初代の今関源十郎校長先生であります。威厳があります。
今日は、本校の初代校長先生の写真を見上げながら、しみじみと「学校の格は、校長の格である」と先日ある私学の理事長校長先生のブログから、学ばせていただいたことを考えておりました。もし、それが真理ならば、わたくしは即刻後輩校長に禅譲しなくてはなりません。格の点では、けっして他人のことをこれ見よがしに貶めることはできないからです。人格も未だ完成しておりませんし、いろいろな迷いもあります。つまらない世間体もあるし、食欲をはじめとする欲からも離れられないからであります。
格と言うことは、つまり人間の本質をランク付けするということなのでありましょう。程度のいい格もあり、そうでもない格もあるとのたもうているわけです。しかし、人間の本質をランク付けできるものなのでしょうか。もしかして、現象面だけを格であると勘違いしておられてそういうふざけたことを言われているのでありましょうか。だったら、人間の本質とは何か?とお聞きしたいものであります。まさか、まさか学歴であるとのたもうことはないですよね、と確かめてみたい。
人間とは何かという問いとリンクしております。永遠の課題でもあります。古今東西、それに回答を出して、正解を述べた人はいないと思っているからであります。
そういう事を言われる方にお聞きしたい。それは自己評価なのでしょうか。あるいは他者評価なのでしょうか。非常に危険性を伴うコメントであると思います。進学校であるという自己規定もどういう根拠でそういう規定が可能なのか。他者がいうからなのか、それとも自画自賛なのかということと一緒であります。
そもそも人間性を格という名のもとに、評価できるのでありましょうか。人間学を追究してきたソクラテスや、プラトン、アリストテレスなどの大天才が聞いたらなんと思うのでしょうか。
呵々大笑されてしまって、それっきりなのではないですかな?
なかなか一つの立場を公表するというのは困難なものであります。そこには必ず、批判が伴うからであります。絶対的な賛同を得ることができないのと同じで、ある一つの立場で集団を統一するというのは、ある意味ファッショでもあります。
格を問題にされる方は、ある面で相手を引き下げる心理が働いております。よく、世の中には、たいした考えも無いのに、ある提案があっても、引き下げのために欠点を指摘する方がある。それはオイラの方が優秀だぞという自己満足や、自己主張があるわけです。そういう相手を引き下げることによって、自分の方が優秀だということを主張したいわけです。これは実に奇妙・奇天烈な心理状態で、わたくしの分析対象にもなります。
嫉妬心でもあるわけです。
あるいはニーチェの言うような「ルサンチマン」でもあります。自分だって超人でいたいわけであります。エリートと呼ばれたいわけであります。
昨日の記事「バッテリー」で書いたような孤高を愛するというのは、実はそういう心理状態と密接な関係があります。「うざい」とか「関係ねぇよ」とかいう台詞にもそういうのが隠されておるのではないかとしみじみ感じるのであります。
「バッテリー」に書かれているような、思春期の男の子が母親の愛情をうざく、うっとうしく思うというのも、自立への過程であるわけです。
突っ張って、他人が馬鹿に見え、オイラくらいの天才は世界に二人といないという自信も、裏を返せば単なる成長の一過程でしかない。
問題は、大人になっても思春期の心理状態から抜け出せないということでもあります。
いつまでも迷いの世界に安住していて、これでいいのよ、これでオイラは満足だというのではいかがなものかと、教師として思うからであります。
オイラには高尚な格があるんだと思うなら、それはその格を意識した時点で、完成をしているという「うぬぼれ」であります。
人間に完成は無いとずっと思ってきましたから。学問と一緒でありましょう。学問で完成したということはあり得るのでしょうか?
それとも、オイラには高尚な格があるという方には馬の耳に念仏なのでありましょうか。
なんとも、なんともよくわからない世界であります。
初代校長先生にお聞きしてみたいことのひとつでもあります。もっとも、伝統校であるわが県立銚子高校の初代校長先生は、101年前の先生です。お聞きしたくても、絶対に無理というものであります。
そんなことを考えている時間があったら、外山よ、自己を鍛えよと優しくご指導をいただきそうであります。
代々の校長先生がたの写真を拝見することによって、今日もまたお力をいただいたような気がしました。
中間試験、どうでしたか?
在校生諸君。
明日で終わりですね。
今晩もがんばりましょう!
節電対策に、部屋の電気を全部消して、手もとのスタンドだけで毎日を過ごしております。上杉鷹山公はそれさえももったいないと言われることでありましょう。