中国語では、男子にも相手にされなかったケド。(; ;)ホロホロ
セクハラは無明を生きている証 昨夜は、夜の10時になって居眠りをしていた。はっと気がついたのが、11時頃。あああああ、こ...
中国語では、男子にも相手にされなかったケド。(; ;)ホロホロ
セクハラは無明を生きている証 昨夜は、夜の10時になって居眠りをしていた。はっと気がついたのが、11時頃。あああああ、こ...
交通安全講話
武道論からみた交通安全教育
1 自己紹介
みなさんこんにちわ。と~ま君(会場では実名)と申します。
本日は県内各地から、***センターにご出張、ご苦労様です。日頃、学校教育に邁進されておられる先生方には、いろいろな問題も抱えておられる方もこの中にはいて、大変なことが多いと思っております。否、それゆえにこそ先生方の双肩に大きく言えば日本の教育がかかっていると言うこともできるわけであります。
先ほど、十四代交通安全教育部会会長とご紹介いただきましたが、定年退職後、現在はまったく肩書きというものを持っておりません。再任用も希望しませんでしたし、強いて言えば、職業はおじ~ちゃんとでも言うべき生活をしております。資料の中に、千葉科学大学非常勤講師とか、城西国際大学の大学院というのが肩書きでついておりますが、あれは去年の秋に、浦安にある明海大学で安全教育学会が開かれた時に研究発表をせよということで、仕方なしに書かせていただいたものです。まさか、「職業は二人の孫のいるおじーちゃん」と書かせていただくわけにも参りませんでしたから。(^-^)/
ま、しばしのお時間をいただきたく壇上からで、まことに申し訳ありませんが、お聞きくださいませ。
2 なぜ武道論からなどというものから入るのか
私は、何でも素人で、さらにまた広範囲にいろいろなことに首を突っ込んで人生を楽しむというスタンスで生きてきました。
サブタイトルに「武道論からみた交通安全教育」と書かせていただいたのは、なにも私が武道の大家であるからというのではありません。そもそも高等学校から柔道をやり始めて、もう48年目になりますが、当然、オリンピックにも出たことはないし、あらゆる大会で優勝した経験もないのです。ですからまったくの素人でありまして、高校の柔道部の顧問を15年くらいやらせていただいた程度のものでしかありません。30ちょっとで、間違って4段にさせていただきましたが、これもまた老いてしまって、今では腕力も金もまったく無い美男柔道家で、お話にならないという体たらくであります。ですから、大上段から振りかぶって、武道修行からみた交通安全教育というのではないんです。
それゆえに、本当は「見る」という漢字を使うべきであるのに、わざわざひらがなの「みる」を書いてサブタイトルにさせていただきました。
そういう素人が言っているのだから、武道論そのものではございません。そんなことを言ったら、この中にもおられる柔道の専門家の先生に笑われます。
結論からいうと、「生き延びることのできる者は、生き延びよ」というレヴィー・ストロースの言ったことが、大きく言えば安全教育、絞って言えば交通安全教育につながるとかんがえているからです。もうここで一言で言っちゃったので、「あ、そう。じゃぁ退場すればぁ」と言われそうですが、これからなんでそんなことを思うようになったかとうことをつらつら述べさせていただきます。
おせっかいですから。
もっとも、これは先生方に向かって釈迦に説法でありますが、「教育は本質的におせっかい」であると普段から思っていますので。このお話は脱線も時々いたしますので、ここで一回目の脱線をさせていただきますが、「おせっかいな教えたがりの教師」がいてはじめて教育は成り立つと思っています。さらにそれを「教えてもらいたい生徒」がいて、初めて学校は成立します。特に高等学校は、学校の選択権が生徒の側にある。学校に人気があって、志願者が増えてどうしようもないくらいの学校は関係ないでしょうが、そうでない学校、生徒が集まらない学校というのは、「教えてもらいたい生徒」がどういう欲求を持っているのかということを把握していなくちゃならない。あ、あそこの学校にいけば、輝いていける、好きな勉強も、部活動もできるという姿を見せなくちゃならない。これは大学もそうであって、教師の側が勝手に教えたいことがあるといくら主張してもアカンのです。ニーズの掘り起こしとかよく言われるけど、まだまだ甘い。
ですから、今日は私が「おせっかい」で、こんな話をしはじめたわけです。
