と~ま君にとっては最終成果物だろうからなぁ
☆昨日は、相当な大雨であった。ガクセイさんに戻る金曜日なので、楽しく講義をいただき、考え、ノートをとり、一日を暮らしていた。なにしろ昼食をいただく時間もないから、おにぎりとサラダを持っていって、先生とクラスメイトのいない間に、喰っちまうしかない。でないと、身体が持たない。モテナイ。わはははっはは。
近代文学の先生にも教えていただいているのだが、ある学会に提出してボツとなったオレの原稿と、学会からの指導コメントを材料に、再来週ご指導いただくことになった。思わぬ展開に、感動した。ここまでやっていただけるのだ。ありがたいものである。
所詮、オレは素人である。しかも、かなりの高齢者である。だから、論文の書き方について自信がない。ないどころか、そういうトレーニングを若いときに受けていない。学部のときは通学生であったが、卒論だって400字詰め原稿用紙で90枚程度でしかない。しかも、41年前である。保存はしてあるが、冷や汗の連続である。若かったなぁと思う。その後は、専門学校、大学院二つと学んだ。しかし、通教主体であったから、孤独な作業をしていたのである。しかも、働いていたから職場にも絶対に内緒でやっていたのである。よって、スクーリングも殆ど行っていない。
やはり先生と相対して、直接ご指導をいただけるというのが理想である。
自惚れというのは元々オレにはないのだけれども、ここまでやっていただけると、じじいのオレでもやるっきゃないですな。相手にしていただくよろこびというやつである。無視されるのが、じじいになるとちょいと辛いのである。だから、親切にされるとよろこびは倍加するのだ。
したがって、世の中の全ての方々に申しあげたい。「お年寄りには親切にしよう」って。わはははっはははっはははである。
☆師匠が「と~ま君にとっては最終成果物だろうからなぁ」とオレの論文のことについて云ってくださった。つまりオレが今書いている論文は、オレにとっては、人生の最終のものなのである。成果が上がるかどうかはわからない。それは他者が評価することであって、オレが叫んだところで、誰も振り向いてもくれないのだ。あたりめ~である。
しかしだ。なるほど、そういう覚悟で勉強しなさいよということであろう。このことは、大事なことである。すべて、今、この瞬間が最後なのである。明日死んじゃうかもしれないではないか。だったらじじいになっても、今日を大事に生きていくしかないのである。
自暴自棄になって、自堕落に生きていってはならないのだよん。
まったくオノレのことである。
だから、無視されてもいいのである。他者にどう思われてもいいのである。オノレの道をひたひたと歩いて行くしかないのである。到着できないかもしれない。それでもいいんだ。途中で死ぬかもしれないのだから。伊能忠敬だって、最終的に成果をあげることができたが、最初から完成品を夢見て歩いていったのではないだろう。
今日を精一杯生きて、歩いて、測量していたら、結果的にああなったとオレは思っているのだ。それでいいのだ。伊能忠敬のことを思うと、生涯教育の偉大な先人であったとオレは奮い立つのである。
午後3時からの中国語講座でも、活躍している方々が多い。
たいしたものである。
看護師をされておられる方が一人いて、患者に中国の人が来たときに、「どこが痛いですか?」「大丈夫ですか?」というようなことをお聞きするために学んでいるという方である。こちらにもアタマが下がった。まさに、愛の伝道者ではないか。
オレなんかとは次元が違う。
まともに生きて行かなくちゃと思った次第である。
(_ _ )/ハンセイ