月風、ただ一刻であっても、
第65話 序風act.7―side story「陽はまた昇る」
足音ふたつ隠す廊下、非常灯のブルーグリーンに視界は沈む。
わずかな蛍光灯と仄暗い空気は眠りの時だと告げてくる、もう深更の刻限に明日は近い。
そんな時間のカウントに歩いて着いた扉の前、ごく低めたテノールが微笑んだ。
「…じゃ英二、オヤスミさん。また4時半にね、」
「おやすみ光一、また明日な、」
また4時半、また明日、そんなふう交わせる言葉が嬉しい。
一ヶ月前と同じ言葉たち、けれど少し違って響くのは超えた壁だろう。
そんな実感と見つめる先で光一は扉を開きながら、隣室の扉と英二を見較べ愉しげに笑った。
「ね、…夜這いするには良い時間じゃない?ちょうどお隣サンまで来たんだしさ、」
そんな誘惑の台詞を聴かさないで下さいよ?
そんな本音が息吐かせて隣室の扉を見てしまう、その向こうに眠る俤にもう逢いたい。
こんな自分の我慢を誰より知る発言者に困りながら、穏やかに英二は微笑んだ。
「あんまり虐めないでくれよ、さすがにダメだって事くらい俺でも解ってるし、もう寝てるだろうから、」
「ソコントコは問題ないね、…ほら、」
即答して雪白の手が伸ばされ掌に堅い欠片が握らされる。
そして開いた手には、精巧にカーブする金属片が載っていた。
「これって、…っ、」
つい声が出た唇、素早く白い手に塞がれる。
薄暗い廊下の一隅、扉の前でふわり花が香って低くテノールが微笑んだ。
「…特製のマスターキーだよ、これで七機隊舎内全ての扉は開けるね、」
低く愉快な声が囁きながら静かに口もとから掌が外される。
そしてアンザイレンパートナーはもう一方の掌を披き、同型の金属片を示した。
「絶対に失くすんじゃないよ?…コレは俺たちの秘密で武器で、自由への鍵だからね?」
秘密で武器で、自由への鍵。
そんな言葉たちに意図が解かって、静かに英二は微笑んだ。
「…よくこんなの作れたな?」
「わりと簡単…本物のマスターキーをいつも見てるからね、」
ひっそり笑う怜悧な瞳は底抜けに明るい。
その眼差しが隣室の扉を目視で示し、ふっと近づいた花の香が微笑んだ。
「使用法はオマエに任せるよ?…俺も自分のは好きに遣うからね、」
マスターキーの遣い方を任せる、なんて、この扉の前で言ってくれるんだ?
こんなの今は一個しか使用目的が浮ばない、けれど駄目だろう?
そう思うけれど視線は隣室の鍵穴を挿す、この想い見透かす瞳が笑った。
「佳いエロ別嬪顔になってるね…健闘を祈ってるよ、オヤスミさん、」
低くテノールは笑って光一はさっさと自室へ入ってしまった。
かちり、施錠の音かすかに響いた廊下、無人のまま自分だけが扉の前に立つ。
―どうしよう?
途方に暮れる想い心つぶやいて、そのくせ扉の前から離れられない。
いま唆してくれた言葉に従いたくて、だけど3つの理由に竦んでしまう。
―夜に二人っきりなんてセーブできる自信ない、それ以上に拒絶されるかもしれないって怖い、それよりもっと
一ヶ月前に自分は光一と夜の肌を抱き合った、それは拒絶の理由になるから怖い。
それは周太が本気で望んでくれたことだろう、英二と光一のためと信じて望んでくれていた。
けれど、なぜ周太があの選択をしたくなったのか?その真相が今なら解かるから怖くて扉を開けない。
―周太が本当に喘息だって知るのが怖い、あんなに覚悟したのに…可能性を知るのが怖い、
また「死線」の可能性が高まった現実、その宣告が怖い。
もうじき周太は異動するだろう、そこは喘息患者の体には苛酷すぎる部署。
硝煙と埃にまみれる訓練と現場、合法殺人の精神的リスク、そんな心身両面への過度なストレス。
それが喘息から肺気腫を誘発する危険度は高い、そうすれば周太の夢は叶わなくなるかもしれない。
山と木を護りたいから樹医になりたい。
そう夢見る周太はいつも山で公園で、家の庭で樹木に笑いかける。
若木なら健やかな成長を祈り、巨樹に大いなる生命への崇敬を仰ぐ。
そんな周太の笑顔がいちばん輝くのは、樹木護る山に立つ時だと知っている。
―でも肺気腫患者が標高の高い場所で動き回るなんて、出来ない…それどころか、
本当に喘息罹患なら肺気腫に悪化する可能性が高すぎる、その先に何が待つ?
