やらなきゃ宝くじも当たらない
加齢とともに、記憶力が衰えてくると巷間よく言われる。たしかにそうであろう。中国語も単語がなかなか覚えられない。体験的にそうだと思う。しかしである。私の場合は、これまで勉強してきてこなかったから、還暦過ぎてから実は好調なのである。笑ってしまう。
そりゃスピードは落ちた。記憶する速度は。
されど、よく考えてみたら、高校時代も遅かったのである。事実である。周囲はマジに国立大学に200名近く現役でいくような秀才ばかりだったから、比較したらたまったもんじゃない。いかにアホか、よ~く自覚していたから、間違ってもオイラも出来る、秀才だとは言えないからだ。あたりめぇ~である。羊のように、めぇ~めぇ~って鳴いてばかりいたんだよん。
だから周囲の秀才にいじめられてばかりいた。
なんってたって、出来損ないだからである。
しかし、人間考えようだ。こういう出来損ないだから、出来ない生徒の気持ちがよくわかる。わかるから、いざ教える立場になったら親切丁寧にやる。やるから、生徒もそういう私の心情がよくわかる。わかるから、生徒と私の人間関係が円滑にいく。ますます教師が面白くなるっていう案配である。
こうやって40年近く過ごしてきた。
そして、退職した。悪いことをしたからではない。定年である。
ま、アタマが悪いから、40年、努力ばかりしていた。書いたノートもその数がわからないほどたまった。京大式情報カードにいたっては、3万枚以上である。カードの方は専用ラックを家の書庫に買って、しまい込んでいた。退職を堺にして、かなり処分したけど。要するに捨てたのである。
残ったのは、教育書と日本文学、歴史関係のみ。
余生もまた、こういう書籍を読みながら、一度読んだ本も再度チャレンジしながら生きていくつもりである。
基本的に、努力していないと、アホになるという危機感は非常に強い。アタマが悪いからやるしかない。定着しない。中国語の単語も、なかなか難物である。だから復習・復習の連続だ。
努力は天才をつくります、って言われてきたが、あれは嘘である。なぜなら、私は天才になれなかったからだ。わははははっははははである。
しかし、宝くじは買わないと当たらないともいう。
つまり、努力しないと、記憶というおいしい成果も来ないのである。やってみないといかんのだ。やらなきゃ宝くじも当たらないのだ。これは事実だ。マジに、事実だ。
生涯学習もそうだ。
やってみなければ、わからないのだ。時間の無駄だと言われても、やってみないと無駄かどうかもわからないではないか。
病気にはなる。
今回、毎日10時間以上もゴミ論文を書いていて、病気になっちまったからだ。これもまた、能力と適性がないから病気になる。能力のある人は、いくらでも勉強できる。何時間やっても平気である。宮尾登美子女史がそうだ。
それで思った。私は、病気になるべくしてなったのだ。
勉強に向いていないってことだ。
しかしである。
還暦過ぎても好調である。勉強に向いていないからだとはわかった。されど、問題なのは、回数である。復習に費やす回数である。これは間違いなくおいしい果実を私にもたらしてくれる。実践しているからである。アウトプットしているからである。ブログもそうだ。アウトプットしているから、いろいろ記憶に残る。さらに、塾である。講師をしているもう一つ別の大学もそう。アウトプットしているから、勉強して記憶に残ることになる。研究誌に投稿をするのもそうだ。アウトプットするから記憶に残る。採用されるかどうかは別として。いきいきしておりますっていうのではない。そもそも、爺なのだから「いきいき」していなくたっていいのだ。そんなアンチエイジングを気取っている爺なんて気持ち悪いだけだ。「爺になったら、いつもニコニコ」していればいいのである。なにもこれから就職して、バリバリ働こうっていうわけではないからだ。そんな気持ち悪い爺になったらはた迷惑である。若い人の進路を防いではいかんのである。バカでもあるめぇし。私はバカだが、そこまで老害を垂れ流しているほど徹底的バカではない。
こういうことに気がついてしまったのだ。
やっとである。やっと還暦過ぎてわかったのである。
もう遅いというのはよくわかっている。
でも、やってみなくちゃ遅いかどうかもわからないではないか。
宝くじ、買ってみなくちゃわからない。
そういうことである。そういうこと。
以上終わり。