駈けぬけた時、その向こう

第65話 序風act.4―side story「陽はまた昇る」
日中南時、九月一日の炎熱はヘルメットから汗が頬へ墜ちる。
降りそそぐ太陽と岩盤からの反射は天と地から熱に責める、その足元はルンゼの雨後に滑りやすい。
それでも意識の無い学生をバスケット担架に乗せ固定する、その間中も励まし呼びかけ続ける。
「頑張ってください、ヘリに乗って病院に行きますからね?大丈夫、頑張れ!」
大声で呼びかけ笑いかける、けれど大学生の瞳は開かない。
落石から護るためシートを掛けて保護をする、その傍らで同行パーティーの学生も叫んだ。
「頑張れよ!一緒にもっと登る約束だろ?まだ登る山がいっぱいあるぞ、こんな怪我に負けるな!」
もっと一緒に登る約束、
その言葉から、大切な俤が浮んでしまう。
自分も同じ約束をしている相手がいる、その男と一ヶ月ぶりに今夕は会うだろう。
そのとき自分が抱く感情はどんな色彩なのか?それが不安と期待と恐怖にもなりかけて苦い。
―この1ヶ月は一度も光一と会ってない、こんなこと初めてだ…それに、
それに、体の関係を持ってから離れて会うのは、初めてだ。
この初めてが怖くなる、自分が光一にした言動に自信なんて今は無い。
もう富士で思い知らされた本音と光一の想いが出会う時は何が見えるだろう?
公人として上司部下の立場でなら強い信頼があると、この出動に対する許可に解っている。
けれど私人として、ひとりの山ヤで男として向きあった時に何が自分たちにあるだろう?
―もう恋人としては互いに見れない、きっと…光一も俺も結局は、唯ひとりしか見えてないから、
光一の唯ひとりは、雅樹だ。
だからこそ光一は自分と肌交わして確かめたのだろう。
雅樹と似ている英二ですら恋愛に向きあえないと確認して、本当はあの朝きっと光一は泣いた。
その涙にも真意にも気付いてやれなかった後悔が今更のよう傷む、けれど何も気づかないままでいるよりずっと良い。
傷みから気づけたのなら、その傷みの分だけ相手を理解して本当の意味で向きあうことも出来るはずだから。
―本当の意味でアンザイレンパートナーになれるのかもしれない、今夜を向き合えたなら、
今夜は光一と話す時間になるだろう。
小隊長と副官、アンザイレンパートナー、そんな公的立場から今夜は話しあう必要がある。
たぶん周太と話す時間は殆どない、そして第七機動隊内では接触を少なくする方が本当の意味で周太を護れる。
誰にとっても今夜の自分は光一と話し合う方が良い、そう判断を自身言い聞かせながら遭難者を励まし、セットを終え合図した。
「固定終わりました、サポートのセットも完了です、」
「よし、引き上げるぞ、落石に気をつけろ、足元を崩すなよ、」
互いに声を掛け合いながらザイルを曳き始める。
左斜面を滑車を使い担架にサポートを付けて引き上げていく。
そうして真名井北陵に引き上げると、徒手搬送で赤杭尾根の平坦地まで運んだ。
赤杭尾根は山火事防止の防火帯が登山道に沿って伐り広げられ、ヘリコプターのピックアップ地点になる。
安全な場所にバスケット担架をおろすと、消防の坂田も遭難パーティーに付き添いながら無線片手に現われた。
「もうヘリは向かっています、後藤さん準備お願いします、」
「良かったよ、おうい皆、木の枝を払ってくれ、」
いつもながら大らかな指示の声に、青梅署山岳救助隊員は鋸を出した。
ヘリコプターへの吊り上げを妨げる枝を鋸で伐っていく、その木屑と香が熱暑に昇りだす。
―鋸を持つなんて俺、ここに来るまで何回あったかな?
