旨いそばを喰ってみたい
「そばは東京がいい。それに、トンカツと蒲焼きが京・大阪よりまさっている」という文章が、司馬遼太郎の「街道をゆく 38 本所深川散歩・神田界隈」という朝日文庫にあって、お気にいりである。なんということもないちょっとした司馬遼センセの感想で他意はないのだろう。しかし、こういうシンプルな文章ではあるが、それ故にこそ納得している。
なるほど、「そばは東京がいい」というのはわかるような気がする。
東京というのはなんでも威勢がいい。江戸時代からいろいろなところからの流入が多かった土地であるから、他人を監視するようなところがない。良い意味でも、悪い意味でもある。
たとえば火の用心にしても、江戸は不用心である。と、司馬遼センセもこの本で書いていた。独身の職人が、仕事をめいっぱいしてきて、夕方ちょっと晩酌をして、あとは布団をひっかぶってちょいと寝てしまう。だから火の用心まで気が回らない。したがって、江戸の大火は多かったというくだりは、非常に納得した。そもそも、江戸は独身者が多かったそうで、だから家の火の用心まで気が回らなかったというのはわかる。でも、カミさんを持てたのはなかなかの働きものでしかできなかったであろうとオレは思った。そうだとすると晩婚化を嘆いているオレは、あわてもんの横丁の隠居でしかないということになる。粗忽じじいというやつである。
最近は、日本の少子化を心配されている政治家が多い。しかし、日本の適正人口というのは何人なんだろうかということも、オレは考えることがある。富国強兵で、産めよ増やせよとやっていた時代が明治維新後あったわけで、今は少子化で問題になっている。
教育もどうなるのだとも思っている。
変わっていかないという「思い込み」があるから、既存のシステムというものが有効なのであって、そこに安住していたら間違いを犯す。安住はよくない。伝統のある地域に住んでおられる方々は、安住しているとまでは云わないが、他者監視が厳しい。
つまりよそ者に対して監視が厳しいわけである。
どこに行くのか、何をしているのかということについて隣近所に目をくばっている。こういう文化は、京・大阪あたりの関西伝統文化圏に多い。なぜか。火の用心から来ているというのが司馬遼センセなのだ。これはこれは、目から鱗である。
他者監視も厳しすぎるとうっとうしいが、ある意味必要性はある。
なぜか。
幼児達が亡くなっているからである。五歳児が餓死していたという事件があった。父親が食事も与えないで、育児を放棄した事件だ。「パパ、パパ」とすがりついて父親を追っていたとも新聞に書いてあった。
オレは、こういうのが完全に許せない。腹を空かして死んでしまった幼児の無念さを思うと、こういう畜生にも劣る人間に子供を作る資格はないのだ。泣けてくる。かわいそうに。
昨日の夕方、オレは家の雨戸を閉めていた。
そしたら、チュンチュンと雀が犬走りを歩いていた。幼鳥であった。まだうまく飛べない。巣立ちをしたばかりであろうと思った。
自分で餌を探して食っていけるのだろうかとも思った。オレの家は先祖代々、二階の瓦で生まれ育っていく雀が少なくとも3家族はいると踏んでいるのだが、こういうのも仕方ないと思うしかないのだ。
だって、雀を追い払うために、二階の屋根に登って、じじいのオレがそこから転落して死んでしまったら、話にならないではないか。
だったら、そのまんまがいい。
廃れていくのもまた仕方なしである。
今日もあちこちかけずり回る。
在籍大学で論文書きをする。クルマを買ったので、そちらの関係書類も用意したりする。Jiuの中国語講座も受講する。郷土史の講座が明日あるのだが、明日は我孫子の川村学園大学で学会があるから、そちらで研究発表を聞いてくる。師匠に命じられたことであるから、最優先である。gymにも行かなくちゃならない。
しかし、そばを喰ってみたい。
旨いそばをである。
できれば江戸で。
ムリだな。
ムリ。
良い天気である。さ、今日も元気でやっていきまひょ!