なぜなら、安全教育、とくに交通安全教育というのは、まさに「生きる力」を発揮する教育でもあるからです。しかも、生き延びる力です。なにがあっても、自分の力で考えて、行動して、智恵を身につけて、生きていってほしいと思うからです。理不尽なことも多いでしょう。世の中に出ていったら、まったくトラブルのないことはあり得ないと思うからです。グローバルということが叫ばれているし、国内にいるだけでは話にならない時代が来ています。そういう世界でこれからの若い世代は生きていかなくちゃならない。そして、そういうときに基盤となるのが「生きる力」です。
安全教育の面では、あの2011の東日本大震災で多くの方が犠牲となられた。むろん私も千葉県内で犠牲者14名という哀しい結果となった旭市に近接している学校で経験しました。当時勤務していた学校で家が海の中に流されていった生徒もいた。
そして、一番こたえたのが、電話もなにも通じなかったということです。つまり設置者である県教育委員会との連絡や指示が聞けない。ぼーとしていたら、どんどん事態は悪化する。学校の近隣にあるスーパーから買い物客や店員さん、近隣住民の方々が逃げてこられる。
マニュアルのない事態になってしまったわけです。本当に、自分で考え、自分で行動するしかないことになった。
その時に、「生きる力」って実に大切なことであると思い知らされたわけです。オレはなにをしたらええんでしょうか?と死にそうになった時に、他人に聞いているわけにはいかない。そういうときというのは、悪いことに、いつでもやってきます。困ったときにかえってやってくる。どこでどうなるのかまったくわからない。あの東日本大震災のときででも、私は東庄町に出張で、ある場所に行こうとしていたのですが、急遽中止して学校に戻りました。しかも、利根川沿いに津波が逆流してくることも予想して、房総丘陵の上に上がってクルマを飛ばしました。携帯電話もまったく通じないから、自分で考え、自分で行動するしかなかった。
かなり長い前置きになりました。
そろそろ本題にはいります。
(1)トラブルの可能性を事前に察知して危険を回避する
① 事件事故の対応マニュアルは作ることができる。確かに、成田空港の近くの高校の教頭時代に、災害対応のマニュアルをかなり入念に作成していましたから、大震災の時にも役にたったとは思っています。しかし、そんなものは役に立たないほうがよろしいわけであって、その場その場で臨機応変に変化させていかなくてはなりません。頭が固定化しているというのが、一番しょうもないことで、わーわー騒いでいるばかりでは話にならない。
そういう意味で、この「トラブルの可能性を事前に察知して危険を回避する」というのは、安全教育と武道の接点でもあると思うんです。
武道は実に危険極まりない。
下手をすると命を落とすことも充分あり得ます。
私は、柔道しか、それも少ししか知りませんが、絞め技というのもあって、相手を失神させてしまう技もあります。これは実に危険な技であります。なんでか。私は非常に弱い柔道選手であったからであります。この絞め技でずいぶん落とされました。気絶です。あれはあれで、くせになってしまって、落ちやすいということもありますが、言いたいことは、相手を分析することです。絞め技が得意な学校の柔道部というのが確実に存在していて、そういう学校と試合をするときは、警戒をすることです。そういう分析力も大事なことであると思うのです。
②交通安全教育は、なかなか進展しない。なぜか。ある意味、飽きられているのかもしれない。
なぜ飽きられているか。
それは、もう交通違反や、交通事故はやっちゃいけない、やるべきではないということが、分かっているからであります。そもそも絶対に反論できない価値というもの、マナーというか、ルールというものが世の中にはたくさんある。逆に言えばだからこそ、交通安全教育は困難なわけであります。
そんなことはわかっているということで、足を天上にむけて、ふんふんと先生方の話をうわのそらで聞いている生徒もいないとはかぎらない。私自身も苦労をしてきました。やっちゃいけないということはわかっているからこそであるからです。しかし、「わかっちゃいるけど、やめられない」という側面もあることはあるわけです。オートバイによる暴走行為をしてしまう生徒は特にそうでしょう。
③恐怖や、利益誘導によって指導してきていないか。悲惨な事故シーン、自転車でも、自動車でも事故を起こしたら、これだけのデメリットがあるという論法は万能なのか?
