白く囲んだ写真がソシュール
今日の5時間目に、3年生の現代国語を参観させていただいておりました。
なんと教材に哲学者のソシュールが出てきていました。
「言葉はものの名前ではない」という教材です。
うれしくなりました。
こういうレベルの高い教材で学習をしていることに、です。それに若手の先生の真摯な授業姿勢に感心をしておりました。徹底的に読みを行う授業でもありました。
すばらしいものであります。
わたくしなんぞは、未だにソシュールを理解できていない。
難しいからであります。
ただし、「言葉は偶然でできた恣意的なもの」という彼の言葉は、現代のメールばやりの世の中を言い当てているようで、このあたりはなかなかおもしろい。
言葉は、概念と視覚映像の組合せでできたもので、しかも「山」をヤマと呼ぶのは偶然のことで、その組合せは恣意的なものであると言っているのです。しかし、これにはちょっと納得がいかない。概念と視覚映像の組合せから言葉ができているというのは、ちょっといかがなものかと思っているからです。
このことは、今日の午前中ある先生と面接をさせていただいているときに、話題になりました。目標申告面接でした。国語の先生で、視聴覚教材と国語の教材との関わりということで、ちょっと教頭と3人で話をさせていただいたのです。
これから追求していきたい分野であります。が、実践的にはアウトであります。もう時間がないのです。実践の場も無い。来年には高校教育界から去らねばならない。わたくしのアタマの中で、抽象的に考えることはできるのでしょうけれども。面接をさせていただいた先生に、次年度以降のご活躍を祈念して面接を終了いたしました。
思うに、70まで寿命があるとして、後10年しかない。80まで生きられるとして、後20年しかない。もう、地位とか名誉とか、惚れたハレただの、あるいは金銭欲だのとか、なんとかとかまったく関心がありません。小説にも興味が無くなってきました。多くの小説が、若い世代の魑魅魍魎と、世間的迷いを、あるいは無明を扱っているような気がしてならんのです。
だんだん、若いときには見向きもしなかったいわゆる小難しい傾向の本に興味が向かっています。時間が無いことを意識するからです。ほんとうにこれまで、なにを読んできたのだろうと自省しています。無駄ではなかったのかもしれませんが、自分では満足できないレベルでしかないのです。
だとするとこれは真逆の意味で楽しみかもしれないと思い直すことにしました。
しかし、昨日、お会いしていた知識人に、バルトを読みたいと申し上げましたら、なんとなんと「死ぬまでには読了できませんぞ」とご指導をいただいたのであります。確かに、そうでありましょう。20代から読み始めても、60年かかるのだそうですから。ヘーゲルの精神現象学も四苦八苦で苦労しているんですから、まったく浅学非才のかたまりであります。
やることが多すぎて、まったく年を取るのも忘れそうです。
◎ここからはわたくしの読書方法
考えたのが、読書法。
鉛筆を持って、軽くメモやチェックをしながら、読んでいくのが1回目。
ですから、本は自分のものでないといけません。借りた本では、そんなことは絶対にできません。
昨日の日曜にある知識人に、非常に高価な本を貸していただきました。喜んで家に帰ってきたのですが、考えたら、メモや書き込みをすることができない。それで、インターネットで同じ本を探しました。
ありました。しかも古本で。
さっそく注文しました。おかげで今月の書籍代が怖ろしいことになってきました。この写真は、一回目の読書の時に行っている作業の結果です。
A4の罫線の入っているレポート用紙に、ともかく書き殴っていきます。
それが、この写真
これはそういうメモの類をしまっておく、ルーズリーフノートです。差し替えがきくように、穴が開いているファイルに入れてしまいます。
それから、B5の100枚もある分厚いノートに整理します。
これはよほど関心のある分野でないと、ここまではやりません。
毎回ではありません。
そして、3回目は更に書籍をさっと読んでみる。
そうすると大体忘れません。
こんなことをやりながら、60まで来てしまいました。
満足しているわけでもありませんが、後悔もありません。
これでよかったのだと思っておるところであります。
また明日!