ショッピングセンターでも歩いてくるか
憲法をよく読むと、信教の自由と表現の自由が書いてある。
拙ブログなんぞ後者の表現の自由のおかげで、勝手きままに駄文を書けるわけである。ありがたいものである。どうせ爺の手慰みである。誰も注目してくれないから、自分の記録のために書いているだけだ。だから、相手を意識していない。どう思われようと関係ない。
爺になるとよりラジカルになるって聞いたことがあるが、事実らしい。経験上である。
そうなのだ。もうしがらみがないからだ。だいいち、組織に属していない。だから名刺も作っていない。それでも、ちょっと困ることがある。今日、歯科医院に行くから、帰りに大型電気店に行って、安い名刺カードでも買ってくる。そして、自分で作ろうと思ったのである。
問題はその安い名刺カードになんて書くか、だ。
肩書きがないからだ。アルバイトとも書けないし。うううううむ。あ、ひとつだけあったか。年金生活者だ。これにしよう。これで十分である。でも、あれだ。名刺を渡すこともなくなったなぁ。そんなことは。一目見ただけで、無職の爺だということがわかるからだ。相手に。誰も、私の職業を聞く人はいないからだ。
一昨日、三番目の大学で仕事をしていたことは書いた。そこで事務方に聞かれた。「肩書きをどうしますか?」って。なんだか大学内部の書類の手続き上そういうのが必要なんだそうである。「傘張り爺とでも書いておいてくださいよん」と言ったら、大笑いされた。仕方がないから、私も大笑いした。実にタイムリーではないかと自画自賛したのである。バカですな、バカ。
実はそれで困ったと思ったのである。名刺でも作るかと思ったのは。
だから、表現の自由というのはありがたいものだと思うのだ。それをだ、おめぇ~の名刺をどうのこうのとか規制をかけられたりしたら迷惑千万。
つまり何を言いたいかというと「規制」なのである。今日は。
規制があるから、なんでも不自由になる。その規制の反対側にあるのが、信教の自由と表現の自由であると考えているのだ。
信教の自由で思うのは、靖国神社である。あれは誰がどうやって参拝しようと、憲法で保障されているのだ。それをあれこれ問題にする方がおかしいと思う。ま、これ以上は書かないが。
私のように自由自在に宗教を勉強するのがいけないと言われると、これまた困る。なんでか。私は、人間というのは宗教を必要としていると思っているからである。特定の宗教団体ではない。死をどうとらえるかということで問題を絞って考えているからである。
死はなにかという大問題ではない。そんなこと答えられない。しかしである。この3ヶ月で3回失神して思ったことがある。それは意識というのは、脳が生きていてこそあり得るものだということであった。脳の働きと密接につながっているのが、意識である。
すなわち意識がない状態が死である。
それは身体のことである。脳が意識をつかさどっているならば、すべては脳である。脳は身体の一部である。だから、私は身体である。こころではない。もっと言えば、こころは胸にあるのではない。
これまで、唯心論的立場が好きで、こころこそすべてと思ってきた。しかし、3ヶ月前から変わった。身体が非常に重要であるということに遅まきながら気がついたのである。
だから大事にしたいのだ。
身体を。
健康ということは、そういうことだ。これもである。霊魂の存在を信じている宗教団体から見たらとんでもないことを書いていると叱られるかもしれない。一神教に多いからだ。霊魂はあるかないか、そんなことは関係ない。私には信じられないというだけである。そもそも、絶対的な存在というものを説いた宗教は信じられない。よしんば、神様が一人だけならモーレツに忙しいではないか。申し訳ないくらいである。とてもとても、私のようなオゲレツ極まる爺じゃ、神様にお願いするわけにはいかない。
こういうつまらないことを書けるのも、憲法が信教の自由を保障してくださっているからである。信教の自由に「規制」はないからだ。ある特定の宗教思想を一つだけに絞って信仰しなさいとやられたのでは、たまったもんじゃない。どっかの国のようにだ。人間はどんなに規制しても、必ずくぐり抜けていくのだ。東アジアの国々は、そういう規制と私のような一般大衆との対立の歴史であったと思っているくらいであるからだ。
ありがたいものである。憲法が。
感謝である。
さ、10:30から歯科医院で診察である。
これくらいにしよう。
今日は居住地の大図書館も休館である。月曜日だからだ。
どこかに行く予定もない。
雨が降っているし、walkingもできない。
ショッピングセンターでも歩いてくるか。歯科医院の後に。
(^_^)ノ””””