なんでもかんでも、メリット、デメリットで簡単に片付けていませんかと申し上げたいと思います。現役教師時代に、学校の中ではすぐこういうことを言われる方が多くて、メリットがあるから本校に来たのだという論法があまりにも魑魅魍魎のように跋扈していたことを思い出します。生徒のニーズがあるからだというのも、ニーズはどこから来ているのかというと、それはメリットがあるからだという論法になってしまう。しかし、あの学校に行けば、先輩たちのように輝いていられる、なんとなく楽しそうだということもあっていいんだと私は思ってきました。
それでもいいのではないのかと。
若い人は、損するからそんな生き方をしないほうがいいと、いくら言っても聞きません。むろん、そういうところがあるから若いのであって、それをデメリットがあるからといってひん曲げると、かえってそちらの方向に、大人が意図しない方向へ行ってしまう。
(2)交通安全教育をとおして、どのようなチカラをつけようとしているのか
①実践的な意味での「生き延びるチカラ」である。
生き延びるチカラというのは、死なないチカラでもあります。
事件事故というのには遭遇しないほうが絶対によろしい。当たり前です。そんなのを歓迎してうれしがっている人はいない。
それよりも、事件事故にあったらどうやってそこから脱出して、安全に行動して、生き延びていくか、いけるかということを考えてほしいのです。むろん、オノレ一人だけではなくて、多くの仲間をも救っていけるだけの能力を身につけたいものであります。ただし、あまりにも大きな事件事故では不可能な場合もあり得るのは十分承知の上で申し上げています。ですから、あくまで自分が実践できる範囲でという条件付きであります。むろん、政治や、行政の責任も重いですからそのところは慎重にしていかないとなりません。
②安全は、「生きる」「生き延びる」こと
もう何度でも申し上げてきましたが、安全は、「生きる」「生き延びる」ことであります。簡単に死んではいけない、しぶとく生き延びることであります。
大切なことは、
「他者と共生できる技術」
「他者と同化する技術」
以上の二つであると思うのです。
以下、皆様にお配りさせていただきました資料に添って、説明させていただきます。
(以下省略)
(↓ 配付資料から)
(3)武道で身につけるべき大切な能力は
トラブルの可能性を事前に察知して危険を回避する
交通安全教育にもっとも求められるべき能力
非常に微細なことから、危険をどれだけ察知できるかということ
連合艦隊司令長官東郷平八郎もそうであった
(4)敵というもの
武道の敵は、対戦相手ではない
武道は、心身のパフォーマンスを低下させる要素を最小化すること
このことは、ハンドルを握る者の最低のマナーである
敵は、我々に、どのような危険な、あるいは危機的状況であっても生き延びることのできる技術が必要であることを教えてくれる
交通事故を「存在してはならないもの」として考えないこと
交通事故が、自分に限っては存在しないという状態を「標準的な私」として初期設定をしていないだろうか
あのドライバーが悪い、あの道路がよくなかったという因果論で説明していないか
事故を起こしたとき、あのとき携帯が鳴らなかったら、よそ見をしなかったらという言い訳を用意していないか
因果関係の中に身を置かない
交通事故についての入力情報と、出力情報にタイムラグがないか
事故は危険ということはわかっている
どう対応するかということもわかっている
武道はタイムラグがあったら負ける
マニュアルどおりにはいかないのが武道
間髪を入れずに反応するのが武道 考えていたら負ける
即答をなし得る主体を確立すること
啐啄之機(そつたくのき)
もともと、禅の用語 雛が卵から孵化するとき、雛が内からつつく頃合に、母鳥が外からつつく様を
「啐啄の機(啐啄同時)」といい、転じて、理想の教育機会の比喩に使われている
(5)柔道でいう「力む」こと、居合道でいう「居着き」の弊害
固定化してはならないのが武道 力んだり、居着きの状態は危うい
武道的な弱さは、「無知」と同一構造を持っている
無知は、変化するオノレへの不安 だからチャレンジしようとしない 学ぶことによって変化することを拒絶
このことは私にとって初めて経験することですから、どう対応したらよいか分かりません→負ける
今、自分が持っている情報処理のシステムを変更したくないというのが「無知」
資料2
房総の津波と日本古典
外 山 日出男
千葉科学大学講師(非)・城西国際大学大学院博士後課程
1 はじめに
1 はじめに
2011年3月11日の東日本大震災は、千年に一度の大災害であった。筆者は千葉県銚子市にある県立銚子高等学校に勤務しながら経験したのであるが、このような体験は日本の古典の中にも書かれているはずであり、先人達がこれまで種々様々な災害をどのように受け止め、どう対処したかを考えること、そのことが危機管理にもつながり、これからますます求められる防災教育・安全教育にむすびつくと考えた。以下に私見を述べてみたい。
2 大震災と日本古典文学
(1)災害文学
