毎日同じような話題を繰り返しております。
つまり「アツイ」ということであります。
今日は午後から中学校にちょっと行っておりましたので、各中学校の快適さにまたまたびっくりして参りました。大規模校の中学校様でした。
しかし、様変わりをしたものです。中学校の職員室に冷房が入っていたのです。これには驚きました。本校は無いからです。
心頭滅却すれば火もまた涼し。
こんな心境になりたいものですが、非常に困難でありましょう。普段、クチに出して言っていることと、実際その場に立ちあったら違ってくるのが普通なのかもしれません。誰でも他人には厳しく評論をし、自分には甘いからです。これはわたくしも当てはまります。反省しなくてはなりません。
告知の問題をどう考えるか、おまえならどうだ?と問われています。ケアの学習で、です。いやぁ参りました。正直考えてもみませんでした。その場になってみなくてはわかりません。
つまり他人事なのです。すべてが。教育もそういう他人事でとらえていると、真の意味でのケアができません。さりとて、どこてどう対処するかということもまた大事な問題であります。
心身一如という言葉があります。東洋の視点から考えるものもあります。武道しかり。行動と心身の働きを一如ととらえて、両面の発展を願う。西洋はデカルトに代表されるごとく心身二元論であります。別だととらえるわけです。
このことを扱っておられる大学者の湯浅泰雄先生の著書"身体論 東洋的心身論と現代 (講談社学術文庫)"がほしくて、インターネットで注文して、あっという間に次の日に自宅に届けられました。
以来、あちこち読んでおります。すぐれた方であります。そして、そこになんらかの回答があるのではないかと思い始めました。
告知の問題も含めてです。
あまりにも大きな問題であります。とてもとてもわたくしごときの手に負える問題ではないのかもしれません。こういうのは、問いの連続になるのかもしれないと思うからであります。もしかしたら、解がないのではないかと思っています。まだわかりませんが。先生に問われて初めて自分の意識に上ってきただけで、逃げているのかと追い打ちをかけられそうです。安易なごまかしをすることなく、「問いと解」を自己に問うていきたいとこの暑い中を耐えているわけです。
しかしながら、一言で解決策が授けられるほど世の中甘くはありません。そういう解決を考えていくとなると、これは若干危険です。ですから、幸福になる10の方法とかのノウハウ本は、実に危険きわまることになるとそれこそ体験的に思うのであります。確かに片言隻語に真理はあるのかもしれません。されど、真理は一つというのもわたくしは簡単に首肯できないと感じておるのであります。
30日の始業式で、ちょっとだけ述べました。それは鎌倉時代の日本思想で、それこそエベレストのように険峻なる思想家の理解に苦しんでいると。10代後半からの本当にチャレンジでありました。以来ずっとやっています。しかし全く歯が立たない。そして、西洋哲学のハイデガーが深く関わっているということを知って、今更ながら数学や、物理の真摯なる世界を理解できていないことを後悔しているのであります。理数的な深い教養なくして現代哲学は理解できません。理数的教養をお持ちの先生方がこころの底からうらやましいのです。哲学書を読んでいても、論理的な記述に遭うといちいち立ち止まり、調べなくてはなりません。浅学非才とはよく言ったものであります。齢を重ねても、知らないこと、勉強しなくてはならないことが多すぎるのであります。だから浅学であり、非才なわけです。
高校生時代というのは、誤解を恐れずに言うならばうぬぼれと、世間知らずと、愚昧が同居しているようなものです。
ですから、簡単に成績が悪かったからと言って特定教科を捨ててはならないのです。教科の深い精神性を捨てることになるからです。もったいないではありませんか。せっかく保護者の方からのご援助で、衣食住の心配をせずに生きることができるのですから。ですから、すべてを学問に捧げ、体力養成をし、人物を磨くべきであります。自ら勉強することです。何度も言ってきましたが、英単語を覚えるのは自分です。NHKのテストの花道で勉強法を探るのもいい。しかし、方法論だけ学んでも、実際に行動しなくては、これは話になりません。覚えるのは自分です。どうか努力してください。
もっともこれだけ言っても理解できないのかもしれません。
それでもわたくしはクチやかましく申し上げたい。それがわたくしたち教師の宿命であると思うからであります。
また明日!
