と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

子守歌を歌いながら、90分も内孫(二ヶ月の女児)を抱っこしていた・・・・かわゆいなぁ、実にかわゆい

2017年11月29日 23時05分50秒 | とーま君の流儀2017

古文書講座が終了したので、昼食をいただきに家に帰ってきた。

午後からgymに行こうと思っていたら、内孫が三時に来るという。内孫と言っても同居はしていなし、まったくその予定もない。でも嬉しくなった。

で、待っていた。

三時きっかりに来た。

そして、寝かせようとした。お嫁さんがちょっと出かけたからである。その気配を察したか、内孫は泣き始めた。家族は、別室にいて趣味の書道をやっていたから、ボキが抱っこした。

そして、***ちゃんはねぇ・・・とってもかわゆい~~~、美人ですよ~~~とか言いながら唄を始めたのである。ジジイのボキがである。両腕で抱っこしながらである。

そしたら、ナント、寝てしまったのである。

自慢じゃないが、ボキ、音楽の成績が良かったから、自称歌手なのである。

わはははっははははっはははっははははっはははっはは。

ざんぶらこ~、ざんぶらこ~とか言いながら、海に浮かんでますよぉ~~~とか言って、歌いながらリビングで歩いていた。むろん、ボキの腕の中にはかわいい内孫がいる。しかも、新しいイノチである。顔もこころなしか、ボキに似ているような気がした(まったくアホじゃな)。

完全に寝てしまった。

こりゃ、ジイジとしては頑張らなくちゃアカンと思った。

根性で抱っこを続けようと思った。

そのうち両腕がしびれてきた。

そうなのである。

ボキは、カネとチカラがないのである。自称他称美男子なのである。イロオトコ金と力がなかりけりというではないか。

それにどんなに見ていても飽きることがない。実にかわいいのである。これが、ボキのイノチを継承している内孫だと思うと感動すらしていた。マジである。

しびれてきたけど、ちっとも重くない。

かわいくて、かわいくて離したくないのである。

まったくジジバカもここまでくれば、完璧である。

それから90分。

楽しい内孫との抱っこ時間も終わってしまった。

お嫁さんが帰ってきたからである。

あああああああああああああああああああああ、サミシイ。

また会いたい。

それにしても、完全にジジバカになっちまっているですなぁ。

 

最高!

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若者よ、侮蔑することなかれ。そう遠くない時期に、君も・あ~たも行く道であるからだ(^_^)。

2017年11月29日 07時00分31秒 | とーま君の流儀2017

ジジイやババアにはなってみないと分からねぇことがたくさんあるのだよん。まったくそう思う。

 

 

幼年期の再現ということが最近時々起こる。つまり過去の思い出がボキの夢となって登場してくるのである。あるいは、過去の世代とのつながりという夢も見る。

なんということはない。ささやかな体験であったことが、思い出されるということである。

これがなにを意味するのか。

そんなことは考えてもみなかった。

でも、昨日図書館でノートをとっていた「老年的超越」なる本でいろいろと考えてしまったよん。

その本の中に書いてあった「老年的超越の兆候」という部分である。なかなか面白かった。

老年期に入ると、死の恐怖がなくなり、新たな生と死の理解に達するともボキのノートには書いてある。今、打鍵しているのはそのノートを見ながらである。こうやってブログに打鍵しているとアタマに入るからである。

さらに書いてある。

人生の神秘を受け取る、ささやかな体験を大事にするようになり、喜びが生まれるとも。

もっとある。二番目の項目を以下に抜き書きしてみよう。まさに兆候である。老年的超越の。

・自分自身の隠された善と悪の両面を発見する

・自己中心性の減少

・身体的超越(身体のケアは続くが、そのことで悩まされることはない)

・利己主義から、利他主義への移行

・ジグソーパズルの断片が、全体を構成していることがダンダンとわかるようになる(自我統合)

・静かさと孤高が意味するものが理解できるようになる。

 

三番目にあがっている事項が以下のとおりである。社会と個人の関係の次元での話である。

・人はより選択的になり、表面的な交際への興味が薄れる

・孤高の時間が必要になる

・役割の放棄を迫られることもある

・社会の慣習を放棄する 新しい超越の可能性が出てくる

・人生における無邪気さは、成熟を促進させる

・物的必要は、それ以上の必要性を感じなくなる

・善悪の表面的な区別をやめるようになる

・判断やAdviceを与えることも辞める

・広い心や寛容が増加する

 

以上である。

ラーシュ・トーンスタムという社会老年学の先生が分析されているのである。(*_*) マイッタ。

こんな本見たことがなかった。

確かに、ジジイとなってからは変化した。

ボキは大いに変化した。

それも退職したからである。

つまり、ノルウエイの哲学者ヘラルド・オフスタッドも書いているように、「生産性」や「効率性」、さらに「自立」からは、遠のいてしまったからである。経済優先の世界から、離反してしまったからである。

「生産性」や「効率性」、さらに「自立」の対極にあるものは、「非生産性」であり、「非効率的」であり、「依存的」な傾向を意味する。

だから、若い方々が老年期にある者をさげすみ、侮ってしまうのである。経済最優先ならそりゃそうだろう。

もっとある。高齢者は弱い存在であり、死と共にある哀れな存在であると若い人々は認識しているのである。高齢者を軽蔑することによって、相手を見下げているのだ。

古代ヘブライ文化では、高齢者に年齢とともにある叡智に高い評価を与えている。

だから、若者よ、侮蔑することなかれと言いたい。

いつかは、君もあなたも行く道である。それも、あっという間に到達してしまう道である。

 

わははっはははっははっはははっははははは。

 

これから居住地の古文書講座に参加してくる。ヒマだから。

 

(@^^)/~~~

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11月28日(火)のつぶやき

2017年11月29日 06時50分53秒 | とーま君の流儀2017
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/