大震災を記録した歴史書としての文献は、代表的なものには「日本書紀」がある。たとえば、日本書紀の「地震」の記事は允恭5年7月を初出として、ざっと数えて25箇所ほど掲載されている。その内、天武紀に19箇所出てきており突出している。天智紀までは余程の大地震か、不吉の予兆として書かれていることが多いが、天武朝では朝廷内の記録がしっかり残っているために、ある程度の大きさの地震が発生するたびに書かれている。
「是の月、筑紫國大に地動る。地裂くること廣さ二丈ばかり、長さ三千余丈、百姓の舎屋、村毎に多くたほれ?壊る。」
黒板克美編 日本書紀第29巻 岩波文庫復刻版 2004 一穂社 p.359
さらに平家物語にも大地震についての記述がある。元暦2年(1185年)7月9日、午の刻、京に大地震があったと記録されている。当時、権大納言正二位であった中山忠親はその天変を五十年来経験しなかった激震といい、その様子を「山塊記」という日記に書いている。ついに対策として改元が行われ、文治元年となる。文治元年の大地震である。
余震が同年9月29日まで毎日のように起こり、院御所の破壊が著しく、寝殿が使えなくなったという。
対策として、以下のようなことが行われている。
①8月19日に、院御所(六条北、西洞院西のいわゆる六条院)において仁和寺法親王の孔雀教法の修行
②8月28日には、東大寺の大仏開眼供養
地震発生の直後の様子が平家物語には息を呑むような迫力で描かれている。九重の塔が、上の六重まで落ちたと書かれているのである。
「平家みなほろびはてて、西国もしづまりぬ。国は国司にしたがひ、庄は領家のままなり。上下安堵しておぼえし程に、同七月九日の午の刻ばかりに、大地おびただしくうごいて良久し。赤県のうち、白河のほとり、六勝寺、皆やぶれくづる。九重の塔も、うへ六重ふり落とす。」
皇居も、人々の家屋も総崩れである。非常に凄惨な状況が描かれている。
「皇居をはじめて、人々の家〃、すべて在〃所〃の神社・仏閣、あやしの民屋、さながらやぶれくづる。」
崩壊していく音まで書かれている。
「くづづる〃音はいかづちのごとく、あがる塵は、煙のごとし。天暗うして、ひの光も見えず。老少ともに魂を消し、朝衆悉く心を尽くす。」
次に液状化現象の最古の記録と思われる記述がある。
「大地さけて水わき出で、盤石われて谷へまろぶ。山くづれて河をうづみ、海ただよひて浜をひたす。」
現代でも指摘されている高台への避難も書かれている。共通の対策法である。
「洪水みなぎり来たらば、丘にのぼって、などかたすからざらむ。」
梶原正昭・山下宏明校注 新日本古典文学大系 下 pp.341_343 1993 岩波書店
文学としては、方丈記である。唯一の災害に関する日本古典文学である。
「五大災厄」の部分である。中には作者鴨長明(久寿二年生まれ、1155年)による「虚構」とする説もあるが、ここではリスク管理としての日本古典文学に関する私見であるから、事実であるという前提の下に書いてみたい。1 松本昭彦著 「『方丈記』養和の飢饉考 事実と虚構の間」 2010 三重大学教育学部研究紀要 pp.63_74
方丈記の五大災厄の部分は以下のとおりである。
予、ものの心を知れりしより、四十あまりの春秋をおくれるあひだに、世の不思議を見る事、ややたびたびになりぬ 2 日本古典集成 p.
さらに六段には以下のように書かれている。
また、同じころかとよ。おびただしく大地震の振ることはべりき。そのさま尋常ならず。山は崩れて、河を埋み、海は傾ぶきて陸地をひたせり。土裂けて、水沸きいで、巌割れて、谷に転びいる。 3 日本古典集成 p.
鴨長明の時代は平安末期は大地震や飢饉などの出来事が多く、まさに世も末と言うべき状況であった。通常、鴨長明についてはこうした悲惨な状況を体験したことから厭世的になり、出家遁世を図ったとされることが多い。長明の生まれる以前から、京都は災害続きであった。ちなみに、1092年の京都大火から始まって、1092年大地震・近江の勢多橋破壊、1098年京都大火、1099年近畿大地震、1106年京都大火疫病流行、1107年京都大火等々の大災害が連続している。
長明は、1155年の生まれであるから、直接そうしたことを体験したわけではないが、記録としては知っていたであろうという仮説は成り立つ。
1185年(文治元年)平家一門が壇ノ浦にて滅亡。そしてその翌年1186年に京都に大地震が発生するのである。(文治二年)
このとき長明は30歳である。こちらの大震災は直接の体験である。この体験が長明の出家を促したとしても、矛盾はない。
(2)出家遁世の原因となったのか
こうした災害が鴨長明の価値観を揺さぶり、とうてい生きながらの地獄絵図であって、生きる意欲を失ったのであろうか。あるいは、出家することですべてをなげうったのであろうか。
その可能性も大きい。長明は若い頃には、禰宜としての出世街道をばく進していたのである。その道からも脱落していったことが、長明の人生観に影響を与えたことは否定してはならないことであろう。
しかしながら、あまりにも長明の悲嘆的、厭世的な側面ばかりが強調されているような気がしてならないのである。方丈記の文学的価値がそれだけ高いということであるのだが、もう一つの側面について注目したい。