鋸を扱うなど、学校で受けた技術の授業以外は無かったろう。
この他にも山岳レスキューとして当然の作業は大学生までの自分からは考えられない。
だから最初は掌の肉刺が破けることもあった、けれど諦めない掌は部分的に皮膚が厚く硬くなり今は強い。
こんなふう掌から山岳レスキューになっていく事が誇らしい、そんな想い微笑んで鋸を仕舞うとヘリコプターの爆音が響き始めた。
「ホバリングの風に気をつけて下さい!」
遭難パーティーの学生たちへ声が飛び、担架に声かける励ましが風に煽られる。
響くプロペラの音、発煙筒の匂いと光、大きくなるホバリングの風と梢のざわめき。
音と風のなかホイストで下降してきた航空隊員が遭難者をピックアップしていく。
そして救助ヘリコプターは大きく旋回して立川方面へ飛び去った。
「ヘリは医師も搭乗しているそうだ、なんとか助かってほしいなあ、」
空を見送る隣、深い声が笑いかけて英二は振向いた。
視線の先すこし疲れた日焼顔が微笑む、その表情が気になって目視しながら英二は声を低めた。
「後藤さん、呼吸は苦しくないですか?」
「ああ、大丈夫だよ。帰りは急がずに行こうか、一緒に下りてくれるかい?」
笑顔で返してくれる言葉には余裕がある。
それでも顔色がすこし良くないのは炎天下の作業もあるかもしれない。
このまま二人で最後尾から下山する方が良い、そんな判断に歩き出した向うから驚いた顔がやってきた。
「やっぱり宮田じゃないか、なんで今ここにいるんだ?」
「おつかれさまです、岩崎さん。国村小隊長の許可で現場に来ました、」
笑顔で応えた英二に元上司が笑ってくれる。
呆れたようでも嬉しそうに岩崎はポンと肩を叩いてくれた。
「おまえ達らしいよ、まったく。このまま府中へ行くのか?」
「はい、そのつもりです、」
話ながら下山する先で大学生たちが古里方面へ消沈と歩いていく。
その足取りが気になって英二は後藤と岩崎へ尋ねた。
「初心者も多そうですけど、ザイルは使っていたんですか?」
「いや、使っていない、」
困ったよう答えてくれるトーンに、もしかしてと推測する。
前にもザイルを使わず転落事故を起こした大学があった、その学校名を思い出した隣から後藤がため息吐いた。
「宮田なら気が付いたろうがなあ、あの事故と同じ大学だよ。部活は違うそうだが、」
部活は違う、けれど同じジャンルで同じ大学なら危機意識を共有してほしい。
そんな願いに英二は上司たちへ穏やかに微笑んだ。
「このあと奥多摩交番で副隊長から話すんですよね、俺も立会って良いですか?」
「ああ、もちろんだ、」
深い眼差しが笑ってくれる、その想いが自分にも伝わらす。
きっと後藤も英二からの申し出を待っていた、そんな信頼と歩いて踊平に着くと救助隊員が集合した。
いま救助に立ち会った警察、消防の全員がいる。もう傾きだした太陽のもと後藤が皆を見回し、いつものよう笑った。
「よし、警察も消防も全員無事に帰還だな?良かったよ、でな、今日で七機に異動した宮田がいるんだ、一言挨拶させてくれるかい?」
呼ばれた名前に驚いた視界、周囲から英二に視線が集まりだす。
挨拶だなんて想定外だ、そんな途惑いに消防から拍手と質問が上がった。
「宮田くん、今日が異動日なのに来たのかい?」
「はい、新しい所属長の許可と命令で来ました、」
笑顔で応える向うで笑いが起きる。
そのなかで奥多摩交番の畠山が可笑しそうに訊いてくれた。
「国村小隊長なら、現場の方が大事だ行けって命令したろう?」
「はい、」
素直に頷いた英二に警察も消防も笑ってくれる。
その笑顔たちが温かで嬉しい、英二は姿勢を整え綺麗に笑いかけた。
「初心者だった自分をこの奥多摩で、山と皆さんに育てて頂きました。泣いたことも笑ったことも沢山あります、その全て私の宝です。
今の自分になれたことに感謝します、本当にお世話になりました。異動しても同じ山岳レンジャーです、またよろしくお願いします、」
本当に、ありがとう。
この万感に深く頭を下げる、その向こうで拍手が温かい。
いま立っている「山」現場は生と死の廻らす峻厳の世界、そして懐深く広大な夢。
そこに憧れたままに駆け抜けた、その最初は唯ひとりへの想いから始まったのに今こんなに大きく広い。
―ここに来られて良かった、ここが本当に好きだ、
深く深くから歓びが充ちていく、それほどまで自分はこの世界が好きだ。
そう実感する想いに先刻まで悩んでいたアンザイレンパートナーへの態度すら解かれていく。
同じ「山」そして奥多摩への想いを抱いている、その信頼感のままに光一と共にいれば良い?
