エライ人とは?
エライ人というのが世の中にはたくさんいる。自称も含めて。
自分では動かず、他人を使いまくる人のことであろう。あるいは、言葉だけで他人を左右できる人である。身体を動かさず、方針を明示して、実際は周囲の人たちにやらせる人のことである。
つまり、お殿様なのである。
ただし、失敗したら全責任がある。ハラかっさばいて切腹しなくちゃならない。その意味では、使われる人間の方が気楽である。責任はないからだ。しかし、責任がなければないで、それはそれでまた苦しみがある。
有用感がないからだ。オレは役に立っているっていう感覚がない。お殿様の覚えがめでたければ、そうでもないのだろうが、あまり意味の無い人間であったら悲劇である。だから自営業が一番いいと私は思っているのだ。自営業の中でも農業が最高である。しかし、農業もなかなか難しい。自営できるだけの経験と知識が無くちゃ生活できない。規模も含めてである。
サラリーマンというものになんでもかんでもなるのは、ある意味、サラリーマンなんてそんなに難しいものではないと勘違いしているからだろう。ただし、都会に出ていかなくちゃならない。山の奥深くで孤高のままに生きていたらできない。組織が嫌いでもできない。人間関係もあるし。
それが嫌なら、世捨て人になるしかないのである。
しかも、人事がからむ。
今日はこれを一番言いたいのだ。
サラリーマンは、気楽な稼業ではない。その証拠に、人事で大騒ぎをしている。人事の発表があったら、巷の居酒屋は、大入り満員である。めでたく出世を成し遂げた人、あるいは挫折した人、どっかに放り出される人等々、いろいろいる。組織の内部にいるとそれが大騒ぎになるというのは、理解できる。誰が**というポジュションについたとか、転勤したとかそういう類いのことである。さらに他者評価が加わる。あいつはまだ実力がない。ないにも関わらず課長になったのはおかしいとか、あるいは誰の引きで係長になったのだ?とか、そういう見苦しい話題である。
しかし、そんな話はコップの中の話しであって、世間的にはなんの影響もない。私は、長いことガッコの教員をしていたが、退職したら、誰がどこの学校にいて、何をしているかなんてまるっきり興味がない。だから、時々困ることがある。ずいぶん昔にいた学校しか記憶にないからである。相手が。
電話でとんちんかんなことを言うことが多いのだ。相手に。
そりゃそうだ。
ガッコなんて、そんなもんである。PTAくらいだろう。そういう話に興味を持っているのは。しかも、自分の子どもが卒業したら、関係はなくなる。記憶の彼方に去ってしまう。教員をやっていると、そこのところが理解できなくなる。まるで天下を取ったように、勘違いをしてしまうのだ。教員の世界なんて狭い。誰も知らない世界である。
だから、進学校の教員になったからと言って、急に賢くなったと思わないほうがいい。大学もそう。教授になったからと言って、なにも天才になったわけではあるまいに。
大学と言ったって、上を見れば見るほど、凄い大学がいっぱいある。そういうのと、比較するほうがおかしい。
高校もそうである。進学校といっても、程度問題があるのである。進学率をHPから拾って、Excelで一覧表にしてみるとレベルがわかる。(実際に現役の仕事人時代はやってみたっけ)どの程度の教育をしているのかということも、教育課程を見れば一発でわかる。
だから、エライ人なんていないのである。
比較しているから、エラクなってしまったような錯覚に陥っているのだ。
そんなもん、山の中で一人で生活してみたら、なんちゅうこともない。誰も知らない。オレは、**会社のエリートだなんて言ってみても、クソの役にもたたない。
そんなことより、爺になったら、自分でなんでもやらなくちゃならないのだ。ゴミ論文だって自分で書かなくちゃならん。掃除も、洗濯も、料理もやっておいた方がいい。事実、私は来月「オトコの料理教室」に行く。楽しみにしている。税金関係も自分でできるようにしておいた方がいい。確定申告もである。
配偶者が先にあっちに行っても困らないようにしておくことである。
今日は、午前中、居住地にある古文書講座に行ってきた。
土佐日記を変体仮名で読まされた。
まぁ、まぁ呆れた。
私の実力の無さにである。
だから、月に2回ある講座が楽しみになってきた。
それに、受講生は皆団塊の世代である。
目的は、「友達づくり」である。会費も年間で1000円である。たった1000円である。ありがたいこと限りなしである。
それだけである。
楽しければいいのである。
なにしろこっちは、まったくエラクないのであるからだ。
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