それは、長明の宗教者としてのあり方である。中世期の時代に、地震予報などという科学的なツールは存在しなかったのである。また、およそ古代からずっと継続されてきた呪術的な祈りの文化が支配していた時代である。長明の時代に、現代的なリスク管理を求めても詮方なしであろう。
では、長明あるいは長明達宗教的な所属の者たちは何をしていたのであろうか。
(3)災害への諦念と人々への事後の救済
方丈記には「養和の飢饉」という叙述もある。養和二年の二ヶ月間に供養された遺棄・遺体数は古記録等では確認できていない。しかし、長明は大地震の災害と共に、養和の飢饉のことも取り上げて、世の無常を説く。あたかもこの二つの出来事が同時に起こったかのように、ひとまとまりの出来事として書かれているのである。
出来事が優先されるのではなくて、京都の荒廃ぶりを書いているのである。京都の人々が争って家を壊し、その資材を淀川に運び下して急ぎ移ろうとしたため市中には日ごとに空き地が増え、荒廃したという記録よりは、こういう世の中に生きていかなくてはならないという空虚さ、むなしさを強調したのである、。
「方丈記」中「五大厄災」を書いた部分では、飢餓や疫病、家屋の倒壊等々で亡くなられた多くの人々に対して仁和寺の暁という法印が死者へ「阿字」を書いていたということに注目したい。
仁和寺に暁法印といふ人、かくしつつ数も知らず死ぬる事を悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。(略)すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬるもの多く、又、河原・白河・西の京、もろもろの辺地などを加へて云はば、際限もあるべからず。いかにいはむや、七道諸国をや。
方丈記 _
この場合の暁法印という宗教者の行為である。これをただ単に呪術的行為としては当時の一般大衆を救済する手段としてそれより他に方法が無かったとしても、問題外として葬り去るには忍びないと思われる。阿字の文字を書いたというのであるから、当然これは高野山系の宗教的な技法である。密教系である。
密教系の真言では、加持祈祷を行う宗派であるから一刀両断で迷信であるとして、切り捨てるというのはいかがなものか。
むしろこうした宗教家の行為は、一般大衆にとってどのような意味を持っていたのかということについて考察することが、現代にも通じていくのではないだろうかと思うのである。
災害は、中世の世の人々には避けられないものであった。むろんこのことは現代でも同じ事であって、防災という文字が災害そのものを完全に防ぐことはできないという意味で、むしろ減災の方にシフトされていることからも伺い知ることができる。したがって、起きてしまったことをどのように受け止め、どう考え、感じていくべきであるのかという視点を持つことがより重要であるという立場から考えてみたい。
当時、中世の人々はリスクということをどう考えていたのだろうか。人智の及ばない世界観でいたのであろうか。
ただ単に、加持祈祷やまじないの世界へ逃避していたのであろうか。このことは、現代に生きる日本人たちと意識の面ではあまり変わらなかったのではないのだろうか。現代人は科学の世界で生きていると思っている。すべてが科学の世界の中の小さな一表象であり、大災害も当然のように予告でき、想定できたはずであるという仮説の下に日常を暮らしている。科学万能というある意味新しい宗教を持っているような錯覚に陥っている。
果たして、それが真実なのであろうか。今回の大震災を誰がこれほどの被害に遭うことを予想したであろうか。尋常ではない揺れの中で、わめき、逃げ惑い、これでこの世の終わりが招来したと感じた人も多くいたはずである。
そこに怖れがあることを正直認めねばなるまい。大自然への恐怖と畏敬の念である。このことは古来から日本人が感じてきたことであり、持ってきた自然観であった。
源実朝もまた、金槐和歌集にこんな和歌を残している。 2011年8月1日付け朝日新聞朝刊の「天声人語」に源実朝の和歌として「時により過ぐれば民のなげきなり八大龍王あめやめたまへ」が紹介されている。
建暦元年七月、洪水天に漫る、土民愁嘆
せむことを思ひて ひとり本尊に向ひたて
まつり、いささか祈念を致して曰く
時により 過ぐれば民の 嘆きなり 八大龍王 雨やめたまへ
この場合は洪水である。建暦元年(1211年)夏の大雨被害についての歌である。
新潮日本古典集成 金塊和歌集』(新潮社 1981)の巻末索引より該当の句が実朝の私家集である「金塊和歌集」所収の和歌であった。また、同書の注記には「『吾妻鏡』にはこの洪水に関する記述がなく、詳細不明」との記載がある。ちなみに、『日本災害史』(北原糸子/編吉川弘文館 2006 年)には、建暦元年の洪水自体の記述はないが、「十一世紀後半から十二世紀は相対的に気温の高い時期であり、旱害や祈雨奉幣などに関する史料が頻出しているが、一方で水害史料も多く見られる。」(P.92)という記載があり、『日本の作家21 悲境に生きる 源実朝』(志村士郎/著 新典社 1990)にも、該当の洪水に関する記載はないが、建暦年間から建保年間にかけて異常気象や地震が頻発したという記述(P.69~P.71)があった。
