The Winds come to me from the fields of sleep 名残の風

第74話 芒硝act.3―another,side story「陽はまた昇る」
風が鳴る、ざわめき梢に交わして黄金ふらす。
楓、ブナ、水楢、橡、
朱いろ橙に黄色に萌黄、葉色ゆたかな森は光透かして呼吸する。
陽光ゆるやかに照らす下草たちは緑あわい、もう霜を浴びたのだろう。
かさり、登山靴くるむ笹音もどこか温かい。このやわらかな季節に周太は微笑んだ。
―また来られたね、秋の奥多摩に、
秋、色彩あざやぐ奥多摩に今年も来られた。
いま歩く森は去年の森と違う、見える木々も色彩も光も違っている。
去年の秋と今年は違う、それでも昨日の場所と時間よりずっと近い。
「周太、見ろよ?」
闊達な声に名前を呼ばれて、その声も去年と違う。
けれど昨日より今日の方が去年と近い、この距離に笑いかけた。
「ん、賢弥なに?」
「ほら、あそこ鹿がコッチ見てるぞ、まだ若そうだな、この春に生まれたやつかな、」
日焼けあわい指が樹間をさす、その先はるか茶色やわらかい。
きらめく木洩陽に視線こちらへ向けている?そんな気配に吐息こぼれ笑った。
「あんなに遠いのに賢弥、よく解かるね?」
自分も視力は悪くないはず、けれど眼鏡を使っている賢弥のほうが目敏い。
その不思議な瞳はチタンフレーム越し闊達に笑った。
「赤ん坊の頃から見慣れてるからな、木曽にも鹿はいるよ、」
故郷の名前に笑って少しだけ瞳が揺れてしまう。
その眼差しに七月の夜を見つめて、そっと尋ねた。
「あの…賢弥、お盆も家に帰らなかったよね?お正月はどうするの、」
賢弥は今夏、故郷に帰らなかった。
その理由なんて自分には解る、だから確かめてしまう想いに友達は笑った。
「バイトだよ、去年と同じ神社で裏方するんだ。時給高くて割が良いんだ、研究室の留守番もあるしさ、」
やっぱり賢弥は故郷に帰らない。
帰らない、のではなく帰れない。
本当は帰りたいと願っている、それでも帰らないと賢弥は決めてしまった。
だから夏7月、ふたり酒と会話で笑った夜に言ってくれたのかもしれない。
―木曽の家に泊りおいでって誘ってくれたのは賢弥、独りで帰って弥生さんと顔合すの辛いからだよね、
“ 弥生 ”
春3月生まれの従姉が賢弥にはいる。
早生まれで学年ひとつ上、けれど4月生まれの賢弥と数日しか違わない。
この齢の差以上に彼女と賢弥は近くて、そのままに初恋を抱きあって誰より一緒だった。
―…部活も弥生と一緒に美術部でさ、高校も弥生の行った進学校に追っかけてったよ。先輩って呼ぶの嫌で、学校では「あのさ」って呼んでた
…
弥生もずっと好きだったって言ってくれた。大学行くのに木曽を離れて俺と離れるの辛かったって言ってさ、喜んでくれた。
弥生のアパートに行ったら本棚のとこ、俺との写真が飾ってあったんだ。それ見て俺すごい嬉しくて幸せで、結婚しようって言ったよ。
俺が大学卒業して就職したらすぐ結婚しようって約束したんだ、それを弥生ほんとうに喜んでくれた。それで夜、本当に恋人になったよ、
そんなふう話してくれた賢弥の笑顔は優しかった。
あんな貌で笑ってしまうほど想って、だから彼女と将来を約束して、けれど別れた。
―…全部ダメだったんだ。俺たちイトコ同士でも結婚出来ないんだ、俺たちの祖父母がイトコ同士で結婚してたから血が濃すぎて。
祖母さんは隣村から嫁に来たっていうのは知ってた、その母親が木曽の出身で祖父さんの叔母だったんだよ、そんなの知らないよな?
