岩田誠一著 「老境を慈しむ モンテーニュと徒然草の老年観」 浪速社
上記の書籍をずっと読んでいた。朝からである。朝も歩いて、お昼ちょっと前にも歩いたけど。合計で7000歩である。そして、家にすっとんで帰ってまたこの本を広げて読んでいた。
身につまされるからである。
最近、エリック・ホッファーから学んだことであるが、モンテーニュを読んでいるからである。
それに、徒然草もである。徒然草の方は、M先生が碩学として著名である。そうなのである。中退した某大学大学院で3年間ご指導をいただいたからである。もっとも、ボキ如き、学業劣等・不健康爺では師匠と呼ばせていただくわけにはいかない。いかないが、来月10月の7日から生涯学習講座で徒然草の公開講座を拝聴させていただくから(全12回ちなみに有料)、こっちの方も楽しみにしている。でも、その徒然草とモンテーニュが比較研究の対象になっているとは、知らなかった。
したがって、今朝からずっとこの上記の本を熟読して、ノートをとっていた。だから、拙ブログのアップが遅くなったのだが。
ま、そんなことはどうでもいい。
県立図書館から借りてきた本だから、直接メモができない。
Amazonから買いたいなぁと思った本になってしまった。しかし、今月はちと厳しい。たくさん今月も買いすぎたからである。
来月回しにしようと思う。
でも、それでもこの本が欲しくなってしまった。
そうなのだ。
まさに、ボキのことを書いているからである。
老年をどう受け止めるかということが書かれているからである。
午前中、古女房ドノが不在であったから、ずっと読んでいた。それこそ真剣に読んでいた。
あ、ここにも、あそこにもボキのことが書かれている、ああああああああ、(*_*) マイッタとつぶやきながら読んでいた。
家に誰もいないからいいようなものの、他人が聞いていたら、アホカイナと笑われてしまうだろう。
それほど、身につまされるのである。
なにがというと、老人は老人なりに確かに未来はなくなっていくし、時間も余裕がなくなっていく。確かにそうである。
しかしである。
それはそれなりに、人為的に修正も効くのである。あくまでも人為的である。自然のままに放っておいたら、そりゃダンダンとジジイになってそれで終わりである。あくまでも人為的に、そこにオノレの意志を介在させて修正をしていくことである。
モンテーニュ研究者の関根秀雄先生も言われるように、「諦念の気品」というものを持ちたいものである。年取ったからと言って哀しい諦念を持つのでは無くて、晴れやかな受諾を持つべきであろうとボキも思う。
受諾である。受け入れるのである。反逆しているのではない。今更である。今更、アンチエイジングを気取って、アデランスをかぶったり、モテようとしてみっともない服装をしたり、酒場に出入りしたりしてなんになろうぞ!
そう思うのである。
モンテーニュも、徒然草もそれなりの年輪がないとなかなか理解できないものであったと、しみじみ思う。
速読主義では歯が立たない古典である。両者とも。論文を書くために読むような本ではナイ。マジにそう思う。
生き方と直結しているのである。
これまでの生き方もそうであるし、これからもそうである。
「私の技術は生きることであった。生きるとは吟味することである」というモンテーニュの文章は、まさに「吟味」できるような社会的経験を踏んできたから書くことができる文章である。
またまた良書を示唆していただいたものである。
*
これから、郵便局にヤフーオークションで買ったモンテーニュの本を受け取りに行く。歩いていて、行き違いになったからである。
それからgymに行ってくる。
現在7000歩であるから、あと少しである。
まさに受諾の人生でありますなぁ~~~。
Bye-bye!
タイトルコード | 1000000146743 |
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書誌種別 | 図書 |
書名 | 老境を慈しむ |
書名ヨミ | ロウキョウ オ イツクシム |
モンテーニュと徒然草の老年観 | |
言語区分 | 日本語 |
著者名 | 岩田 誠一/著 |
著者名ヨミ | イワタ セイイチ |
出版地 | 大阪 |
出版者 | 浪速社 |
出版年月 | 2006.5 |
本体価格 | ¥2500 |
ISBN | 4-88854-427-1 |
数量 | 301p |
大きさ | 20cm |
分類記号 | 367.7 |
件名 | 高齢者 随想録 徒然草 |
個人件名 | Montaigne,Michel Eyquem de |
内容紹介 | 老年期の心構えを軸に、「エセー」と「徒然草」の中の珠玉のような言葉を拾い出し、老境の考察に応じた項目に整理して解釈を加える。「甲南カルチャーセンター」ほかでの読書会に使用したレジメをもとに書籍化。 |