「起こりうるすべてのことは、予定された必然」であるということばかり考えている。
失敗も、成功もその範疇にあるということである。
結婚するのも、不倫をするのも、離婚をするのも、好きな異性にふられるのも「起こりうるすべてのことは、予定された必然」である。さらに、大学受験に、資格試験に、あるいは就職試験に成功したり失敗したりすることも、「起こりうるすべてのことは、予定された必然」である。
オレの失敗の連続人生もまったく同じである。
まさか、オレが、新聞配達をしながら東京の大学に入学して、昼間の国文学科に通うことになろうとは思ってもみなかった。やっとのことで教員に就職できて、関東房総の土地に来て、九十九里浜の波の音を聞きながら高齢者の仲間になろうとも思ってもみなかった。いつも自分で何かをやってやろうとは思っていなかったからだし、てめぇのチカラなんぞたいしたことはなかったからである。
オレは、つまるところ自分のチカラに自信がないのである。なにをやってもダメ男である。好きなおなごにも、告白というものができなかった。失恋の連続であったのだ。ところが、それがオレを文学追求の旅に誘ったのである。わからんものである。だから、密かに思いを寄せた美女達に感謝しているのである。マジである。相手にしていただけなかったからである。当たり前である。鏡の前で、密やかに微笑んでいるような美女とはご縁がないからである。でも、ちょっとそういうのは気持ち悪い気がするがねぇ~(^_^)
相手にしていただけないなら、そりゃいくらオレでも考える。オレに欠けているのはなんだろうかとか、である。だから努力するのである。それでもってずいぶんオレは文学に関してはのめり込んだつもりである。現代文学が基本だけれども、中世文学にも興味があるのは、そうしたオレの諧謔性を好む性向があるのだよん。
ところで、オレは時々「愚生」と書くことがある。本当は「愚禿」と書きたいのであるが、これはおろかなハゲという意味であるからそのまんまであるのだ。しかし、愚禿というのは親鸞が使っている。畏れおおいではないか。使えないですな、オレごときでは。
つまりオレには夢がないのかもしれない。なにかになってやろうとか、そういうのがないのである。定年で終わったからであろう。すべては、オノレ一人のチカラで出来るような話ではないからである。向こうからやってくるという感覚である。
近しい人々が、去っていくのもそうである。どっかで意志決定がなされて、なんだか知らない結論が出ていて、それで去っていくのであろう。
なんだか寂しい話ではある。
もう寝よう。
お休みなさい。