ふたりは近すぎた、それが別離になってしまった。
いちばん近くにいた相手だから恋をして、愛して、ずっと一緒にいられると信じて約束いくつも結んだ。
生まれた時から見つめ合ってきた、そんな相手と生涯を逢わないと決めることは、別れを選ぶことはきっと苦しい。
―…子供が出来ないんなら、一緒にいる選択もあるよ?でも弥生は跡取り娘なんだ、子供は欲しいんだよ。だから別れた、
あのとき俺、故郷が解からなくなったんだ。いちばん一緒にいた弥生といちばん遠くに離れることになって全部解らなくなった、
木曽の山も川も全部が単純に好きだった、その全てに弥生との想い出が笑ってくれるんだよ。それが辛くて東大を受験したんだ。
東京に行けば木曽と違い過ぎて、気が紛れるって思って、
愛していた故郷、けれど恋人の手を離す瞬間に全て喪った。
それでも賢弥のスケッチブックには木曽の森が光あざやかに描かれる。
あんなに美しく描いてしまう故郷、けれど「故郷が解らなくなった」そんな言葉に吐露されたのは、涙だった。
『あのときの俺にとったら故郷が一瞬で、知らない世界になった、』
あの涙は今この時も賢弥の心に降るのだろうか、この森に故郷の森を映して恋人を見つめるだろうか?
自分だって今なつかしい笑顔と去年の森を見てしまう、こんな想いすら同じかもしれない友達は闊達に笑った。
「周太、小嶌さんと先生なんか立止ったぞ、なんだろな?」
「ん?…あの切株に何かあるみたいだね、美代さんカメラ出してる、」
微笑んで答えながら二人すこし脚速くなる。
なにか面白い発見があるかもしれない?そんな好奇心と向学心に愉快になれる。
こんなふう同じ道に笑いあえる友達が嬉しくて、その喜びに昨夜の言葉ひとつ映りこんだ。
『農学部なんだ、弟も、』
なぜ伊達は「同じ道」だと自分に言ったのだろう?
隊内でも家族関係を知ることは禁忌だと教えてくれた。
それなのに話してくれた真意が解らない、自分との「共通点」を話す理由はまだ見えない。
―伊達さんも関係者かもしれないんだ、だってお祖父さんの小説と芳名帳の人が同一人物なら、あの場所は殆んど全員が、
あの場所は、SAT所属の狙撃手たちは「最初から招聘」されている。
そんな推定が遺された書類から読みとれてしまう、だから伊達の言葉にも考えこむ。
この推定が真相だとしたら倫理上の問題が大きすぎる、世論に暴かれたら組織ごと弾劾されるだろう。
それでも父と箭野の存在に説明がつく、なにより、あの祖父が証拠と論拠なく「罪」の物語を書き記すだろうか?
―お祖父さんは自分の告白文だけで書いたんじゃない、他の被害者が出ない為に書いたかもしれないんだ、
『 La chronique de la maison 』
フランス語で祖父が記したミステリー小説は、ある「罠」の物語。
それは自身の手を使わない、トリックも遣わない、けれど望むままに犯罪は起きる。
その犯罪を直接実行する者はいる、その者は自身の意志で犯したのだと思っている、でも違う。
―いつも仕向けられているんだ、本人も気づかないまま意志から心まで、
小説に描かれる「犯人」は人を心から動かしてしまう。
その貌で声で、その言葉で、相手の心を動かして操って、そして犯罪が起きる。
その犯罪現場で「犯人」の手は一度も動かされない、けれど直接実行した者は犯罪者として裁かれる。
それでも「犯人」は法の罪に当たらない、この「罠」たちが現実の記録だとしたら自分は多分「犯人」を見た。
“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る
こんなメッセージを祖父は息子に贈る本へ綴った。
あの「recherche」に小説へ隠された「罠」の現実を見るなら名前ひとつ気がつける。
父の葬儀で芳名帳に書かれた一つの名前、あの名前は閲覧したら経歴から誰かすぐ解かった、けれど。
―それでも僕には確かめる方法が見えない、あの小説が事実だとしても証拠が無い…どうしたらいいの、
“ 観碕征治 ”
あの名前が父の芳名帳に綴られた、そこに「罠」の証拠があるかもしれない?