―俺たちは恋愛とか人間的な感情じゃない、山で繋がれた相手だ、だから血の契もしたんだ、
春4月の終わり、光一と結んだ『血の契』は山に共に生きる誓いだった。
あの誓いこそ互いにとって何より大切な盟約で、そこには最高峰への夢が懸る。
それだけ見つめて再び共に並べばいい、そんな覚悟と顔をあげた英二へ救急救命士の小林が掌を差し出した。
「宮田くん、あの引継書のこと感謝しています。君も救急救命士を目指すこと聴いたよ、がんばってくれな、」
「はい、ありがとうございます、」
笑顔で登山グローブを外し握手する、その掌は厚くやわらかで一部が堅い。
こんな掌に自分も近づいて救急救命士の道を辿る、それが嬉しくて、嬉しい分だけ背負う救命具ケースが少し重い。
今日も人命救助のために開いたケース、けれどそこには哀憎からみついた拳銃ひとつも眠っている。
―こんな俺だけどこの人みたいな掌になりたい、いつかきっと、
いつか自分も人命救助だけに山を駈けたい、この拳銃をいつか眠りに就かせて。
そんな願いごと握手を確かめ掌解いた向こう、今度は精悍な瞳が照れくさげに立ってくれた。
「またザイル組めたら良いな、」
低い透る声の率直なトーンが掌を差し出してくれる。
この1ヶ月間をザイルパートナーとして過ごした先輩で同僚に英二は笑った。
「はい、原さんとも三スラを登ってみたいです、」
「ふはっ、ハードル上げてくれんじゃん?」
可笑しそうに笑ってくれる貌はいつものよう愛嬌こぼれだす。
普段が仏頂面なだけに原は笑うと可愛くなる、それも得な所だろうと可笑しい。
笑いあって掌ほどくと藤岡の人好い笑顔に交替して、ぽんと気軽く握手すると笑ってくれた。
「また呑もうな、国村も湯原も原サンも、同期のヤツラともさ。そのうち瀬尾の結婚式で会うだろうけど、」
「あ、瀬尾の結婚決まったんだ?」
初耳の情報に瞳瞬いて訊いてしまう。
こんな明るい話題が嬉しくなる、笑った英二に同期は教えてくれた。
「さっき似顔絵のことで電話したついでに聴いたんだけどさ、来月には結納らしいよ、」
「そうなんだ、お祝いなんか考えないとな?」
「宮田なら良い案あるだろ?よろしくな、」
同期の世間話で握手を解き笑いあう、そんな他愛なさが藤岡らしくて良い。
きっといつ再会しても藤岡は気楽に笑って今と同じに話してくれるだろうな?
