都市型と山間型
寺院回りが好きで、あちこち出かけていく。
寺院と言っても信者ではない。どこの宗教団体にも属していない。かといって、無宗教ということでもない。いろいろと関心はある。特に、還暦を過ぎてからは関心がある。どこの墓地にお世話になろうかと考えるからだ。こういうのをしょうも無い爺というのである。
ま、それはそれでいい。
考えたのは、都市型寺院と、山間にある寺院とどっちがいいかということである。さらに、茨城牛久には阿弥陀如来のでかい像まである。あの中に墓地がある。そうなのである。仏像の中にオノレのお骨があるのだ。しかも、エスカレーターで昇ったり下がったりしているのだ。
まるでマンションのようである。
と、言ってもマンションというのに住んだことがない。だから、不安である。つまり地面に接していないと、私は住んだ気がしない。空中浮揚しているみたいだからだ。
死んでも空中浮揚しているんでは、はなはだ不安である。
ところで都市型寺院というのは、自然がない。
あたりまえだ。自然がないのは。都市というのは、人間が自然を壊して開発したものだからだ。利便性はあるだろう。電車やクルマで寺院に行くことができる。
しかし、そもそも仏教というのは、自然と共有するのではなかったのか。仏教で生き残った典型は、アジアの仏教だけである。同時に自然が残っている。山の上にある寺院は好ましい。山の上にあるというだけで、なかなかである。
旅行でも行きたくなる。
なぜ自然にあるかというと、都市は死んだ人をどうすればいいかということの発想がないからである。都市は、そもそも人が死ぬということを想定していない。あくまで経済優先、仕事優先である。健康でなければ、就職もできないではないか。健康診断の結果を持ってこいとか言われるではないか。
都市の交通事故で犠牲になった方を見ていると、気持ち悪い~って反応をしていた若いジョセーもいたっけな。新宿の交差点で。バイクだった。アタマから血を流していた。
そうなのだ。死体は気持ち悪いだけなのだ。これは死ぬことが、自分の問題として設定されていないということである。
死は、まさか、第一人称として迫ってくるとは誰も思っていない。死が迫ってくると、だから慌てる。余命宣告をされると、錯乱する人もいる。当然であろう。まさか、自分が死ぬとは誰も思っていないからである。
さらに、近親者の死を経験していない。近親者は病院で死ぬことになっている。今朝私も配偶者に言ってみた。家で死にたいもんだなぁ~って。そしたら、人間は病院で死ぬことになっているのよん。家で死んだら警察がうるさいでしょ、とのたもうた。
それはそれでわかる。
警察が慎重になるのは。もしかしたら、死んだ私をみて、虐待があったかもしれないと思う可能性はあるからだ。
都市型寺院だと難しい問題がいろいろとあるのだろうと思っている。人間関係も複雑になるだろうし、寺院の周囲の方々との軋轢もあるだろう。そもそも仏教信者ばかり周囲にいるとは限らない。文句もくるだろうし。
だから仏教が変質していくのだろう。
観光寺院としてである。信者はいなくても、それで収入になる。
しかし、またどっかの寺院に行ってみたいものである。
山の上にある寂しい寺院にである。
だんだん私自身もさびれてきたからだ。髪の毛も含めて。
わはははっはははっはははは。
(^_^)ノ””””