けれど証拠へ辿りつく方法論が手詰まりでいる。
どんなに今こうして推定を積んでも物的証拠ひとつ見つかっていない。
あの小説に記された証拠も先に掘り出されてしまった、父の存在示す書類も隠される。
―あのひとが警察官僚ならお父さんの書類を隠す指示も…小説通りならお祖父さんの友達で、帝大OBでキャリアで…どこかに、
あの小説が事実なら、観碕征治と祖父は友人だった。
そこに「罠」の証拠を探す鍵があるかもしれない、けれど未だ解らないのはヒントの見落としがある。
―小説をもう一回読んでみよう、観碕さんらしき人の記述をピックアップして比較して、
今SATでは父の証拠を探せない、それでも祖父と観碕の証拠は探せるかもしれない。
その可能性に想い廻らせながら友達と笑って歩く、この現実の森は黄金の梢ふらす陽光まばゆい。
こんな場所に来てまで自分は「罠」に拘ってしまう、それが少し寂しい本音に闊達な声が笑った。
「小嶌さん、青木先生、なに見てるんですか?」
「ああ手塚くん、ここ見て下さい、ほら湯原くんも、」
眼鏡の明るい瞳が笑ってくれる森の陽だまり、切株ひとつ仲間と囲む。
明るい光の輪に緑の苔やわらかい、その端ひとつ小さな芽を見つけて周太は笑った。
「杉の芽ですね、可愛い…美代さんが見つけたの?」
「うん、可愛いでしょ?こういうの杉の木の可愛いとこだなって思うの、」
美代も笑ってファインダーから振り向いてくれる。
きれいな明るい瞳は楽しそうに温かい、この笑顔と夢ひとつ約束した季から今何ヶ月が過ぎたろう?
あのとき共に夢追いかけられる幸せを知った、その喜びは色褪せないまま今も隣で笑って、だからこそ泣きたい。
―ごめんね美代さん、僕いま他のこと考えてた…せっかく今こうして森林学の現場にいるのに、
いま夢の場所で仲間と恩師と笑っている、それなのに推定から離れられない。
それでも今この時を笑っていたくて周太は微笑んだ。
「倒木から育つの図鑑では見たけど…本物はもっと可愛いね、すごいね?」
「でしょ?こうやって細菌とか負けないようにするって、植物の知恵ね、」
楽しいトーン答えてくれる横顔を木洩陽ゆれて明るます。
やわらかな風に梢が鳴る、その軽やかな音から黄金ゆっくり降ってくる。
光のひるがえす葉は陽を透かして金色まばゆい、その輝きの底に切株ひとつ芽生え輝く。
ーきれいだな…切株も苔も、小さな杉の子供も、
見つめる杉の実生は小さな命だろう。
けれど育まれるなら大樹にも育つ、そんな想いに穏やかな声が笑ってくれた。
「そうですね、弱いから土台になってくれる切株や倒木が大事です。こういう姿を見ていると人間も同じだなって私は思ったりします、」
弱いから土台になってくれる倒木が大事、
そんな言葉にまた自分たち親子の関係が重なってしまう。
この自分も今こうして森林学の現場を歩けるのは、父と祖父の学問に掛けた道を土台にしている。
―お祖父さんが学術基金を作ってくれて青木先生が勉強できて、田嶋先生が僕を基金で研究生にしてくれて、
祖父、湯原晉博士が自身の著作権料から学術基金を創設した。
その基金で学んだ人が自分の恩師になり、そして祖父の弟子が自分にも研究の道を拓いてくれた。
そこには父と田嶋の学問に山に繋がれた想いがある、こうして自分が今を学べる感謝が温かくて、だから考えてしまう。
―どうして観碕さんはお祖父さんを選んだの?あの場所に「招聘」したくても学者として有名な人をなんて現実的じゃない、無理なのに、
あの小説が事実なら、どうして観碕は「罠」のターゲットを祖父にしたかった?
