村上春樹をよむ女子というのは
「おたく」というものを午前中に考えていた。さる作業をしていて参考文献を読んでいて、はまってしまったのである。ある資料に。おかげで午前中は頼まれている仕事が進まなかった。ま、いいだろう。こういうのもオレには勉強になるからだ。
サブカルチャー的な「おたく」の精神史というのは、現代のAKB48というかるーいタッチの現象と似ている。そういう意味で、1980年代のわが日本における「おたく」の文化とほぼ同じである。
さらに、村上春樹をなぜ読むのかという疑問と、80年代のサブカルチャー的な文化現象とが重なって見えて参っていた。
結論から書こう。
村上春樹を読む、とりわけ女達というのは、自分の恋愛体験を墓場まで持っていくような自意識を持っていると想像しないではいられないからである。その恋愛体験自体も実に軽い、カルチャーセンターで繰り広げられているようなウソ臭さを感じるからである。本当に、恋だの愛だのと云っているんだろうか?とオレは、いちいちそこにケチをつけざるを得ない。
そもそも恋愛って何だろうか?
それこそ若い世代に質問してみたいことの一つである。しかも、村上春樹を愛読している女子にである。つきあっているからという屁理屈で、簡単に身体を許し、恋愛と称しているだけとしか、じじいのオレには見えないからである。
恋愛に境界性を求める方がおかしいということは、いくら偏屈のオレでもわかる。しかしである。どうにもこうにも理解できないのだ。行動がである。村上春樹的な恋愛思想をもっていること自体にである。
80年代に、おかしな傾向がいくらでもあった。幼女殺人事件とか、サカキバラセイトとか、妄想のもとに異常な犯罪を犯した少年少女たちがいた。あのあたりから、妄想と実体験の区別がつかない若者が多くなってきたのではあるまいか。いわゆる一種の「おたく」が、一般にまで広がっていってそれがカルチャーとなっていった時期でもある。新興宗教の勃興があった時代である。
オレとしては、80年代のそちらの方が面白いので、今までいろいろやってきたのだが、どうにも解せないのが村上春樹症候群であった。女子にファンがいるというから、是非とも質問させてほしいのだが、相手をしてくださる女子が誰もいない。
あたりめ~である。
自己の自称恋愛体験を墓場まで持っていきたいという「秘め事」を持っておられるからである。
オレなんかにはなにも語りたくはないだろう。クチもききたくないだろう。それは非常によくわかるので、黙っていることにしている。
しかしである。長いこと女子教育に関わってきたからこそ感じているのだが、どうにもこうにもウソっぽい恋愛で女子そのものがごまかされてきているのではないのかとも思う。「も」である。「も」。
恋愛の理想型を古典に求めるというような暴力的思考はしない。オレは。源氏物語が理想だとは思わない。源氏にもいろいろ理想の女性論というのが書いてあって、学部の時に源氏物語の碩学でいらした石田穣治先生にくらいついていったっけ。
それはともかく、カルチャーに騙されてはいけない。
男も女もである。
カルチャーというのは、ある意図があって成立しているものだからだ。
なんだか知らないが、マンガの世界から影響を受けて殺人事件までやっているようではアカン。
渡辺淳一の「失楽園」もそうである。
あの主人公達が恋愛をしていたと言えるのであろうか。ましてや、映画に出演した男優のy氏と女優のk氏は、演劇論的に、あるいは芸能論的にあのラ*シーンをどうやって説明するのだろうか。必然性についてである。
それ以上は書かない。そんなにたいしたもんではないということも可能性としてはあるからである。
おたくが構築してきた文化なんてことを考えると、こりゃぁ、オレもその範囲に入ってしまうな。
じじいになってもまだ生涯教育から離脱できないからである。
これくらいにしまひょ。
わははっははである。
(^_^)ノ””””
「思ったとおり」に?
