それを「傲慢」というのである。
鉄道に乗っていると、けっこう人身事故が多い。なぜ鉄道自殺をするのか。迷惑だと思う。亡くなった方には申し訳ないが、鉄道会社に対する遺族の賠償金だって、かなりの額になるだろうに。
なぜ、やるならやるで自然の中ではダメなのか。そういう疑問がふとわき上がった。つまり、鉄道で亡くなる方は、都会人であって自然の中で生きていないのだ。
あるいは、あてつけで死ぬ人もいるのかもしれない。恨みとか、嫉妬とかというのもあるのかもしれない。だとしたら、なんということであろうか。死んでまで、人間世界のことがくっついてくる。なぜ、老衰で、病で死ぬまでさらさらと生きていけないのか。(事故ではたまったもんじゃないけど)
中には、大学に落ちたから死ぬ若者もいると聞く。そんなもんで、なんで死ぬ必要があるのか。大学制度なんて、たかだか100年ちょっとである。戦後の駅弁大学はもっと歴史が少ない。日本では。
あるいは、失恋、解雇等々の挫折という理由。そんなものは、理由にならない。失恋なんて、そんなもので一々自殺していたら、私のようなものは、命がいくつあっても不足する。
解雇だって、そうだ。仕事なんていくらでもある。要するにえり好みしているのである。あるいは、自分にあった仕事を探していたということがあり得る可能性もあるけれども。そもそも、自分にあった仕事なんてない。仕事は仕事。仕事を通して、たとえ微々たるものであっても社会とつながっていって、仕事をやるべきだ。それからである。自分にあうとか、あわないと考えるのは。
それよりも、まずは一旦仕事を引き受けたら半端仕事をしちゃいけないのだ。
サラリーは社会にもらうものであって、自分の能力が優れているからもらえると思っていたら大いなる勘違いである。まず自分があるから、サラリーをもらえるのではない。本気で自分にあった仕事があると思っている人なんかいない。天職なんてあり得ない。そう思っていた方がいい。もうちょっと気楽に自分を捉えることだ。
なんだか、それくらいのことで死んでしまったらいけないとずっと思ってきたからだ。爺としては本当にそう思うからだ。なにも死ぬこたぁねぇ~って、である。マジに。
そんなことを考えていたら、「傲慢なのが近代人の特徴」であるということに思い至った。近代人は、オノレの命なんか自分で左右できるという思い込みがある。自分の命なんだから自分が左右して当然と思っている。それを「傲慢」というのである。
世界は、自分の思うとおりに動いているとも考えているのが、近代人ということだ。
人間なんて、産まれた後から世界に参加させてもらっただけだ。だから世界のことを生涯にわたって学んでいくしかない。それが学校であり、独学である。他人に学ぶということは、そういう意味もある。
オンリーワンより、ただの人であれといいたい。世界で唯一の個性なんて錯覚である。オンリーワンというのは、個性重視の姿勢である。どこまでいっても、人間は個で生きるわけにはいかない。世捨て人ならわかる。山の奥で、一人で生きるというのは、ある意味憧憬の対象である。しかし、本当に個として生きることができるのか。無人島で。山の奥で。永久にである。永久に一人でである。
社会的役割というものを、個性だと勘違いしていないか。社長というのは、社会的役割であって個性でも本人でもない。このことは定年にならないと、なかなかわからないことである。現役時代にはけっしてわからない。ましてや、定年退職して、再雇用をした場合にはもっとわからない。いつまでも、同じ環境で仕事をしていたらわかるわけがない。
個性を見分ける目を、いにしえの人は「人を見る目」と言った。私もまだ「人を見る目」はない。まだまだである。
なぜか。
だまされてばかりいるからである。
それでもいいのだ。
他人を利用することはないけど、誰かのお役にたっていると自覚できれば、私はそれでいいのである。
ただし、財布に関わることではクソの役にも立たない。なぜなら、私はただの年金生活者であるからだ。要するに銭がねぇ~のである。
笑っちまいますな。
さ、これから歯科医院に行かなくちゃならない。
さらばです。
お元気でねぇ~
(^_^)ノ””””