そんな未来予想に微笑んで先輩たちとも握手交わすと、後藤とふたり四駆に乗った。
「後藤さん、おつかれさまでした。あと奥多摩交番で色々ありますけど、」
「ああ、宮田こそ異動の日にすまんなあ、すっかり遅くなっちまうだろう、」
シートベルトしながら後藤が笑ってくれる。
この笑顔も声も数時間後には日常から離れてしまう、それが不思議で寂しい。
それでも明日へ進む意志と願いに微笑んで英二はハンドル捌きながら綺麗に笑った。
「今日、後藤さんに会えて良かったです、俺は今日もういちど挨拶したかったから、」
最終日の今日だから、やっぱり後藤に挨拶したかった。
この気持ちのままを英二は言葉に変え微笑んだ。
「山を何も知らない俺を最初に信じてくれたのは、後藤さんです。俺の素質を見つけてくれました、育てようって覚悟してくれました。
警察学校でも中途半端だった俺の本音も、願いも夢も、全てを見つけて信じてくれたのは後藤さんが最初です。だから今の俺があります。
後藤さんが居なかったら俺は中途半端な警察官でした、周太を援けることも今ほど出来ません、全部あなたのお蔭です、本当に感謝します、」
夏富士でも伝えた想いを今、この奥多摩の山であらためて感謝したい。
この山々に後藤が自分を呼び、育て、山ヤの技能と心の核を与えたくれた。
それが無かったら今のほとんど全てが自分には無い、この想い素直に英二は笑った。
「もちろん光一と吉村先生からも俺は育てられています、でも後藤さんが俺を見つけてくれなかったら俺は二人とも会えませんでした。
あの最高の山ヤとアンザイレンパートナーになる事は出来ませんでした、最高峰の夢も、救命救急士になる夢も俺にはありませんでした。
今の俺があるのは後藤さんが居るからです、だからお願いです、どうか肺気腫に負けないで下さい、長生きして一緒に山で生きていて下さい、」
いま後藤が侵される肺病は根治が難しい。
そう解っているけれど、小さな%でも可能性があるならと願ってしまう。
その願いに林道を降りて行く車内、助手席で深く朗らかな声が笑ってくれた。
「俺はな、うるさい山爺さんになるぞ?おまえさん達が夢を叶えるのを俺も山で見たいからな、それが俺の夢だなあ、」
うるさい山爺さん、そんな言葉に後藤の想いが切ないほど温かい。
この想いをどうか叶えてほしい、そう願うまま英二はフロントガラス越し笑いかけた。
「はい、うるさく叱ってやってください。俺も光一もブレーキが難しい性質ですから、後藤さんがいないと危ないですよ?」
「そうだなあ?心配でほったらかしては行けないな、ほんとになあ…っ、」
大らかに笑う声が小さく詰まる。
それでも深く豊かな声は言ってくれた。
「ありがとうよ、宮田。俺の方こそな、おまえさんが来てくれて本当に感謝してるよ、ほんとに…ありがとうなあ、」
本当にありがとう、そう言ってくれる声にこの山ヤが好きだと想う。
そして隣で響きだした嗚咽に涙ひとつ呼応して、昔馴染みの詩は心あざやかに深まる。
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.
時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
生きるにおける人の想いへの感謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝
慎ましやかに綻ぶ花すらも、私には涙より深く心響かせる

【引用詩文:William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」XI】
(to be continued)
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第65話 序風act.4―side story「陽はまた昇る」
日中南時、九月一日の炎熱はヘルメットから汗が頬へ墜ちる。
降りそそぐ太陽と岩盤からの反射は天と地から熱に責める、その足元はルンゼの雨後に滑りやすい。
それでも意識の無い学生をバスケット担架に乗せ固定する、その間中も励まし呼びかけ続ける。
「頑張ってください、ヘリに乗って病院に行きますからね?大丈夫、頑張れ!」
大声で呼びかけ笑いかける、けれど大学生の瞳は開かない。
落石から護るためシートを掛けて保護をする、その傍らで同行パーティーの学生も叫んだ。
「頑張れよ!一緒にもっと登る約束だろ?まだ登る山がいっぱいあるぞ、こんな怪我に負けるな!」
もっと一緒に登る約束、
その言葉から、大切な俤が浮んでしまう。
自分も同じ約束をしている相手がいる、その男と一ヶ月ぶりに今夕は会うだろう。
そのとき自分が抱く感情はどんな色彩なのか?それが不安と期待と恐怖にもなりかけて苦い。
―この1ヶ月は一度も光一と会ってない、こんなこと初めてだ…それに、
それに、体の関係を持ってから離れて会うのは、初めてだ。
この初めてが怖くなる、自分が光一にした言動に自信なんて今は無い。
もう富士で思い知らされた本音と光一の想いが出会う時は何が見えるだろう?
公人として上司部下の立場でなら強い信頼があると、この出動に対する許可に解っている。
けれど私人として、ひとりの山ヤで男として向きあった時に何が自分たちにあるだろう?