天声人語とか、産経抄とかの新聞の一面にあるコラムが好きだ。
小学校の時に、作文の模範例として学校の先生に勧められた記憶がある。そして、その通... goo.gl/Ix4nOA
NHK【ETV特集】学ぶことの意味を探して ~神田一橋 通信制中学の歳月~ 2014年5月31日(土)夜11時、再放送:2014年6月7日(土)午前0時00分(金曜深夜) nhk.or.jp/etv21c/file/20…
NHK【ETV特集】学ぶことの意味を探して を 9:20 録画で見た。二度目である。72歳の先輩達が、通信制中学で学んでおられる。学ぶことは、知らないことだらけだということを知ることだという老婦人には、泣かされたよん。
オレも知らないことだらけの人生である。これまでも、これからも。無知を知ることだなぁ。オレごときが、なにを血迷っていたのだろうと思うよ。まだまだやらねばならないことは多いのだな。こんなオレだからこそだなぁ~。反省だよ、反省。
鬼来迎もただ見ていただけでは、分からないことがたくさんあったなぁ~。民俗学もどういうのか知らなかったし、仏教民俗学なんていうのがあるのも知らなかったし。英語も中途半端、中国語もまったくできねぇ~(>_<)ゞ
だいいち、論文の書き方すらわかっていなかったのだから、これで37年も教員やっていたってことが不真面目の極まりでござりまするよ。一生、学徒として学ぶしかないようですがな。(>_<)ゞ
生涯学習とか、生涯教育というのは、終わりがないのだよん。それがしみじみよくわかったのだ、今日は。ありがてぇよ。マジに。
生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像 (講談社現代新書) 中沢 弘基 amazon.co.jp/dp/4062882620/… おすすめメールできた。こういう本もたまには読んで,関心の幅を広げないとな。
死というものは、必ず、いつか、みんなにやって来るもの。でも、今をどのように生きて行くか、何をしたいか、生きることに本当に真剣になれば、死ぬことなんて怖くなくなるもんです。
内堀通りの桂宮邸の前を通るたびに、ひっそりしてるけど中庭を散歩されたりしているのだろうかなどと思っていました。皇族で障害をお持ちでも頑張っておられる姿は障碍者の励みにもなっていたと思うので残念なことです。ご冥福をお祈りいたします --- 桂宮さまご逝去 (時事通信社 -
Facebookに書いていれば、友達に伝わっているのかなぁと思っていたら、案外そうでもないのだそうだ。これは、これは。
Facebookのタイムライン制御に対する不信感(えふしん) -... fb.me/3pwhLgVpZ
中国語ができないのなら、一人じゃムリだって
福建省は諦めたとこのブログにも書いた。確かに書いた。
(^_^)3 フムフム。
しかし、オレもしつこい... goo.gl/KtHFZX
ささやかな晩酌をして寝てしまった(^0^)
ここのところ、日々の実にささやかな楽しみにしている晩酌をやるとあっという間に寝てしまっている。退職してから呑めなくなった。量がである。若い時から、日本酒が好きでそれこそチビチビと呑むのが好きだった。しかし、最近は駄目である。ほんとうにあっという間に寝てしまうのだ。弱くなってしまったなぁと慨嘆している。ま、そういう酒の出る場に出ていくことも年間で考えてみると殆ど無いし、つきあいの悪いじじいだと嫌われているからそりゃそれでええのだ。なにも気にしていないから、どーでもいいようなことである。ちなみに、誘われたら断らない主義である(^0^)。あ、これは誘ってくれって云っているようなもんだなぁ~。アカンですな。もう呑めないのだから。少ししか。
話は、そんなことではない。
実は、もう一つ今年度から抱えている仕事があって、そのことはちょっとここには書けないのだが、酔ってやるような仕事ではないから、寝てしまうのである。今は、3:21であるが、2時頃から起きてその仕事をやっている。7月末までかかるだろう。オレの専門領域の仕事だから、そんなに困難ではない。ただし、あまりデタラメにやるわけにもいかない。
だんだん、退職したわが身であっても、仕事が増えていくのもまたいいもんである。しかも、退職してなにもしていないからという理由でオレに電話をかけてくる御仁もいて、それはそれなりに楽しいもんである。
大学院で勉強しているからと断っても、だいいち信用してくれない。まさか、そんなことはあるめぇと相手にしてくれない。ダンダン話していると、マジかよ?って聞かれる。ウソだろうとも云われる。おめぇ~ちょっとおかしいのではないか?とも云われる。
わはっはははっはである。
おかしいのは、若い時からそうだ。服装も、頭髪も、言葉もズレているのだ。話にならない。観点がズレているのだよん。なにも自虐で云っているのではない。真実である。
だから、言動にも注意しているのだ、オレは。
相手が不快に思うときがたくさんあるらしいのだ。オレは本当にそういう意味では、失礼なGuyである。Guy?・・・ちょっと言い過ぎた。妙なgrandfatherである。ひねくれもんの(^0^)。
特に、womanが不快に思うらしい。らしいというのは気がつかないからである。wifeもclassmateもそうである。加齢臭もあって、臭いし。言葉も不明瞭である。さらに悪いことに、だみ声で、ドスが効いている。wifeなんぞはどれだけそれでハラを立てたことか。申し訳無いと本当に思っているのだ。
でもねぇ、仕方ないではないか。もう人生の最終段階に来ているのだ。
今更、性格を変更して、オレのイメージをやさしく、柔らかく、素敵で、ダンディなじいさまというように様式変更をするわけにはいかんのである。もうムリである。所詮、なんにもならないことでそれこそ無知の知を求めて、だらだらと生きているだけであるから。
大学院で勉強しているのも、なんにも知らないということを再確認しているだけである。wifeは今でも怒っている。そうなのだ。なんにもならないことをやっているからである。大学院を出ても本当に今更ナニカのお役に立つわけではないからである。無知であることを知ったからというと怒られる。収入にも結びつかない。そもそも、収入に直結するから大学院で学んでいるのではないからだが。
こういうの、わかってくれないだろうなぁと思う。道楽で勉強していると、皮肉も随分云われる。修士も教員やりながらとった。これも多くの人たちに叱られた。不届き者とまで云われた。友人達に。
無知だということを知りたいから勉強していると申しあげると、そんなの昔からだろうと云われもした。たしかにそうだ。オレは、エリートでもなんでもないただの田舎教師でしかなかったしなぁ。なんの実績もねぇただの一介の高校教師でしかなかったからだ。
それでも良かったのかもしれない。
満足しているわけではないが、こんな馬鹿もいていいのかもしれないと最近は思うようになったからである。
自己満足でしかないけれども。
さ、また今日が始まる。
楽しい一日にしまひょ。
皆さん!
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