司馬遼太郎の遺言2
6月8日のFBに「FBに書いていれば、友達に伝わっているのかな?」と書いたが、お友達が多い人には伝わっていないのは当たり前であるということを知った。当然だ。友達が多ければ、それだけ書き込みの記事が目の前を流れていく。オレの記事なんか、Twitterのように、あっという間に流されていってしまう。お友達のお目々に触れる機会は全くないのだそうだ。聞いた話だが。
さらに、FBはAさんが記事を書きましたよんと知らせてくれるが、なにもあれはオレ個人に書いたことを知らせる目的ではにゃぁ~いのだよん。それがよく分かったよ。お友達何百人のうちの一人なんだから、あまり気にしないことにした。ワンオブゼムってやつじゃ。ソンな程度なら、お返しのポチもしないことにした。ごめんよ。オレのお友達さんへ。(^_^)
そんなら好き勝手にどんどんやらせていただきまひょ。オレの友達は、10人以下...ですから大事にさせていただきますので。人数的には40人になっているけど、殆ど道の駅さんとか組織的なFBを友達にさせていただいているんで。友達申請もまったく来ないし。男友達の多い美人のFBとかというのと、オレのFBは根本的に違っているのであろうからねぇ~。
わははっははっははっはは。
それにしても、2012年に書いた「学校秀才(受験秀才)の陥りやすいこと(気をつけなはれや)」というオレのブログの記事が、毎日のようにオレの記事へのAccessでベスト10に入っているのだけど、ちょっと気になっている。どうも、論文を書いている人には思い当たるところがあるのかもなぁ~。ま、頑張ってゃぁ!
だとすると、ブログ重視のほうがいいのかもなぁ。
FBってどーもナンパ目的で使っている輩もいると聞いているしねぇ。美人のFBに群がっている男どもの数の多さに、じじいはびっくりしているからだが。
どっちにしても、オレには関係のねぇことですがな。
一昨日かな?堀北真希さんを「いいね」したら、ずっと左の頁にいるのだよん。毎日これでお目々の保養になるから、ありがたいですなぁ。
わははっははっはっは
ささやかな晩酌をして寝てしまった(^0^)
ここのところ、日々の実にささやかな楽しみにしている晩酌をやるとあっという間に寝てしまっている。退職してから呑めなくなった。量... goo.gl/tiyQVs
■「大気は、それが育むあらゆる生命とその霊を共有していることを忘れないで欲しい。我々の祖父たちの最初の息を与えた風は、また彼の最期の息を受け取る。」 【シアトルの酋長】
物事は両面からみる。それでは平凡な答えが出るにすぎず、智恵は湧いてこない。いまひとつ、とんでもない角度 -つまり天の一角から見おろすか、虚空の一点を設定してそこから見おろすか、どちらかしてみれば問題はずいぶんかわってくる。 司馬遼太郎 著 『夏草の賦』 より
王妃の寝室 ロココ調の花模様だらけでやたら乙女チックな王妃の寝室。今残っている装飾はマリー・アントワネットの時代の「夏の内装」で、1980年に復元されたそうです。 pic.twitter.com/5C4egsZ15L
能《砧》。世阿弥作とされる能。訴訟のため、3年以上も都から帰ってこない夫を待つ妻が打つもの。そもそも砧(きぬた)というものが何なのか現在では分かりづらいですね。その背景には漢詩の世界もあり…。
村上春樹をよむ女子というのは
「おたく」というものを午前中に考えていた。さる作業をしていて参考文献を読んでいて、はまって... blog.goo.ne.jp/tym943/e/ddcf4…
場末の温泉宿で
ここにはあまり書かないできたが、民俗芸能なるジャンルはなかなか面白いもので、学者センセでなんとストリップについて研究されている方もおられて、非常に興味深い。だいいち楽しいではないか。まじめな顔をしたセンセが、メモしながらそういう場所に出入りしているのである。笑っちまうですな。
さらに、女性の若い研究者でラブホテルの論文で有名になった方もおられて、そこそこの大学で常勤講師をされてもいる。学会発表をされてもいるから、聞きに行きたかったが、なにしろ東京である。旅費がない。オレは貧乏だからだ。
しかも、そういう内容の研究発表を聞きに行きたいと、30年以上おつきあいいただいているオレのwifeに云ったら、また叱られてしまったのだよん。それでなくても、大学院なんか道楽で行っていて・・と毎日のように叱られているからである。わははっはははっはである。
それにしても、そういう対象を研究されておられるということは、ある種の「物語」を追求されているのであろうと推測する。個々人に「物語」というものは当然ある。あるからそれぞれの人生が面白いのであって、だからそれを小説にしてくださると、読む方は勉強になる。というか、楽しいのである。
楽しいと云ったら叱られるのかもしれないが、本当にそう思う。
基本的に、文学というのは「救済の叫び」であるとオレは思っているので。個々の小説にある「物語性」が、我々の魂を揺さぶるのである。だから、我々は物語から得るものがあるのだと思っている。
場末の温泉宿に行って、宴会が終わって、二次会と称してスナックとかに行くことがあった。それはそれでまだ飲み足りないから行くのである。オレは基本的に石部金吉みたいなGuyで、そういうアルコールと、香水と、温泉の硫黄のにおいがごちゃごちゃと迫ってくるようなところには行きたくないのだが(ウソっぽいなぁ~)、仲間が行くというなら行く。
しかしだ、これも家族旅行なら行かない。wifeに馬鹿扱いされる。Guy仲間となら行く。特に、大型オートバイ仲間となら。あ、これって責任を仲間に押しつけているな。アカン、アカン。
しかしである。
場末の飲み屋で、どうせウソだろうけど、ミニスカートはいたおなごの「物語」を聞きながら、ハイボールなんか飲むのもいいもんである。半分くらいは、真実を語っているのかもしれない。どうせウソだろうと思いながら聞くのだから、ふざけたじじいである。あ、違った。そういう場所に行っていたのは、じじいになる前であった。中年のしぶいおっさんであったな。
川端康成の作品もそういうところがあって、名作「雪国」も女主人公の物語を基軸に据えているから楽しいのである。ちなみに、雪国の冒頭部分の文章は難しかった。高校生のオレには到底理解できなかった。「夜の底が白くなった」というあの文章は、今でもよくわからない。理論書にはいくらでも書いてある。しかし、本当にそうか?という疑問はその手の理論書に聞いてみたいことの一つである。文学は、理論書どおりにいくのであろうか。
ある学会で発表者にそういうことで質問をしたことがあって、困らせてしまったことがあった。
アカン、アカン。
これからの方々の邪魔をしたらアカン。
石モテ追われるぜよ。オレのふるさとには、それこそ「場末の温泉宿」が19軒もあって、温泉街にある怪しいネオンのあるスナックに入り浸って、ウソっぽい物語を聞きながら、一緒にナミダをながして高いカネをとられて、しがないじじい生活をしなくちゃならなくなる。
あっち行ってろ!って。
わははっはははっは。太陽が出てくることだけを楽しみに生きているんだから、オレは。樽の中で。へ?
(^_-)-☆