言い訳、自己欺瞞、いい理屈というものでもって自分をごまかしてはアカンですなぁ。ボキの場合病気になったことがこれに当てはまるですねぇ・・・・
体力の限界!と言って横綱千代の富士は引退した。貴乃花に負けた後である。
今朝はそのことを思った。
ボキは?
限界が来ていない。限界まで頑張った記憶がない。いつもチャラチャラと適当に生きてきただけである。恥ずべきことだが、認めざるを得ない。一心不乱に努力して、精神的にどうにかなっちまうかもしれないというレベルまでやったことがない。
ううううううううううううううううむ。
確かにそうである。
亡くなった落語の立川談志師匠が、タレントの伊集院光にあるラジオ番組の中でこう言ったそうである。つまり、伊集院光が落語のレベルの高さに落語家としてドロップアウトしようとしたときに、「立川談志師匠の落語を聞いて諦めた」というようなことを言ったそうである。そしたら、立川談志はちょっと考えてから「ホントウは、落語を辞めたかったんだろう?」というようなことを言ったのである。伊集院光の「のはなし にぶんのいち イヌの巻」(宝島社 p.140)に書いてある。
「いい理屈が見つかったじゃねぇか」とまで立川談志は言ったそうである。
なるほど。
諦める理屈が見つかったということに、はっとなったのである。ボキも同罪であるからだ。
つまり、論文執筆を諦めてドロップアウトをしたのが、某大学院中退であり、エコノミークラス症候群になってICUに入ったことが「いい理屈」になっていたということに気がついたからである。
つまり「言い訳」である。病気になったのは事実であるから、伊集院光とはちょっと違っているけど。
再度、うううううううううううむである。
そして、そこからの立ち直りとしてこのブログで言い訳を考え、いい理屈をひねり出していただけだったのだ。
我が身を見てしまったよ、伊集院光の文庫本に。
(*_*) マイッタ。
結局、それだけのものでしかなかったのだ。
言い訳、いい理屈だけでしかなかった。
だから、能力がねぇだのなんだとか、デタラメを打鍵していたのである。ま、能力がねぇのは確かであるが。あ、ゼニもねぇけど。
あるのは時間だけである。ヒマだから。なにしろ天下御免の年金暮らしである。長屋のヒマ隠居と一緒である。おとなしくしているだけ、周囲には迷惑をかけていないけど。
結局、「好きだから」で良いのである。好きだから他人とも比較しない。オノレの道を歩めばいいだけである。好きだからやってきただけである。それで良いのである。
諦めるための理由探しをしたらアカン。そんなの誰でもできるではないか。
今日は、午前中に古文書講座に行ってくる。居住地の方である。これもまた好きだからだ。ヒマだからというのもあるけど。
それでいいじゃぁねぇか。辞めるのはいつでも出来るのだから。「いい理屈」を見つければいいだけであるから。
(^―^)ノ