つまり「アツイ」ということであります。
今日は午後から中学校にちょっと行っておりましたので、各中学校の快適さにまたまたびっくりして参りました。大規模校の中学校様でした。
しかし、様変わりをしたものです。中学校の職員室に冷房が入っていたのです。これには驚きました。本校は無いからです。
心頭滅却すれば火もまた涼し。
こんな心境になりたいものですが、非常に困難でありましょう。普段、クチに出して言っていることと、実際その場に立ちあったら違ってくるのが普通なのかもしれません。誰でも他人には厳しく評論をし、自分には甘いからです。これはわたくしも当てはまります。反省しなくてはなりません。
告知の問題をどう考えるか、おまえならどうだ?と問われています。ケアの学習で、です。いやぁ参りました。正直考えてもみませんでした。その場になってみなくてはわかりません。
つまり他人事なのです。すべてが。教育もそういう他人事でとらえていると、真の意味でのケアができません。さりとて、どこてどう対処するかということもまた大事な問題であります。
心身一如という言葉があります。東洋の視点から考えるものもあります。武道しかり。行動と心身の働きを一如ととらえて、両面の発展を願う。西洋はデカルトに代表されるごとく心身二元論であります。別だととらえるわけです。
このことを扱っておられる大学者の湯浅泰雄先生の著書"身体論 東洋的心身論と現代 (講談社学術文庫)"がほしくて、インターネットで注文して、あっという間に次の日に自宅に届けられました。
以来、あちこち読んでおります。すぐれた方であります。そして、そこになんらかの回答があるのではないかと思い始めました。
告知の問題も含めてです。
あまりにも大きな問題であります。とてもとてもわたくしごときの手に負える問題ではないのかもしれません。こういうのは、問いの連続になるのかもしれないと思うからであります。もしかしたら、解がないのではないかと思っています。まだわかりませんが。先生に問われて初めて自分の意識に上ってきただけで、逃げているのかと追い打ちをかけられそうです。安易なごまかしをすることなく、「問いと解」を自己に問うていきたいとこの暑い中を耐えているわけです。
しかしながら、一言で解決策が授けられるほど世の中甘くはありません。そういう解決を考えていくとなると、これは若干危険です。ですから、幸福になる10の方法とかのノウハウ本は、実に危険きわまることになるとそれこそ体験的に思うのであります。確かに片言隻語に真理はあるのかもしれません。されど、真理は一つというのもわたくしは簡単に首肯できないと感じておるのであります。
30日の始業式で、ちょっとだけ述べました。それは鎌倉時代の日本思想で、それこそエベレストのように険峻なる思想家の理解に苦しんでいると。10代後半からの本当にチャレンジでありました。以来ずっとやっています。しかし全く歯が立たない。そして、西洋哲学のハイデガーが深く関わっているということを知って、今更ながら数学や、物理の真摯なる世界を理解できていないことを後悔しているのであります。理数的な深い教養なくして現代哲学は理解できません。理数的教養をお持ちの先生方がこころの底からうらやましいのです。哲学書を読んでいても、論理的な記述に遭うといちいち立ち止まり、調べなくてはなりません。浅学非才とはよく言ったものであります。齢を重ねても、知らないこと、勉強しなくてはならないことが多すぎるのであります。だから浅学であり、非才なわけです。
高校生時代というのは、誤解を恐れずに言うならばうぬぼれと、世間知らずと、愚昧が同居しているようなものです。
ですから、簡単に成績が悪かったからと言って特定教科を捨ててはならないのです。教科の深い精神性を捨てることになるからです。もったいないではありませんか。せっかく保護者の方からのご援助で、衣食住の心配をせずに生きることができるのですから。ですから、すべてを学問に捧げ、体力養成をし、人物を磨くべきであります。自ら勉強することです。何度も言ってきましたが、英単語を覚えるのは自分です。NHKのテストの花道で勉強法を探るのもいい。しかし、方法論だけ学んでも、実際に行動しなくては、これは話になりません。覚えるのは自分です。どうか努力してください。
もっともこれだけ言っても理解できないのかもしれません。
それでもわたくしはクチやかましく申し上げたい。それがわたくしたち教師の宿命であると思うからであります。
また明日!