―もう恋人としては互いに見れない、きっと…光一も俺も結局は、唯ひとりしか見えてないから、
光一の唯ひとりは、雅樹だ。
だからこそ光一は自分と肌交わして確かめたのだろう。
雅樹と似ている英二ですら恋愛に向きあえないと確認して、本当はあの朝きっと光一は泣いた。
その涙にも真意にも気付いてやれなかった後悔が今更のよう傷む、けれど何も気づかないままでいるよりずっと良い。
傷みから気づけたのなら、その傷みの分だけ相手を理解して本当の意味で向きあうことも出来るはずだから。
―本当の意味でアンザイレンパートナーになれるのかもしれない、今夜を向き合えたなら、
今夜は光一と話す時間になるだろう。
小隊長と副官、アンザイレンパートナー、そんな公的立場から今夜は話しあう必要がある。
たぶん周太と話す時間は殆どない、そして第七機動隊内では接触を少なくする方が本当の意味で周太を護れる。
誰にとっても今夜の自分は光一と話し合う方が良い、そう判断を自身言い聞かせながら遭難者を励まし、セットを終え合図した。
「固定終わりました、サポートのセットも完了です、」
「よし、引き上げるぞ、落石に気をつけろ、足元を崩すなよ、」
互いに声を掛け合いながらザイルを曳き始める。
左斜面を滑車を使い担架にサポートを付けて引き上げていく。
そうして真名井北陵に引き上げると、徒手搬送で赤杭尾根の平坦地まで運んだ。
赤杭尾根は山火事防止の防火帯が登山道に沿って伐り広げられ、ヘリコプターのピックアップ地点になる。
安全な場所にバスケット担架をおろすと、消防の坂田も遭難パーティーに付き添いながら無線片手に現われた。
「もうヘリは向かっています、後藤さん準備お願いします、」
「良かったよ、おうい皆、木の枝を払ってくれ、」
いつもながら大らかな指示の声に、青梅署山岳救助隊員は鋸を出した。
ヘリコプターへの吊り上げを妨げる枝を鋸で伐っていく、その木屑と香が熱暑に昇りだす。
―鋸を持つなんて俺、ここに来るまで何回あったかな?
鋸を扱うなど、学校で受けた技術の授業以外は無かったろう。
この他にも山岳レスキューとして当然の作業は大学生までの自分からは考えられない。
だから最初は掌の肉刺が破けることもあった、けれど諦めない掌は部分的に皮膚が厚く硬くなり今は強い。
こんなふう掌から山岳レスキューになっていく事が誇らしい、そんな想い微笑んで鋸を仕舞うとヘリコプターの爆音が響き始めた。
「ホバリングの風に気をつけて下さい!」
遭難パーティーの学生たちへ声が飛び、担架に声かける励ましが風に煽られる。
響くプロペラの音、発煙筒の匂いと光、大きくなるホバリングの風と梢のざわめき。
音と風のなかホイストで下降してきた航空隊員が遭難者をピックアップしていく。
そして救助ヘリコプターは大きく旋回して立川方面へ飛び去った。
「ヘリは医師も搭乗しているそうだ、なんとか助かってほしいなあ、」
空を見送る隣、深い声が笑いかけて英二は振向いた。
視線の先すこし疲れた日焼顔が微笑む、その表情が気になって目視しながら英二は声を低めた。
「後藤さん、呼吸は苦しくないですか?」
「ああ、大丈夫だよ。帰りは急がずに行こうか、一緒に下りてくれるかい?」
笑顔で返してくれる言葉には余裕がある。
それでも顔色がすこし良くないのは炎天下の作業もあるかもしれない。
このまま二人で最後尾から下山する方が良い、そんな判断に歩き出した向うから驚いた顔がやってきた。
「やっぱり宮田じゃないか、なんで今ここにいるんだ?」
「おつかれさまです、岩崎さん。国村小隊長の許可で現場に来ました、」
笑顔で応えた英二に元上司が笑ってくれる。
呆れたようでも嬉しそうに岩崎はポンと肩を叩いてくれた。
「おまえ達らしいよ、まったく。このまま府中へ行くのか?」
「はい、そのつもりです、」
話ながら下山する先で大学生たちが古里方面へ消沈と歩いていく。
その足取りが気になって英二は後藤と岩崎へ尋ねた。
「初心者も多そうですけど、ザイルは使っていたんですか?」
「いや、使っていない、」
困ったよう答えてくれるトーンに、もしかしてと推測する。
前にもザイルを使わず転落事故を起こした大学があった、その学校名を思い出した隣から後藤がため息吐いた。
「宮田なら気が付いたろうがなあ、あの事故と同じ大学だよ。部活は違うそうだが、」
部活は違う、けれど同じジャンルで同じ大学なら危機意識を共有してほしい。
そんな願いに英二は上司たちへ穏やかに微笑んだ。