「いささか祈念」をしていることに注目をしたい。
いささかというのは、実朝の謙譲の気持ちであろう。祈りを行為としてとらえた場合、自分の努力をへりくだって表現している可能性は高いと思うからである。政治家としては、いささか物足りない実朝の精いっぱいの民衆への愛情表現であったのではないかと考えている。
3 危機管理と日本古典文学
(1) 危機管理とは
千葉科学大学の宮林正恭教授によると、危機管理の概念規定は「積極的な営みを続けながら、危機すなわち非常に危険な状態になる可能性を低く保つとともに、危機に備えて必要な措置をとり、また、いったん危機に遭遇したときは、それによる害をできるかぎり少なくするとともに、その危険度を低くするように対応する一連の体系的行動」としている。
(宮林正恭著 「危機管理 補訂版 リスクマネジメント・クライシスマネジメント」 平成17年 丸善 pp.12_17)
主として現代的な課題における危機管理の問題に詳細にわたって考察されている防災上の必読書というべき良書である。
危機管理はそのカバーする範囲は非常に広範であり、それゆえにこそ大震災以来の現代的課題に対応可能である。その中でも、現代にも通じる内容として以下の点について注目をした。
① 社会危機
② 一般家庭および個人分野
ア、 健康喪失:病気、事故、身体的・精神的健康喪失など
イ、 収入大幅減
ウ、 中核的人物の喪失
エ、 近親者の不和・別離
オ、 財の喪失
カ、 社会的地位の大幅な変化
(2) 現代との差異
現代の危機管理システムは、まさにシステムとして、総合的・組織的に、あるいは意図的・計画的に作成されたものであって、これと日本の古典時代を比較するのは問題設定の仕方が違う。本論はそのような比較を行うことを意図しているのではなく、古典の時代に、おそらくはなすすべもなかったであろう人々を、日本古典がどうやってその様子を描いているかを探求したいのである。そして、その跡をたどることでその時代を生きていた人々がどうやって危機を乗り越えたかを探ろうとするものである。
当然これらの古典が書かれた時代には、行政組織の中に危機管理総括部のようなものも設置されていなかったであろう。自然災害などというものは、ひたすら人間の智慧をはるかに超えたものであったろうし、ひたすら災害の前でかしこまっているしかなかったであろう。
もっとも、「想定外」という言葉も大震災の、特に原子力発電所の事故の場合には、この想定外という言葉が何度も聞かれた。なすすべがない時は、今も昔も「想定外」であったのである。
日本の古典時代には、防災対策とか、防災推進計画とか、マニュアルとか、避難所対策とかは、まったくなされていなかったであろう。
では、現代でいえば、市役所や町役場、あるいは消防署とかを包含したところの組織というものも全くなかったのであろうか。
(3) 古典が書かれた時の危機管理の場所はどこであったのか
大震災の時に避難所となった学校施設建物は多かった。事実、私の勤務している千葉県立銚子高等学校も高台にあり、近隣の方々が避難をされてきた。体育館を開放して、避難していただいたが、方丈記の書かれた時代には学校はない。ましてや鉄筋コンクリートの建物もない。
今回の大震災の時にも、高台にあったのは、一般住宅のほかには寺院である。むろん低地にあった寺院もあって、それらの寺院はかなりの被害にあっている。しかし、高台にあった寺院は被害をまぬかれた。しかも、学校と一緒で、避難者を留め置くことが可能だった。もっとも、学校も寺院もそれらの建物自体が破壊されてしまったら、話にはならないが。
方丈記の書かれた時代でも、多くの寺院は避難所としての役目を果たしたであろうし、少なくとも司令塔の立場を持っていたであろうと思われる。そもそも、一般の庶民は、特殊な能力が無ければ、たとえ見かけは僧侶であっても、僧侶として専業で生きることを許さなかったであろう。特殊な能力とはつまり一般大衆には不可能な能力である。字の読み書きのできない大衆には、そもそも古文書に登場してくるような難字を、いとも簡単に読み書きできるということ自体まさに特殊能力であったろうし、さらに密教系の僧侶に見られるようなサンスクリット語を使いこなしているということも、まさに神のごとき能力であったに違いない。
このことは現代にあっても同様であろう。現代人でサンスクリット語まで理解できる人間はそう多くはないと思われるからである。
そのような文化的な価値のある場所が、中核となるのである。このことは、字を読み書きすることができなかった時代の庶民の生き方を見ても首肯できることである。民俗学にも多く出てくるが、字を読み書きできるものが、村落共同体の官吏となり、村をリードしていったこともまた事実であるからである。そのことには本論では触れないが。
4 高野聖たちのはたらき
(1) 災害の伝搬
情報機器などというものが無い時代に、地方の災害がどうやって伝わったのであろうか。飛脚とか馬による伝令というものが、京都を中心とした当時の行政機構にはあったに違いない。それはそれでいい。
問題は庶民レベルである。