このまま周太が警察官として生きるなら、樹木医の夢叶う可能性は低くなるだろう。
それどころか周太と生きる5年後が存在する可能性すら、もう、間近い現実に薄れていく。
「…っ、は…」
嗚咽を呑みこんで、息ひとつ吐く。
突きつけられた現実を知る瞬間を先延ばしたくて、なのに逢いたい気持が脚を動かさない。
掌も握りしめる鍵をポケットに仕舞えず、けれど開錠する勇気ひとつ無い。
ただ逡巡だけが立ち竦んでいる、その前で音が鳴った。
かちり、
「え?」
金属音に声こぼれて、瞳ひとつ瞬いてしまう。
今の音はさっき隣室で響いた音と似ている、けれど違うだろう?
そんな途惑いと疑念が見つめる視界、扉がゆっくり開かれて黒目がちの瞳が英二を見上げた。
「…さっきから何してるの?」
ちょっと寝起きな声のトーン、この声を、ずっと聴きたかった。
―周太の声だ、周太が俺を見てる、
逢いたくて夢見た相手が、現実に自分の前にいる。
見あげてくれる瞳は凛として、けれど眠たいのが解かってしまう。
やわらかな髪に少しの寝癖が可愛くて指絡めたい、いま見つめる全てが欲しい。
そんな本音たちが背中突き飛ばして一歩、動いた足のまま英二は部屋に踏みこんだ。
かちり、
後ろ手に扉を鍵掛けて、ふたり空間が閉じられる。
自分の部屋と同じような部屋、けれど爽やかで少し甘い香が愛おしい。
それから微かなオレンジの香に見つめる相手の現実を知らされて、富士に聴いた事実が鼓動を咬む。
―…喘息が解かったんだ、それで最大酸素摂取量も低い。健常の心肺ならトレーニングで補えるが気管支自体の…SpO2が普通より低かった
蜂蜜オレンジのど飴は、懐かしい香に記憶ごと愛しい。
いつも周太が口に含んでいる飴、だから自分も行動食にして救助の現場でも遣う。
けれど周太の「いつも」にあった理由の現実が哀しくて、それでも見つめあう瞬間に英二は笑いかけた。
「周太、逢いたかった、」
逢いたかった、ずっと君に逢いたかった。
この願いごと薄闇に腕を伸ばして、ほら、掌に懐かしい肩ふれる。
肩を惹き寄せて抱きしめて、頬ふれる髪の香が心を掴んで溶かしだす。
いま紺色のTシャツ2枚を透かして鼓動は震える、その共鳴に縋りついてもう、離せない。
―離したくない、このまま、
このまま時間が止まればいい、ずっと抱きしめたまま離れないで?
そう願うけれど叶えられないと解っている、それでも「今」に竦んだ想いへ穏やかな声が微笑んだ。
「ん…逢いたかったね、英二?」
ほら、呼ばれた名前に心臓が停まる。
名前を呼んで微笑んでくれる瞳に、視線を逸らせない。
ふれあう温もりに香に泣きたい、けれど涙に邪魔されたくなくて愛しい名前に微笑んだ。
「周太、」
名前を呼んで見つめる薄闇、黒目がちの瞳は笑ってくれる。
ふたりきり空間に籠められた夜、この瞬間を腕のなか再び与えられた今が嬉しい。
嬉しくて、けれど本音の自信なんて欠片もない、それでも離せない幸せに笑いかけた。
「周太、もし泊まっていくって言ったら、自分の部屋に戻れって叱ってくれる?それとも」
それとも、泊まって良いって許しをくれる?
そう問いかけようとした視界に黒目がちの瞳が微笑んで近くなる。
ずっと逢いたかった瞳に見惚れたまま、やわらかにオレンジの香が唇重なった。
―あまい、
あまい温もり、甘い香、ふれる全てが甘く心充たしてゆく。
このまま離れないでと願って、けれど静かに離れた唇の残像に恥ずかしげなトーンが微笑んだ。
「あの…なんにもしないって約束ならいいです、」
そんなの解かってるけど難しいかも?