それは小説通りなら祖父の経歴と能力が理由かもしれない、けれど現実的に無理がある。
既に学者として著名な人間を他の職業に移すなど周囲が許さない、隠れて並業することも無理だろう。
それは小説のなかでも祖父らしき主人公が語っている、それでも現実に観碕は祖父に関わり続けたのだろうか。
―あの小説どおりなら観碕さんは僕の曾お祖父さんのことを…そこまでして、どうしてお祖父さんを?
半世紀前に始まった「罠」そこにある事実と推定が思案めぐらす、また離れられない。
こんな自分は去年の秋から遠すぎて、それでも木洩陽ゆれる梢の黄金に笑顔ひとつ見てしまう。
輝いた秋の森に笑ってくれたひと、あの端正な切長の瞳は父とよく似て穏やかに綺麗で優しかった。
あの笑顔も今この杉の切株のように自分を生かそうとしてくれる、そうして秘密が去年の秋から隔ててゆく。
―英二も僕の土台になろうとしてる、でも僕はそんなことしてほしくない…英二のきれいな笑顔を見ていたい、あのブナの木の下で、ただ笑って、
ほら、あのブナの大樹が懐かしい。
空を戴冠した大らかな梢、白と黒のまだらの肌は水を通して息づかす。
あの水が川になって海になって世界を潤すのだと見つめて、その廻りに唯ひとつ想い見つめて初めて名前を呼んだ。
『英二、』
ほら、自分の声が去年の秋に羞んで笑う。
名字で呼ぶ距離を超えて、初めて相手の名前を呼ぶことが気恥ずかしくて嬉しくて、愛しくて、ただ幸せだった。
あの場所は今いる森から何キロメートル離れているのだろう、この距離を超えたなら、あの綺麗な笑顔は黄金の森に咲くだろうか。
あの秋にまた、自分は立てる?
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」】
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第74話 芒硝act.3―another,side story「陽はまた昇る」
風が鳴る、ざわめき梢に交わして黄金ふらす。
楓、ブナ、水楢、橡、
朱いろ橙に黄色に萌黄、葉色ゆたかな森は光透かして呼吸する。
陽光ゆるやかに照らす下草たちは緑あわい、もう霜を浴びたのだろう。
かさり、登山靴くるむ笹音もどこか温かい。このやわらかな季節に周太は微笑んだ。
―また来られたね、秋の奥多摩に、
秋、色彩あざやぐ奥多摩に今年も来られた。
いま歩く森は去年の森と違う、見える木々も色彩も光も違っている。
去年の秋と今年は違う、それでも昨日の場所と時間よりずっと近い。
「周太、見ろよ?」
闊達な声に名前を呼ばれて、その声も去年と違う。
けれど昨日より今日の方が去年と近い、この距離に笑いかけた。
「ん、賢弥なに?」
「ほら、あそこ鹿がコッチ見てるぞ、まだ若そうだな、この春に生まれたやつかな、」
日焼けあわい指が樹間をさす、その先はるか茶色やわらかい。
きらめく木洩陽に視線こちらへ向けている?そんな気配に吐息こぼれ笑った。
「あんなに遠いのに賢弥、よく解かるね?」
自分も視力は悪くないはず、けれど眼鏡を使っている賢弥のほうが目敏い。
その不思議な瞳はチタンフレーム越し闊達に笑った。
「赤ん坊の頃から見慣れてるからな、木曽にも鹿はいるよ、」
故郷の名前に笑って少しだけ瞳が揺れてしまう。
その眼差しに七月の夜を見つめて、そっと尋ねた。
「あの…賢弥、お盆も家に帰らなかったよね?お正月はどうするの、」
賢弥は今夏、故郷に帰らなかった。
その理由なんて自分には解る、だから確かめてしまう想いに友達は笑った。
