毒を味わいすぎたから、こんな爺になりはてたのか?
文学には毒がある。
まったくそう思う。だからやたらと読まない方がよろしい。そう言ったら、国語教員に叱られるけれども。絶望を扱ったものもあるからだ。簡単に読書の勧めとかいうサイトもあったりしている昨今である。また、いろいろな読書の勧めという書籍もある。それはそれで参考にはなる。
乱読をしながら、書籍を選択する眼を養っていくというのも首肯できる。
私が問題にしたいのは、乱読ではない。文学の中身である。毒を持ったものでは、どうなのだろうということである。まだまだ純真な精神に、あれ?って思うような文学はいかがなものかと言っているのである。
毒を盛られたら仕方がない。
しかし、毒を選択できるのなら、毒を捨てることもあり得る選択なのではないかと思うからである。
喉を通らせないならそれでいいのだ。
だから周囲の方々の指導が重要になる。教育の重要性がここに出てくる。
特に、周囲の方々の好き嫌いでこれを読め、あれを読めというのはいかがなものか。
読書は、なるほど趣味の世界である。
好き嫌いがあるのは納得できる。
しかし、物事には表と裏があって、勧める方のその時期の精神的状況によって勧める書籍の傾向が変わる。そこが一番問題なのである。たとえば、勧める方が自殺願望を持っておられたら、当然人生とか世間、あるいは人間関係に絶望しているような文学の勧め方になるだろう。
その時に苦しんでいたらそうなる。
だから、感性の充実とか、こころの錬成とか、美的感覚の充実とかいう理由でやたらと読むべきではない。
この真逆に、ビジネス書がある。つまり有用な読書である。資格試験とかそういうもの、あるいは受験勉強用に読む本がある。こいつは読書のカテゴリーには入らない。
そういうのは「情報」であって、読書ではない。ビジネスが成功したら、あるいは受験の結果がわかって合格したらそれでおしまいである。
ちょっとそういうのと同一レヴェルで考えてほしくないのだ。
もっとも、世間には役に立たないものは、すべて不要であるというめちゃくちゃなことを言われる方も多いから、なんともなんとも。
メリット論者である。
メリットがなければ、価値がないという方々である。
果たしてそれでいいのか。
奉仕だって、メリットだけで行動しているのではないだろうと思うが。
他人のために、奉仕されている方々は、デメリットだらけであろう。それを、メリットがあるからやっているのだというのでは、言っているほうの精神構造を疑わざるを得ない。そういう輩とは、つきあわない方がよろしい。時間の無駄である。
まるで、私のようだ。私も、生涯学習を気取って、時間と金の無駄をやっているだけだ。バカですな、バカ。
もっとも、あれか。
私もまた文学の毒を味わってきたから、こんな爺になりはてたのか。そう思うと気楽ではある。
わはははっはははっは
(^_^)ノ””””