そんな本音が心つぶやいて首傾げこむ。
けれど離したくない願いのまんま、英二は良心の呵責と頷いた。
「しないよ、でもキスだけは許してよ、周太?」
せめて体の一ヶ所だけは交える許可が欲しい。
そうしないと今、本当に心ごと砕かれそうな希望が解らなくなる。
だからどうか許してよ?そんな願いねだり見つめた先、黒目がちの瞳は羞むよう笑った。
「…えいじのえろべっぴん、」
いま、なんとおっしゃいました?
―エロ別嬪って光一のセリフだけど、周太、うつっちゃった?
言われた言葉と声の主が結びつかなくて見つめてしまう。
そんな視界ごと腕をすりぬけて、小柄な体は窓際へ行ってしまった。
「あ、きれい…英二、月がきれいだよ?」
きれいだから見においで?
そんな優しい誘いに穏かな声が笑ってくれる、この声をずっと聴いていたい。
―どうしたら毎日こうやって言ってもらえるんだろう、
そっと心つぶやく本音に、瞳の底が熱くなりだす。
けれど夏富士と後藤に泣いた覚悟と、さっき屋上で光一と見つめた涙がある。
だから今ここで泣きたくない、なによりも今、本当に泣くべき人間は自分じゃない。
そして、その人は泣かないのだから。
―君は泣かないで笑うんだね、周太?
ほら、君はこんなに強くて、こんなにも綺麗だ。
そんな想いに見つめる窓辺の背中は少し痩せた、東大のベンチで会った時より首すじが細い。
けれど紺色のTシャツ着た後姿に昏さは微塵もない、ただ凛とした優しい強靭がまぶしく佇む。
「周太こそ綺麗だよ、」
想いこぼれた唇の向こう、やわらかな黒髪に月光ゆれる。
ゆっくり振向いてくれる笑顔から黒目がちの瞳が見つめて、眼差し優しい。
「英二、またカッコよくなっちゃったね、先月会った時より…べっぴんだよ?」
穏やかな声が羞んで見つめてくれる、その声も視線も静かで温かい。
月明り照らす頬のラインが少しシャープになった、どこか大人びた空気が英二に笑ってくれる。
たった半月ぶり。それなのに変化した貌からは、今ここで周太が立つ峻厳が切なくて、そして惹かれていく。
「ありがとう、なんか周太は大人っぽくなったね、すごく綺麗だ、」
笑いかけ歩み寄る、その窓辺から一歩周太も来てくれる。
ふわりカーテンが閉じられ月光を透かす、そして空間は互いだけの薄闇に戻る。
「おいで、周太、」
そっと掌を取って惹き寄せて、静かにベッドへ体を横たえる。
微かな軋み音に白いシーツが体重ふたつ受けとめて、あわい月の光と闇にオレンジの吐息こぼれた。
「ん…ちょっと狭いね、英二?」
微笑んだ声が至近距離、見つめる笑顔にオレンジと香る。
あまい爽やかな香は出逢ってからずっと傍にいてくれた、その記憶も想いも全て愛しい。
その全てに笑いかけ抱きしめて、紺色のTシャツ2枚透かす体温に吐息あふれて、微笑んだ。
「くっつけて嬉しいよ、周太?それに狭い方が今は安全だろうし、」
「ん、なんで安全なの?」
不思議そうな声と瞳が見つめてくれる、この無垢にほっとする。
すこし大人びた頬のライン、けれど相変わらず清らかな少年に英二は幸せいっぱい笑いかけた。
「ベッドが広いとセックス出来るだろ、でも狭いと難しいから安全ってことだよ、周太、」
ほら、こんな言葉にも君の瞳は停まってしまう。
いま何を言われたのだろう?そう思案する瞳がすぐ困惑して唇が抗議に開いた。
「…っば、ばかえっちへんたいっ、こんなとこでだめですっここはしょくばでしょっ、そんなこというひとはかえってっ、」
一息の抗議に掌ふたつが肩を押してくる。
そんな掌の温もりすら愛しくて幸せになってしまう、ただ幸せに微笑んで英二は囁いた。
「キスだけなら泊まって良いって周太、言ってくれたよね?…ね、狭くてセックス出来ないんだから安心して…キスされて?周太…」
囁きごと唇よせて重ねこむ、その唇が喘ぐけれど抱きしめる。
ふれるオレンジ甘くて懐かしくて慕わしい、この香の意味を知った今も愛しさは変えられない。
愛しくて今ふれる瞬間が幸せで、唇のはざま忍びこませる熱ごと絡めさせて捕えて、深いキスになる。
―好きだ、キスだけでこんなにも幸せで…解らなくなる、
こんなにも幸せで何も解らなくなる、キスひとつ心から麻痺して。
抱きしめた背中に掌が勝手に動く、もっと近づきたい願いに温もり探してしまう。
ふれたい、そう願う掌がTシャツの裾から素肌を抱きしめて、求める体温に心掴まった。
―ほしい、少しでも良いからどうか、
心が叫んで掴んだ布は捲られていく、懐かしい肌なめらかに掌ふれて心を犯す。
ただ素肌ふれあうだけでも構わない、そう願うまま自分のTシャツの裾に手を掛けたとき唇が離れた。
そして瞠いた視界の真中で、黒目がちの瞳が困ったよう睨んで愛しい声は小さく叫んだ。
「…だ、だめっ、やっぱりだめばかえっちちかんあっちいってっうそつきっ、」
ねえ、せっかくの雰囲気をそんな可愛い物言いで壊すなんて?