「バイトだよ、去年と同じ神社で裏方するんだ。時給高くて割が良いんだ、研究室の留守番もあるしさ、」
やっぱり賢弥は故郷に帰らない。
帰らない、のではなく帰れない。
本当は帰りたいと願っている、それでも帰らないと賢弥は決めてしまった。
だから夏7月、ふたり酒と会話で笑った夜に言ってくれたのかもしれない。
―木曽の家に泊りおいでって誘ってくれたのは賢弥、独りで帰って弥生さんと顔合すの辛いからだよね、
“ 弥生 ”
春3月生まれの従姉が賢弥にはいる。
早生まれで学年ひとつ上、けれど4月生まれの賢弥と数日しか違わない。
この齢の差以上に彼女と賢弥は近くて、そのままに初恋を抱きあって誰より一緒だった。
―…部活も弥生と一緒に美術部でさ、高校も弥生の行った進学校に追っかけてったよ。先輩って呼ぶの嫌で、学校では「あのさ」って呼んでた
…
弥生もずっと好きだったって言ってくれた。大学行くのに木曽を離れて俺と離れるの辛かったって言ってさ、喜んでくれた。
弥生のアパートに行ったら本棚のとこ、俺との写真が飾ってあったんだ。それ見て俺すごい嬉しくて幸せで、結婚しようって言ったよ。
俺が大学卒業して就職したらすぐ結婚しようって約束したんだ、それを弥生ほんとうに喜んでくれた。それで夜、本当に恋人になったよ、
そんなふう話してくれた賢弥の笑顔は優しかった。
あんな貌で笑ってしまうほど想って、だから彼女と将来を約束して、けれど別れた。
―…全部ダメだったんだ。俺たちイトコ同士でも結婚出来ないんだ、俺たちの祖父母がイトコ同士で結婚してたから血が濃すぎて。
祖母さんは隣村から嫁に来たっていうのは知ってた、その母親が木曽の出身で祖父さんの叔母だったんだよ、そんなの知らないよな?
ふたりは近すぎた、それが別離になってしまった。
いちばん近くにいた相手だから恋をして、愛して、ずっと一緒にいられると信じて約束いくつも結んだ。
生まれた時から見つめ合ってきた、そんな相手と生涯を逢わないと決めることは、別れを選ぶことはきっと苦しい。
―…子供が出来ないんなら、一緒にいる選択もあるよ?でも弥生は跡取り娘なんだ、子供は欲しいんだよ。だから別れた、
あのとき俺、故郷が解からなくなったんだ。いちばん一緒にいた弥生といちばん遠くに離れることになって全部解らなくなった、
木曽の山も川も全部が単純に好きだった、その全てに弥生との想い出が笑ってくれるんだよ。それが辛くて東大を受験したんだ。
東京に行けば木曽と違い過ぎて、気が紛れるって思って、
愛していた故郷、けれど恋人の手を離す瞬間に全て喪った。
それでも賢弥のスケッチブックには木曽の森が光あざやかに描かれる。
あんなに美しく描いてしまう故郷、けれど「故郷が解らなくなった」そんな言葉に吐露されたのは、涙だった。
『あのときの俺にとったら故郷が一瞬で、知らない世界になった、』
あの涙は今この時も賢弥の心に降るのだろうか、この森に故郷の森を映して恋人を見つめるだろうか?
自分だって今なつかしい笑顔と去年の森を見てしまう、こんな想いすら同じかもしれない友達は闊達に笑った。
「周太、小嶌さんと先生なんか立止ったぞ、なんだろな?」
「ん?…あの切株に何かあるみたいだね、美代さんカメラ出してる、」
微笑んで答えながら二人すこし脚速くなる。
なにか面白い発見があるかもしれない?そんな好奇心と向学心に愉快になれる。
こんなふう同じ道に笑いあえる友達が嬉しくて、その喜びに昨夜の言葉ひとつ映りこんだ。
『農学部なんだ、弟も、』
なぜ伊達は「同じ道」だと自分に言ったのだろう?