噂だけであろうか。
それもあったかもしれない。山から山へ、海岸から海岸へと伝搬していったのかもしれない。
諸国を巡礼のように放浪していた最底辺の民衆芸能者の存在を忘れてはならないと考える。彼らは、船に乗っても船中で芸をすれば無料で船に乗ることができた。あるいは、歩き疲れて宿泊するところが無いときは、村の中で芸をすることによって、無料で泊まることもできた。さらに、食事もとることができた。
よその土地の情報がまったく流れてこない寒村にあっては、そうした外部からの訪問者以外に情報を得ることはできなかったから、村びとたりは、彼らを「マレビト」として尊んだ。
聖とは「日知り」から来た言葉で、「日、すなわち太陽のように輝いて、物知りな人」という意味がある。東大寺を再建させた「重源上人」や放浪歌人「西行」も高野聖出身であるといわれている。
すでに「聖」といわれる半僧半俗で全国を徘徊し信仰を勧進する集団は奈良時代からいた。高野山では空海が入定後、平安中期に高野山が火災などで一時荒廃したときに、復興資金を喜捨として集める為に全国に派遣された聖のことである。彼らは金剛峯寺の正式な僧ではなかったが、高野山の麓にいて、修行場である「別所」をいつくか作り、そこから全国に復興資金を喜捨として集めるために高野山から派遣されていった。彼らは全国津々浦々まで周り、弘法大師の奇跡を語り、人々に高野山への納骨を進め、その骨を預かる代わりに相応の寄進を求めた。彼らは高野山の霊場信仰を説く「高野山参詣曼荼羅」を持ち歩き、これを人々に見せて、「‥一番奥の廟所においてお大師様は今も修行を続けながら私たちを見守っておられるのだ。お大師様のおられる奥の院は浄土であるから、ここに骨を納めれば、あの世においてきっと苦しみから逃れられるであろう‥」などと、絵解きしながら人々に説いて廻った。
彼らの活躍した影響で全国に弘法大師伝説が広がっていった。おそらく空海自身が行ったことのない蝦夷から九州まで全国に渡って空海の伝説が伝搬していったのである。蝦夷(松前)にある阿吽寺本尊である「不動明王」は空海が彫ったものであるとか、東北では空海が杖を差した地面から湧き水がでて「弘法さんの湧き水」として今でも枯れていないとか、淡路島では空海に村人が水を与えなかった為にその村にあった井戸が枯れてしまったとかのいろいろな伝説がある。
(2) 支えとなった教えと活動
農民の芸能を追っていくと、このような遊行僧の存在と切っては切れないものがあることが想像される。
千葉県山武郡の横芝光町虫生地区の仏教劇「鬼来迎」などについてもそうであるが、仏教の教義の伝道よりも、そうした情報の伝搬役を担っていたのではないかと仮説を立てているのだが、本稿ではそのことは扱わない。
しかし、庶民の精神生活を支えていたことは間違いがない。都で、あるいはよそのところで何かが起きているのであり、ただ単に天変地異として怖れ慄いているだけではなかったのではないか。積極的に情報を知りたがったし、特にその土地についての支配層の動向や、自然災害などは驚くべき速さで江戸時代より以前の時代であっても伝搬しているのである。
(3) 山の民、海の民の存在
山には山番というものがいる。
主として隣の土地から越境して森林や、食物を盗みにくる、あるいは家畜を盗みにくるのを見張っている庶民である。これらの者が、情報の伝搬者でもあったのではないか。
とんでもないできごとがあれば、すぐふもとの里まで知らせに駆け下りてくる役目を負っていたものと思われる。こうした役目の者は、つい最近までいた。私は東北の山の中の出身であるが、わずか50年ほど前までそういう老人が実際に山の中にいて、番小屋に住んでいた。恐ろしいほどの迫力で追いかけられたこともある。
海の民においても同様であったろう。
千葉県銚子の海の民は、遠く紀州から1000家族単位で船で渡ってきたのである。そうした冒険をあえてしてきたのが、海の民である。
5 放浪芸をすることによるリスクからの逃亡
(1)中世農民芸能「鬼来迎」による考察
①鬼来迎とは
千葉県山武郡横芝光町虫生(むしょう)の弘済寺で行われる「鬼来迎(きらいごう)」と呼ばれる民俗芸能は、昭和五十一年五月四日に、国の重要無形民族文化財指定を受けた。九十九里浜を目前とした、広範な平野部の西端に位置する戸数わずか二十四戸という集落の中で、継承されてきたと言われている。
形態は、宗教劇の一つであり、地獄芝居とも仏教の唱導芸能とも言われているが、ここでは民間に伝わってきたところの芸能神(仏)信仰の問題を考えるにあたって重要な手がかりを与えてくれるように思う。
鬼来迎は、毎年お盆の八月十六日に行われている。
登場人物は、閻魔大王、倶生神、奪衣婆、赤鬼、黒鬼、観世音菩薩、地蔵、亡者などである。亡者の他はすべて仮面をつけている。劇の構成は、七段構成である。
②廣西寺縁起 抄録
鬼来迎の舞台となる弘済寺の縁起が伝わっているが、これを読むことによって房総の農村地帯における農民芸能のあり方をうかがうことができる。
廣西寺略縁起
抑々当極楽絵、鬼面等尋濫觴、人皇八十二代当後鳥羽院御宇。当所城主椎名安芸守連尊御創草也。当時洞家有智道兼備之僧。名、石屋和尚。生縁薩州為人、幼而出家為修学下関東徘徊諸国。或時下総国来当所郷。時及日暮毎家乞一夜之倚宿。都同不許旅宿。