―周太、ちょっと可愛すぎるよ?
きっと君は君なりに必死の抵抗なんだろうけれど、余計に煽るって解ってる?
こういうとこ本当に可愛くって困らされる、せっかくの我慢すら箍を外してしまいそう。
もう発熱しかけている自分の体に困りながら幸せで、嬉しいまま至近距離の瞳に笑いかけた。
「ね、周太…嘘なんて吐いてないだろ、キスだけしかしてない、」
「い…いまふくめくっててをいれてたでしょっだめでしょばかっ」
困り顔の怒り顔が見つめてくれる、その可愛いトーンの怒り声がまた可愛い。
また掌ふたつ肩を押してくれるのすら嬉しくて、駄目で馬鹿でも幸せなまま英二は囁いた。
「馬鹿でも嬉しいな…服めくるなんてセックスじゃないから安心して、応急処置の時だって服を捲るくらいするし…ね、周太…」
耳元に声ごとキスをして、掌は自由行動のままTシャツ2枚を捲りあげる。
もう隔たりを消した素肌の胸をあわせ重ねてふれて、ふたつ体温の通う幸せに吐息が笑った。
「周太…肌がふれてるだけなのに俺、すごい幸せだよ?…服、脱いでないのにこうしてるだけで幸せ、」
こうしてるだけで幸せで、もっと幸せになりたくて唇に唇ふれさせキスをする。
唇と唇、胸と胸、抱きしめた背中の素肌に掌は歓ぶまま心ごと融かされ、現実が甘く温かい。
オレンジの香に唇から肺が充たされる、額ふれる黒髪の香やわらかに絡んで与えられる、吐息も肌も香から愛しい。
「周太、…周太は今、幸せ?」
吐息と少し離れた唇、微笑んで瞳を見つめあう。
見つめる貌は明るんで暗くなる、カーテン透かす月光の明滅は恋慕のように揺らめいて澄む。
きっと上空の風は速い、そして雲は夜を駈けて晨を呼びに涯へ往く。そんな観天望気と見つめた真中で幸せが笑った。
「ん、幸せだよ?…でもはずかしいのがこまってます…えっちえろべっぴんちかんばかえいじ」
ほら、またそんな物言いして煽るんだから?
本当に無意識で言ってくれるから尚更に困る、こんなとこ大好きで仕方ない。
また困りながら発熱しだす体を持て余しそう?抑えこむ分だけ濃やかになる想いすら幸せで、笑いかけた。
「恥ずかしがりの周太が好きだよ、大胆な時も好きだ…いつも大好きだから、ずっと俺の恋人でいて?」
どうかこの願いを聴き届けて、ずっと恋人と呼ばせて?
ずっと永遠の涯まで呼ばせて欲しい、この願いごと唇を重ねて閉じこめる。
ふれる想いに軽く瞑った睫へ明滅きらめく、この光降らす月と風に近い山頂へ連れて行きたい。
―いつか君に見せたい、あの場所をどうしても…約束の花を見せたいんだ、
北岳草を見せてあげる、そう約束した夏が終わっていく。
世界で唯ひとつ北岳に咲く白い花、あの花を見せる季節に時は動き明日になる。
きっと来年は花を見せられる、そう信じたいのに今こうして重ねた胸は病を抱く。
それでも可能性が少しあるなら全てを懸けて信じたい、きっと、約束は叶えられる。
―どうか生きて?
そんな祈りごと抱きあう瞬間たちは、ただ、優しい。
blogramランキング参加中!
にほんブログ村