「このあと奥多摩交番で副隊長から話すんですよね、俺も立会って良いですか?」
「ああ、もちろんだ、」
深い眼差しが笑ってくれる、その想いが自分にも伝わらす。
きっと後藤も英二からの申し出を待っていた、そんな信頼と歩いて踊平に着くと救助隊員が集合した。
いま救助に立ち会った警察、消防の全員がいる。もう傾きだした太陽のもと後藤が皆を見回し、いつものよう笑った。
「よし、警察も消防も全員無事に帰還だな?良かったよ、でな、今日で七機に異動した宮田がいるんだ、一言挨拶させてくれるかい?」
呼ばれた名前に驚いた視界、周囲から英二に視線が集まりだす。
挨拶だなんて想定外だ、そんな途惑いに消防から拍手と質問が上がった。
「宮田くん、今日が異動日なのに来たのかい?」
「はい、新しい所属長の許可と命令で来ました、」
笑顔で応える向うで笑いが起きる。
そのなかで奥多摩交番の畠山が可笑しそうに訊いてくれた。
「国村小隊長なら、現場の方が大事だ行けって命令したろう?」
「はい、」
素直に頷いた英二に警察も消防も笑ってくれる。
その笑顔たちが温かで嬉しい、英二は姿勢を整え綺麗に笑いかけた。
「初心者だった自分をこの奥多摩で、山と皆さんに育てて頂きました。泣いたことも笑ったことも沢山あります、その全て私の宝です。
今の自分になれたことに感謝します、本当にお世話になりました。異動しても同じ山岳レンジャーです、またよろしくお願いします、」
本当に、ありがとう。
この万感に深く頭を下げる、その向こうで拍手が温かい。
いま立っている「山」現場は生と死の廻らす峻厳の世界、そして懐深く広大な夢。
そこに憧れたままに駆け抜けた、その最初は唯ひとりへの想いから始まったのに今こんなに大きく広い。
―ここに来られて良かった、ここが本当に好きだ、
深く深くから歓びが充ちていく、それほどまで自分はこの世界が好きだ。
そう実感する想いに先刻まで悩んでいたアンザイレンパートナーへの態度すら解かれていく。
同じ「山」そして奥多摩への想いを抱いている、その信頼感のままに光一と共にいれば良い?
―俺たちは恋愛とか人間的な感情じゃない、山で繋がれた相手だ、だから血の契もしたんだ、
春4月の終わり、光一と結んだ『血の契』は山に共に生きる誓いだった。
あの誓いこそ互いにとって何より大切な盟約で、そこには最高峰への夢が懸る。
それだけ見つめて再び共に並べばいい、そんな覚悟と顔をあげた英二へ救急救命士の小林が掌を差し出した。
「宮田くん、あの引継書のこと感謝しています。君も救急救命士を目指すこと聴いたよ、がんばってくれな、」
「はい、ありがとうございます、」
笑顔で登山グローブを外し握手する、その掌は厚くやわらかで一部が堅い。
こんな掌に自分も近づいて救急救命士の道を辿る、それが嬉しくて、嬉しい分だけ背負う救命具ケースが少し重い。
今日も人命救助のために開いたケース、けれどそこには哀憎からみついた拳銃ひとつも眠っている。
―こんな俺だけどこの人みたいな掌になりたい、いつかきっと、
いつか自分も人命救助だけに山を駈けたい、この拳銃をいつか眠りに就かせて。
そんな願いごと握手を確かめ掌解いた向こう、今度は精悍な瞳が照れくさげに立ってくれた。
「またザイル組めたら良いな、」
低い透る声の率直なトーンが掌を差し出してくれる。
この1ヶ月間をザイルパートナーとして過ごした先輩で同僚に英二は笑った。
「はい、原さんとも三スラを登ってみたいです、」
「ふはっ、ハードル上げてくれんじゃん?」
可笑しそうに笑ってくれる貌はいつものよう愛嬌こぼれだす。
普段が仏頂面なだけに原は笑うと可愛くなる、それも得な所だろうと可笑しい。
笑いあって掌ほどくと藤岡の人好い笑顔に交替して、ぽんと気軽く握手すると笑ってくれた。
「また呑もうな、国村も湯原も原サンも、同期のヤツラともさ。そのうち瀬尾の結婚式で会うだろうけど、」
「あ、瀬尾の結婚決まったんだ?」
初耳の情報に瞳瞬いて訊いてしまう。
こんな明るい話題が嬉しくなる、笑った英二に同期は教えてくれた。
「さっき似顔絵のことで電話したついでに聴いたんだけどさ、来月には結納らしいよ、」
「そうなんだ、お祝いなんか考えないとな?」
「宮田なら良い案あるだろ?よろしくな、」
同期の世間話で握手を解き笑いあう、そんな他愛なさが藤岡らしくて良い。
きっといつ再会しても藤岡は気楽に笑って今と同じに話してくれるだろうな?
