孤独がもたらす影響ということでちょっとプレゼンテーション資料を作成していました。いろいろと資料をあたっていて、孤高の詩人中原中也に思い至りました。さらに中原中也の関係資料に、あさのあつこ氏の「バッテリー」という角川文庫が紹介されていました。読んだことがなかったのと、少年野球チームのエースで、孤高を愛するピッチャーのことを書いてあるということでなんとなく興味を感じたのが今日の運の尽き。
夕刻、スポーツジムに行く前にショッピングセンターの中の書店で購入。それからずっと読んでいました。スポーツジムの自転車こぎをしていたら、おもしろくておもしろくて時間のたつのを忘れてしまった。おかげで消費カロリーがもの凄いことになっておりました。苦笑しました。
さらに家に帰ってからも、それこそ家の中のあらゆる場所で読んでいて家人に叱られてしまったのです。それでも、それでもおもしろい。
少年で、いわゆる小生意気な、粋がっている輩はたんといるのですが、(もっとも大人でも多い)そうした心境もずばり書いてあって、これは出色の小説でありました。家族と距離を置き、自分の考えを秘めることが多くなっていく時代。自分だけの世界を持とうとして奮闘するそのおかしさ。ぎこちなさ。こっけいさ。
母方の祖父が、高校野球の元監督で、甲子園出場経験もある家系。さらにキャッチャーをする相手の男の子もいい書き方をされている。病院のあと取り息子で、野球をあきらめかけていたところに天才少年の主人公が現れる。
この祖父の描き方も実にいい。妻を亡くし、野球ばかりやってきて、長女である娘にも(主人公の母)あきれられている。家庭をいっさい顧みないで生きてきてしまった祖父。されど、孫の主人公の才能にぞっこんでもある。それを嫌がる主人公の母。
天才ピッチャーというのは、この主人公のように自分に絶対の自信がなければできないのだろうなぁと感じました。たいしたものです。エライものです。これほどまで、自信を持てるということがです
そうです、読了したのです。
3時間もかかってしまった。表現はやさしいですから、すっすとアタマに入ってきます。
裏表紙に書いてあったこの文庫の紹介を下に書いてみましょう。
「そうだ、本気になれよ。本気で向かってこい。関係ないこと全部すてて、おれの球だけを見ろよ」
岡山県境の地方都市、新田に引っ越してきた原田巧。天才ピッチャーとしての才能に絶大な自信を持つ巧の前に、同級生の永倉豪が現れ、彼とバッテリーを組むことを熱望する。
「これは本当に児童書なのか?」
ジャンルを越え、大人も子どもも夢中にさせたあの話題作が・・
上記のように紹介されています。
話題作だったのですね。知りませんでした。あまり読書量を誇ることができるほど読んでもいませんので。
実は冒頭に中原中也をあげたように、あるテーマがあって、いろいろ資料をあさっているうちにこの文庫に出会ったわけです。それは、思春期の人間がなぜ孤独になるのかということをちょっと考えていたからです。ノートにもメモをしておりました。
孤独の反対に、「現代の思春期にあるヒトたちはなぜつるむのだろうか」というテーマもあるのです。携帯しかり、ブランド志向もしかり。メール狂いもしかり。友人の数だけ誇り、一瞬たりといえども一人でいることができないヒトが現れてきたような気がするからです。風呂の中でもメールをしていないと気が済まないという新種の人類もいるのだそうです。これってホントなのですかね。本校もおるんでしょうかね。信じられないんですが。
ですから、若い人たちには孤独というのは存在していないのかもしれないと思っていたのです。
だったら、孤独というのはどういうときなのか。
中原中也がその代表だと思って、作品集を読んでおりました。もっとも中原中也は作品が少ないですけれども、ね。さらに関係資料を。
そうしたら、現代の若者達にも孤独を生きているヒトたちもいるらしいと気がついたわけなのであります。
それが「バッテリー」という小説。
野球のことはまったくわかりませんが、さもありなん。わたくしの母校の高校でも孤高を愛するストイックなエースピッチャーがおりましたっけ。わたくしは、応援団もやっていましたので、公式試合は全部6メートルもある校旗を持って応援しておりましたから。重かったのだけ覚えております。
そのエースは、母校は出ると負けの弱い高校でもありましたが、一人で延々と投げるしかなかった。まったくかわいそうなくらいに孤高の投手。チームは打てないし、自分が抑えるしかないチーム。けっこう注目されていたのです。田舎では。
あの時に投げていた同級生のエースだったのです。そう言えばいつも寡黙でありました。
わたくしと違って勉強もできました。密かに勉強もしていたのでした。よくもまぁ時間があったものです。英語と数学が得意で、現役ですいすいと国立大学に行ってしまったのです。理工系でした。たいしたものでありました。ピッチングと同じでありました。自信があったのでしょう。どこまでも。
孤独に慣れていたのです。
思うに、ある程度孤独でなければ、自分に沈潜する時間が無ければ、勉強もやはりできないということでありましょう。
確かに、一人の時間を大切にできなれければ、友人とおしゃべりしながらドストエフスキーを読めと言われてもそれは所詮無理というものです。
最後に言いたいことは、孤独であってもなんら心配は無いのですよ。在校生諸君でそういう人がいたら、かえって自分に沈潜することができると喜びたまえ。将来の飛躍のためにも。
また明日!
