いくら趣味でも、働かざるモノ、酒なんか呑むべからずである。不健康になっちまって、即、あの世行きであるから。これから、夜は佐伯泰英という作家の小説を読む。「居眠り磐音」という若き剣術家のシリーズである・・・風呂の中で読んでいたらバレちまったが(^_^)。こっちも趣味なんで・・・・・
「趣味で生きる」「趣味に生きる」では、雲泥の差がある。「趣味で生きる」という方には、ある意味軽さがある。深刻ではない。気楽に生きてやがるってぇやつである。
反対に「趣味に生きる」ってぇ方には、深刻さがある。趣味ですら求道的であるからだ。狭い。真剣である。真面目である。自己に厳しすぎる。
たまらない。そんなのでは。息が詰まっちまう。窒息してしまう。死んじまうではないか。
趣味でなのである。「で」なのである。つまりついでに生きていくってぇ姿勢である。
それでいいではないか。
何をクヨクヨ川端柳である。柳の木のように、攻撃されてもふわふわと受け流していればいいのである。大上段に構えてばかりいるから、辛くなる。生きているのがである。苦しみも、悩みもそういう時期が過ぎ去ったらオシマイである。どうせそんなもん、過ぎ去っていくだけである。
なにも耐えに耐えて、じっと我慢なんかしていることはないのである。どうも日本人というのは、そういうのを美徳にしたがる。
いい加減にしないと、ぷっつり切れてしまって、なんかの事件を起こしてしまうからボキは心配しているのである。
なにも生き急ぐこたぁねぇのである。誰だって最後は死んじまうのである。100%。それを忘れて生き急いで、今現在の人生をボロボロにする必要はないのである。
もっと気楽に生きていっていいのだ。焦って、成果を出して、成功しても失敗してもそんなもんナンの意味があろうかとシミジミ思う。
ボキなんか挫折ばかりの人生だったからこそ、そう感じるのだ。今でも挫折ばかりしている。ジジイとしても最低のジジイだし、これまでの悪業三昧は富士山よりも高く積み上がっていやがるのだ。消したくても消せない程である。
人間ちゅうのは、だから愚かなんである。
旧約聖書にはそういう人間の愚かさが、飽きるほど書いてあるのだ。
一昨日あたりから、旧約聖書も読み始めている。通読7回の後中断していたが、モンテーニュ「随想録」を味読し始めているから、また復活した。旧約読みが。
モンテーニュ「随想録」も色鉛筆で塗りたくっているし、付箋も相当くっついてきている。旧約もこれからである。
そうなのである。
オノレが、どんなにアホで、どうしようもない欲望まみれの凡夫であるかを知らせてくれるのが、この随想録と旧訳である。
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今日は学習塾の研修会があった。午前中。それでクタビレテ午後二時間も昼寝をしちゃった。情けない。こんなんじゃぁ、8時間労働すらできやしない。もう無理である。
わはははっはははっはははは。
でもあれか。
労働の後に晩酌を一杯やるか・・・というのはヤメタから、せめてもの言い訳にはなるか。
働かざるモノ、酒なんか呑むべからずである。
不健康になっちまって、即、あの世行きであるから。
これから、夜は佐伯泰英という作家の小説を読む。「居眠り磐音」という若き剣術家のシリーズである。老人大学でボキより年配のおば~ちゃんに勧められて読み始めているのである。はまってしまった。おもしろくて。
で、夕方gymの帰りに、古本チェーンでまた一冊買ってきてしまった。そして、風呂の中で読み始めてしまった。そしたら、バレてしまった。風呂の中で小説を読むことを古女房ドノに禁じられているからである。
トホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホ。
Bye-bye!