隊内でも家族関係を知ることは禁忌だと教えてくれた。
それなのに話してくれた真意が解らない、自分との「共通点」を話す理由はまだ見えない。
―伊達さんも関係者かもしれないんだ、だってお祖父さんの小説と芳名帳の人が同一人物なら、あの場所は殆んど全員が、
あの場所は、SAT所属の狙撃手たちは「最初から招聘」されている。
そんな推定が遺された書類から読みとれてしまう、だから伊達の言葉にも考えこむ。
この推定が真相だとしたら倫理上の問題が大きすぎる、世論に暴かれたら組織ごと弾劾されるだろう。
それでも父と箭野の存在に説明がつく、なにより、あの祖父が証拠と論拠なく「罪」の物語を書き記すだろうか?
―お祖父さんは自分の告白文だけで書いたんじゃない、他の被害者が出ない為に書いたかもしれないんだ、
『 La chronique de la maison 』
フランス語で祖父が記したミステリー小説は、ある「罠」の物語。
それは自身の手を使わない、トリックも遣わない、けれど望むままに犯罪は起きる。
その犯罪を直接実行する者はいる、その者は自身の意志で犯したのだと思っている、でも違う。
―いつも仕向けられているんだ、本人も気づかないまま意志から心まで、
小説に描かれる「犯人」は人を心から動かしてしまう。
その貌で声で、その言葉で、相手の心を動かして操って、そして犯罪が起きる。
その犯罪現場で「犯人」の手は一度も動かされない、けれど直接実行した者は犯罪者として裁かれる。
それでも「犯人」は法の罪に当たらない、この「罠」たちが現実の記録だとしたら自分は多分「犯人」を見た。
“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る
こんなメッセージを祖父は息子に贈る本へ綴った。
あの「recherche」に小説へ隠された「罠」の現実を見るなら名前ひとつ気がつける。
父の葬儀で芳名帳に書かれた一つの名前、あの名前は閲覧したら経歴から誰かすぐ解かった、けれど。
―それでも僕には確かめる方法が見えない、あの小説が事実だとしても証拠が無い…どうしたらいいの、
“ 観碕征治 ”
あの名前が父の芳名帳に綴られた、そこに「罠」の証拠があるかもしれない?
けれど証拠へ辿りつく方法論が手詰まりでいる。
どんなに今こうして推定を積んでも物的証拠ひとつ見つかっていない。
あの小説に記された証拠も先に掘り出されてしまった、父の存在示す書類も隠される。
―あのひとが警察官僚ならお父さんの書類を隠す指示も…小説通りならお祖父さんの友達で、帝大OBでキャリアで…どこかに、
あの小説が事実なら、観碕征治と祖父は友人だった。
そこに「罠」の証拠を探す鍵があるかもしれない、けれど未だ解らないのはヒントの見落としがある。
―小説をもう一回読んでみよう、観碕さんらしき人の記述をピックアップして比較して、
今SATでは父の証拠を探せない、それでも祖父と観碕の証拠は探せるかもしれない。
その可能性に想い廻らせながら友達と笑って歩く、この現実の森は黄金の梢ふらす陽光まばゆい。
こんな場所に来てまで自分は「罠」に拘ってしまう、それが少し寂しい本音に闊達な声が笑った。
「小嶌さん、青木先生、なに見てるんですか?」
「ああ手塚くん、ここ見て下さい、ほら湯原くんも、」
眼鏡の明るい瞳が笑ってくれる森の陽だまり、切株ひとつ仲間と囲む。
明るい光の輪に緑の苔やわらかい、その端ひとつ小さな芽を見つけて周太は笑った。
「杉の芽ですね、可愛い…美代さんが見つけたの?」
「うん、可愛いでしょ?こういうの杉の木の可愛いとこだなって思うの、」
美代も笑ってファインダーから振り向いてくれる。
きれいな明るい瞳は楽しそうに温かい、この笑顔と夢ひとつ約束した季から今何ヶ月が過ぎたろう?