そんな未来予想に微笑んで先輩たちとも握手交わすと、後藤とふたり四駆に乗った。
「後藤さん、おつかれさまでした。あと奥多摩交番で色々ありますけど、」
「ああ、宮田こそ異動の日にすまんなあ、すっかり遅くなっちまうだろう、」
シートベルトしながら後藤が笑ってくれる。
この笑顔も声も数時間後には日常から離れてしまう、それが不思議で寂しい。
それでも明日へ進む意志と願いに微笑んで英二はハンドル捌きながら綺麗に笑った。
「今日、後藤さんに会えて良かったです、俺は今日もういちど挨拶したかったから、」
最終日の今日だから、やっぱり後藤に挨拶したかった。
この気持ちのままを英二は言葉に変え微笑んだ。
「山を何も知らない俺を最初に信じてくれたのは、後藤さんです。俺の素質を見つけてくれました、育てようって覚悟してくれました。
警察学校でも中途半端だった俺の本音も、願いも夢も、全てを見つけて信じてくれたのは後藤さんが最初です。だから今の俺があります。
後藤さんが居なかったら俺は中途半端な警察官でした、周太を援けることも今ほど出来ません、全部あなたのお蔭です、本当に感謝します、」
夏富士でも伝えた想いを今、この奥多摩の山であらためて感謝したい。
この山々に後藤が自分を呼び、育て、山ヤの技能と心の核を与えたくれた。
それが無かったら今のほとんど全てが自分には無い、この想い素直に英二は笑った。
「もちろん光一と吉村先生からも俺は育てられています、でも後藤さんが俺を見つけてくれなかったら俺は二人とも会えませんでした。
あの最高の山ヤとアンザイレンパートナーになる事は出来ませんでした、最高峰の夢も、救命救急士になる夢も俺にはありませんでした。
今の俺があるのは後藤さんが居るからです、だからお願いです、どうか肺気腫に負けないで下さい、長生きして一緒に山で生きていて下さい、」
いま後藤が侵される肺病は根治が難しい。
そう解っているけれど、小さな%でも可能性があるならと願ってしまう。
その願いに林道を降りて行く車内、助手席で深く朗らかな声が笑ってくれた。
「俺はな、うるさい山爺さんになるぞ?おまえさん達が夢を叶えるのを俺も山で見たいからな、それが俺の夢だなあ、」
うるさい山爺さん、そんな言葉に後藤の想いが切ないほど温かい。
この想いをどうか叶えてほしい、そう願うまま英二はフロントガラス越し笑いかけた。
「はい、うるさく叱ってやってください。俺も光一もブレーキが難しい性質ですから、後藤さんがいないと危ないですよ?」
「そうだなあ?心配でほったらかしては行けないな、ほんとになあ…っ、」
大らかに笑う声が小さく詰まる。
それでも深く豊かな声は言ってくれた。
「ありがとうよ、宮田。俺の方こそな、おまえさんが来てくれて本当に感謝してるよ、ほんとに…ありがとうなあ、」
本当にありがとう、そう言ってくれる声にこの山ヤが好きだと想う。
そして隣で響きだした嗚咽に涙ひとつ呼応して、昔馴染みの詩は心あざやかに深まる。
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.
時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
生きるにおける人の想いへの感謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝
慎ましやかに綻ぶ花すらも、私には涙より深く心響かせる

【引用詩文:William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」XI】
(to be continued)
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