※石屋和尚が薩摩の人であることが書かれている。
赤黒二鬼忽然出而呼「妙西、妙西」。有暫亡者妙西女徐而出。年齢不過二十、最媚。女。髪散乱。身着白帷子。
※妙西は地元の豪族椎名氏の娘
赤黒二鬼執彼妙西女飲熱湯、抱火柱抜舌打擲及数度俄然失矣。和尚見驚動毛堅。明旦。速下村里乞齋糧。当所城主椎名安芸守至門前。
※鬼来迎の仏教劇にふれている
眷属相集涕泣深甚。和尚問彼所以。僕告白。主人喪一息女今日初七日忌。主人対和尚「今朝息女中隠内、暫有逗留行御齋為亡者奉願御回向」。和尚応請。談遇及疇昔之夜事、主人咽涙云。「倩聞貴僧談、為我息女必矣。予頼一寺僧伽得妙西信女法名。息女堕獄無疑。 嗚呼悲哉如何。唯和尚以御慈悲奉願抜済」。
※石屋和尚と椎名安芸守
向和尚愛款誠断腸。夫婦重而「唯願我等彼辻堂誘一度妙西女令見遭呵責姿」。於是両三人而至彼辻堂終夜不睡而、窺彼様体果哉赤黒二鬼呼妙西将責如前夜。時妙西一具之膳持来而云。我親請沙門施齊子乞脱苦。功徳顕持来此食物、被許容今夜呵責、二鬼匿食之失忽焉。夫婦見之悲泣慟哭何以喩之哉。而後帰我家把和尚衣 嘆亡息女妙西抜苦。
※椎名氏夫婦の苦悩
観音薩埵忽然而出現、妙音聲以告獄卒日。観音「如何鬼王此罪人免」。云。 鬼王答「抑々此罪人者、娑婆国中大悪人也」。云。観音。「其所以如何」鬼王答「此罪人在娑婆時堂塔仏閣一度無参詣、又無施一紙半銭、晝世路暇惜・・・」
※観音と鬼王の何度かあるやりとり
詠歌曰。なき人の今は佛となりにけり 名のみ残れる苔の下露
(以下略)
嘉永五壬子星
孟夏節写
土屋義麿氏所蔵
(鬼来迎保存会 深田隆明編集 「重要無形民俗文化財 鬼来迎」 昭和五四年 鬼来迎保存会)
学ぶことの意味を問い続けたい
ここのところ論文の文体に乱れが生じて参っていたのだ。自分しかわからないことである。ましてやここに紹介するわけにもいかない。なぜ乱れてきたの... goo.gl/PQj1tf
シギリア・ロック Sigiriya Rock スリランカ シーギリヤ。
ジャングルの中にたたずむシギリアロック
(シギリア/シーギリヤ/シギリヤ/シーギリア) pic.twitter.com/9h7Fi9dNwd
「あなたが経験するたびに、その経験によって変わるならば、」と、マイスター・ムトに弟子が尋ねた。「あなたの変わらないものはなんなのでしょうか?」
「私が絶えず変わる、その性質である」と、マイスター・ムトは答えた。 『エンデのメモ箱』
逃げ道をあらかじめ作っていたのではあるまいか
オレは背水の陣をしいていなかったのではあるまいか。そういう反省をもった。今回、いろいろと郷土史の研究誌でささやかな編集上のミスがあって、これを仕方ないとみてしまった。もっと厳しく対処すべきであったのだ。どうーも他者に厳しくできなのだ、オレは。
ま、それでもオレはオノレの甘さがミスにつながったと思っているのだが。
そもそも、在籍大学でも気後れしてしまうからなぁ~。じじいが、将来の見返りもなく、勉強しているというのが間違っていたのではないのかというのは、確かにあるからだ。研究者としての基本的な訓練も受けていないし、働きながら通教でやってきただけであるから、若い研究者の邪魔をしちゃならんと遠慮してしまう。そこがオレは甘いのである。
郷土史の世界でしか生きる道はないのだから、これからは割り切って厳しく論文を書かねばならないのだ。一番書きたい学会でもまた論文発表をさせていただいていないからだ。ボツになってその繰り返しをやっているからだ。これをやらずに、死にたくはねぇのだ。マジに。
逃げ道をあらかじめ作っておいて、安全にやっていたのでは、論文なんか書けるわけもない。批判されて当然の世界に生きているし、人間性もまったくオレは立派じゃねぇからなぁ。所詮ろくでもない人生を送ってきたのだし、まったく聖人君子とは、ほど遠い世界で生きてきたからだ。
冗談で、拙ブログには香水のにおいと、アルコールが嫌いだと書いているが、正直言ってまったくのウソである。むしろ、そういう世界を知りすぎて飽きてしまったというほうが正解である。オレは役場の職員で、旅館もやっていたオヤジと、教員をやっていたオフクロの元で育ったから、そういう世界のことには詳しいのだ。働いていた女性の悲哀もガキのころから知っている。当時としてはしゃれた西洋風のバスがあるような旅館で、一緒に仲居さんと風呂に入れていただいていたガキであった。だから、建前として嫌いであるとしていないと、危険性を感じるのである。
論文書きで逃げていたのではものにならない。
どんどんどんどん積極的にやっちまうしかないのだ。そう、女性を口説くようにである。オレは女性を口説くことについては成功体験がまったくないけど。わはっははっっは。女房殿を除いては(>_<)ゞ。
あらかじめ、失敗を予測して慎重にやっていたら、永遠に成功はしないだろう。取り越し苦労をしているばかりでは、生きていてもおもしろくない。
当たって砕けろである。
そんなことを考えたのである。
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