。
動脈血中酸素飽和度SpO2 は血中酸素濃度であり低酸素環境下では低下するため、SpO2が低下するとVO2maxも発揮できない。
だからSpO2が高所でも保持出来るならVO2maxも低下が少なく済むため、高所での行動能力は下界と比較しても削がれない事になる。
そして2つ共が元来低いなら高所での酸欠状態は当然防げない、その原因が気管支自体の問題ならトレーニングによる解決も難しくなる。

「じゃあ周太は、富士山の天辺には登れないんですか?」

今教えられた現実に、約束の不可能が言葉になって声に出た。
本当はもっと怖い可能性がある、そう解っているのに言えない現実を老練の山ヤは静かに言ってくれた。

「それ以上に俺が心配しているのはな、宮田?硝煙や砂埃がひどい環境は喘息を悪化させるってことだよ、」

言われてしまった可能性に、病理の知識が心臓を握り潰す。






(to be continued)


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