あのとき共に夢追いかけられる幸せを知った、その喜びは色褪せないまま今も隣で笑って、だからこそ泣きたい。
―ごめんね美代さん、僕いま他のこと考えてた…せっかく今こうして森林学の現場にいるのに、
いま夢の場所で仲間と恩師と笑っている、それなのに推定から離れられない。
それでも今この時を笑っていたくて周太は微笑んだ。
「倒木から育つの図鑑では見たけど…本物はもっと可愛いね、すごいね?」
「でしょ?こうやって細菌とか負けないようにするって、植物の知恵ね、」
楽しいトーン答えてくれる横顔を木洩陽ゆれて明るます。
やわらかな風に梢が鳴る、その軽やかな音から黄金ゆっくり降ってくる。
光のひるがえす葉は陽を透かして金色まばゆい、その輝きの底に切株ひとつ芽生え輝く。
ーきれいだな…切株も苔も、小さな杉の子供も、
見つめる杉の実生は小さな命だろう。
けれど育まれるなら大樹にも育つ、そんな想いに穏やかな声が笑ってくれた。
「そうですね、弱いから土台になってくれる切株や倒木が大事です。こういう姿を見ていると人間も同じだなって私は思ったりします、」
弱いから土台になってくれる倒木が大事、
そんな言葉にまた自分たち親子の関係が重なってしまう。
この自分も今こうして森林学の現場を歩けるのは、父と祖父の学問に掛けた道を土台にしている。
―お祖父さんが学術基金を作ってくれて青木先生が勉強できて、田嶋先生が僕を基金で研究生にしてくれて、
祖父、湯原晉博士が自身の著作権料から学術基金を創設した。
その基金で学んだ人が自分の恩師になり、そして祖父の弟子が自分にも研究の道を拓いてくれた。
そこには父と田嶋の学問に山に繋がれた想いがある、こうして自分が今を学べる感謝が温かくて、だから考えてしまう。
―どうして観碕さんはお祖父さんを選んだの?あの場所に「招聘」したくても学者として有名な人をなんて現実的じゃない、無理なのに、
あの小説が事実なら、どうして観碕は「罠」のターゲットを祖父にしたかった?
それは小説通りなら祖父の経歴と能力が理由かもしれない、けれど現実的に無理がある。
既に学者として著名な人間を他の職業に移すなど周囲が許さない、隠れて並業することも無理だろう。
それは小説のなかでも祖父らしき主人公が語っている、それでも現実に観碕は祖父に関わり続けたのだろうか。
―あの小説どおりなら観碕さんは僕の曾お祖父さんのことを…そこまでして、どうしてお祖父さんを?
半世紀前に始まった「罠」そこにある事実と推定が思案めぐらす、また離れられない。
こんな自分は去年の秋から遠すぎて、それでも木洩陽ゆれる梢の黄金に笑顔ひとつ見てしまう。
輝いた秋の森に笑ってくれたひと、あの端正な切長の瞳は父とよく似て穏やかに綺麗で優しかった。
あの笑顔も今この杉の切株のように自分を生かそうとしてくれる、そうして秘密が去年の秋から隔ててゆく。
―英二も僕の土台になろうとしてる、でも僕はそんなことしてほしくない…英二のきれいな笑顔を見ていたい、あのブナの木の下で、ただ笑って、
ほら、あのブナの大樹が懐かしい。
空を戴冠した大らかな梢、白と黒のまだらの肌は水を通して息づかす。
あの水が川になって海になって世界を潤すのだと見つめて、その廻りに唯ひとつ想い見つめて初めて名前を呼んだ。
『英二、』
ほら、自分の声が去年の秋に羞んで笑う。
名字で呼ぶ距離を超えて、初めて相手の名前を呼ぶことが気恥ずかしくて嬉しくて、愛しくて、ただ幸せだった。
あの場所は今いる森から何キロメートル離れているのだろう、この距離を超えたなら、あの綺麗な笑顔は黄金の森に咲くだろうか。
あの秋にまた、自分は立てる?
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」】


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