夕刻、スポーツジムに行く前にショッピングセンターの中の書店で購入。それからずっと読んでいました。スポーツジムの自転車こぎをしていたら、おもしろくておもしろくて時間のたつのを忘れてしまった。おかげで消費カロリーがもの凄いことになっておりました。苦笑しました。
さらに家に帰ってからも、それこそ家の中のあらゆる場所で読んでいて家人に叱られてしまったのです。それでも、それでもおもしろい。
少年で、いわゆる小生意気な、粋がっている輩はたんといるのですが、(もっとも大人でも多い)そうした心境もずばり書いてあって、これは出色の小説でありました。家族と距離を置き、自分の考えを秘めることが多くなっていく時代。自分だけの世界を持とうとして奮闘するそのおかしさ。ぎこちなさ。こっけいさ。
母方の祖父が、高校野球の元監督で、甲子園出場経験もある家系。さらにキャッチャーをする相手の男の子もいい書き方をされている。病院のあと取り息子で、野球をあきらめかけていたところに天才少年の主人公が現れる。
この祖父の描き方も実にいい。妻を亡くし、野球ばかりやってきて、長女である娘にも(主人公の母)あきれられている。家庭をいっさい顧みないで生きてきてしまった祖父。されど、孫の主人公の才能にぞっこんでもある。それを嫌がる主人公の母。
天才ピッチャーというのは、この主人公のように自分に絶対の自信がなければできないのだろうなぁと感じました。たいしたものです。エライものです。これほどまで、自信を持てるということがです
そうです、読了したのです。
3時間もかかってしまった。表現はやさしいですから、すっすとアタマに入ってきます。
裏表紙に書いてあったこの文庫の紹介を下に書いてみましょう。
「そうだ、本気になれよ。本気で向かってこい。関係ないこと全部すてて、おれの球だけを見ろよ」
岡山県境の地方都市、新田に引っ越してきた原田巧。天才ピッチャーとしての才能に絶大な自信を持つ巧の前に、同級生の永倉豪が現れ、彼とバッテリーを組むことを熱望する。
「これは本当に児童書なのか?」
ジャンルを越え、大人も子どもも夢中にさせたあの話題作が・・
上記のように紹介されています。
話題作だったのですね。知りませんでした。あまり読書量を誇ることができるほど読んでもいませんので。
実は冒頭に中原中也をあげたように、あるテーマがあって、いろいろ資料をあさっているうちにこの文庫に出会ったわけです。それは、思春期の人間がなぜ孤独になるのかということをちょっと考えていたからです。ノートにもメモをしておりました。
孤独の反対に、「現代の思春期にあるヒトたちはなぜつるむのだろうか」というテーマもあるのです。携帯しかり、ブランド志向もしかり。メール狂いもしかり。友人の数だけ誇り、一瞬たりといえども一人でいることができないヒトが現れてきたような気がするからです。風呂の中でもメールをしていないと気が済まないという新種の人類もいるのだそうです。これってホントなのですかね。本校もおるんでしょうかね。信じられないんですが。
ですから、若い人たちには孤独というのは存在していないのかもしれないと思っていたのです。
だったら、孤独というのはどういうときなのか。
中原中也がその代表だと思って、作品集を読んでおりました。もっとも中原中也は作品が少ないですけれども、ね。さらに関係資料を。
そうしたら、現代の若者達にも孤独を生きているヒトたちもいるらしいと気がついたわけなのであります。
それが「バッテリー」という小説。
野球のことはまったくわかりませんが、さもありなん。わたくしの母校の高校でも孤高を愛するストイックなエースピッチャーがおりましたっけ。わたくしは、応援団もやっていましたので、公式試合は全部6メートルもある校旗を持って応援しておりましたから。重かったのだけ覚えております。
そのエースは、母校は出ると負けの弱い高校でもありましたが、一人で延々と投げるしかなかった。まったくかわいそうなくらいに孤高の投手。チームは打てないし、自分が抑えるしかないチーム。けっこう注目されていたのです。田舎では。
あの時に投げていた同級生のエースだったのです。そう言えばいつも寡黙でありました。
わたくしと違って勉強もできました。密かに勉強もしていたのでした。よくもまぁ時間があったものです。英語と数学が得意で、現役ですいすいと国立大学に行ってしまったのです。理工系でした。たいしたものでありました。ピッチングと同じでありました。自信があったのでしょう。どこまでも。
孤独に慣れていたのです。
思うに、ある程度孤独でなければ、自分に沈潜する時間が無ければ、勉強もやはりできないということでありましょう。
確かに、一人の時間を大切にできなれければ、友人とおしゃべりしながらドストエフスキーを読めと言われてもそれは所詮無理というものです。
最後に言いたいことは、孤独であってもなんら心配は無いのですよ。在校生諸君でそういう人がいたら、かえって自分に沈潜することができると喜びたまえ。将来の飛躍のためにも。
また明日!