枯れ木のように老いていきたい。老境を慈しみ、徒然草でも読みながら、静かに生活していきたい。周囲は老人ばかりだしねぇ・・・・トホホ
今日は、午前午後とずっと老人大学にいた。さっき帰ってきたのだけれども。老人大学から直行でgymに行って歩いてきたし。
そしたら疲れてしまったのだよん。情けないですなぁ。なんだか生暖かいような、気もちの悪い天候で、湿度の問題もあるんだろうけど。
実は、ボキの体調がおかしいのかな?と疑ってしまったのだけど。そいつは怖い。御免被るっていうやつである。せっかくここまで回復してきたのに、今更東洋一の大病院に逆戻りしたくはないからである。
健康だけがありがたい。大事である。かけがえのないもの、それが健康である。どんな美人に会っても、健康の方がボキにはありがたい。もっとも、最近は美人に会うこともまったくない。あ、今日は昔の美人がいたけど。たくさん。老人大学に(^_^)。
老人大学では、老人ホームの講義を聴いていた。
ボキも、もうすぐお世話になるだろうから、大事な話である。知っている老人ホームであった。キリスト教がバックにある。施設内に教会もある。イギリス国教会の宣教師が創立者である。実は、義母がお世話になった施設でもある。隣が病院で、有名なドクターがいたのである。腰痛で義母はお世話になったのであった。入院して。
だから、なんとなく親近感があった。したがって、講義が終わってからいろいろと質問をしに行った。個人的な話をしていた。もしかしたら、ボキもここにお世話になるかもしれないし。
だからこそ、老境を慈しみたいのである。
かならず来るのだ。老境というのは。イヤだ、あっち行け!と怒鳴ってもダメである。ミンナ、ジジイになりババアになっていくのである。そして、100%死ぬのである。絶体の真理である。死というものは。
どんなに若さを誇っても、美貌を自慢しても、ゼニをたくさん持っていても、必ず死ぬのである。そっちのあ~たも、こっちのき~みもである。
平等なのである。死は。
あがいても、あがいても最後は棺桶である。総理大臣になっても、エリートになっても、富豪になっても、博士になっても、文豪になっても・・・・・ぜ~んぶ最後は塵芥である。焼かれておしまい。その間、我々はもがき・苦しみ・あーだのこーだのと文句ばかり言って、時間つぶしをしているのである。
しかし、老人大学で拝聴する老境の話はせつないですなぁ。迫ってきているからである。もうじきであるからだ。現実がすぐそこまでヒタヒタと押し寄せてきているのだ。これはかなり深刻な話である。そんなのずっと先のことだと言っても無駄である。時間は迫ってきている。逃れることはできないのだ。
だからこそ、モンテーニュではないが、老境を慈しみ、徒然草でも読みながら、あるいは旧約でも読みながら過ごしていきたいものである。
もう競争からは外されたのである。もうお役御免なのである。じっとしていればいいのである。それを今更成果をあげるだの、もう一旗揚げたいだの、冗談もほどほどにしないと命を縮めてしまう。
老人大学に行ってみて、一番良かったと思うのがこれである。そうなのだ。周囲の方すべてがリタイアしているからである。いろいろいるけど。中身は(^_^)。
しかしである。
ミンナ枯れるようにして老いていくのだ。
枯れた後は、大地に返るだけである。
それでいいのである。
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今日は本当にいい話をお聞きした。
感動してきたよん。
来月から、退学した某大学でも、生涯学習ごっこをさせていただくけど、こういう考えになってきたのは、まさにエリック・ホッファーからの影響である。
在野で研究生活を送った彼から得るものは大きかった。
いまだにボキは無明を生きているけど、なんだか還暦すぎてから入学した大学院の生活で感じていた無明からは脱却できたと感じる。それが唯一の救いである。だから来月から退学した某大学生涯学習センターに通うのである。
Bye-bye!