と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

勲章の季節である・・・未練・執着・嫉妬の季節でもある( ̄∇ ̄)

2017年11月02日 08時30分11秒 | とーま君の流儀2017

>政府は2017年秋の褒章受章者を2日付で発表した。受章者は775人(うち女性163人)と22団体で、3日に発令される。学問や芸術などで功績を残した人に贈られる紫綬褒章に作詞家の松本隆さん(68)、脚本家の三谷幸喜さん(56)、将棋棋士の森内俊之九段(47)、夫婦漫才コンビの宮川大助(68)・花子(63)らが受章した。(スポーツ報知)

 

上記のようなニュースが出ていた。

毎年である。

これを良しとするか、そうではないとするかということで毎年考えさせられることがある。

それは、どうしてもこの受賞にあずかりたいと思っている方々が多いということである。80を過ぎても、オノレが受賞していないのはけしからんと言う方もある。

ボキは、そういう方々を見ていると、ナミダが出てきてしまう。もらいたくて、もらいたくてしょうが無い方(複数)を実際に知っているからである。

ボキは学位なら欲しい。でも挫折してしまったのだけど(⌒▽⌒)。

勲章って、まさに格差社会の典型だと思っているからである。

しかし、80過ぎてもまた未練があるのかねぇと思う。

これって、地元に残った人に多いのではないのか。

つまり、高校の同級生が受賞しているから、オレも欲しい、なんでオレには声がかからないのだという理屈である。

ボキは、マレビトである。つまりよそ者である。いろいろ差別に耐えて、この九十九里に住んでいる。もう、墓も買ったし、ここで死ぬしかないんだけれども。

だからかえってシワワセである。つまり、未練がないからである。高校もこの土地の学校を出たわけではないからである。しがらみがない。執着もない。

気楽なもんである。

隠者を気取って、世間を斜めに見ていればいいだけのことである。

わはっはははっははっははははっはははは。

 

さ、これからウオーキングに行ってこようっと。

健康だけが気になるからである。

 

ヾ(@⌒ー⌒@)ノ

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教育で肝要なことは、《受け身》であるとしみじみ思う。柔道をやってきて良かったということである。

2017年11月02日 08時12分22秒 | とーま君の流儀2017

柔道で、投げられて投げられて、さんざん痛い目にあってきた。挫折しているヒマもなかった。挫折なんて、目標が違っていたら挫折ではないのである。ボキはボキなりの生き方をしてきた。十分満足している。それもこれも、受け身をやってきたからである。

 

 

柔道に受け身というのがある。

これは、やった人でないとわからないのだが、受け身ができないと柔道は非常に危険である。そりゃぁ、快刀乱麻で絶体に相手に投げられないという自信がある方は、そんなもん必要がないだろう。しかし、そうは問屋がおろさない。柔道には、相手を投げたり、投げられたりする稽古があるのだ。投げ込みというやつである。

この稽古からは逃れられない。

なぜなら、部員全員横にズラーっと並んで、交替で相手を実際に連続10本くらい投げてみるのであるから。

ここで受け身ができないと悲惨である。痛いからである。下手したらケガをしてしまう。投げられて投げられて初めてコツを知るのである。痛くない投げられ方というのもあるのだ。だから、相手を尊重するという心根が養われるのである。

柔道は攻撃一点張りではない。最近の柔道はポイント制になってしまって、相手の攻撃を待っていてそこから返し技で反撃するというスタイルを禁じてしまった。後の先というスタイルである。相撲の白鳳が一時このことを盛んに言っていた。双葉山の相撲がそうだったからだ。最近では白鳳さん、後の先なんかまるっきりやっていないけど。プロレス技のラリアートまがいのかち上げを多用しているから。

 

教育というのも、受け身が大事である。

ふとそんなことを思った。感情に流されず、かっとならず、冷静沈着に物事を処理するチカラというものが、抜け落ちている。最近の教育には。

すべて進学・進学・進学だけで学校が成り立っているのではないのに、しゃかりきになっているのが最近の情勢である。教員の方も、進学校でないと学校に行く気がしないというのもいる。

世間も悪い。***高校(一応地元では自称進学校)の先生をやっていたから、実力があるというふうに言う。教員の実力は、学力だけでは評価できない。学力はあってあたりまえであって、どんなふうに教えることができるのかということが、大事である。それを世間の人は知らない。

水を飲みたくない馬にも飲ませなくてはならないのである。どうやって飲ませるかという工夫が、教員各自になければならない。

ボキだって言われたことがある。どこの進学高校で教えていたのかって。

断じてボキは進学校に在職したことは、ただの一回もないのである。ボキのいた学校は、水を飲みたくない馬が多かったから言っているのである。

受け身ができたから、そういう現実を受け止めることができたのである。

簡単に挫折したり、ドロップアウトしたりするのは、自称進学校に多い。感情的になったり、焦ったりしているのである。

すべてに大学階級社会の影響がある。A大学なら、一生涯安定して生きることができるとか、出世間違いないとかいう類いの話である。

ボキは、そんなものに影響されなかった。苦学して大学に行ったし、そもそも最底辺大学からスタートしたから、痛くも痒くもなかった。

投げられて、投げられて、さんざん痛い目にあってきた。

挫折しているヒマもなかった。

挫折なんて、目標が違っていたら挫折ではないのである。

ボキはボキなりの生き方をしてきた。十分満足している。

それもこれも、受け身をやってきたからである。

まさに、「教育こそ受け身が大事」であるとしみじみ思っている。

攻撃ばかりしていたら、ブーメランで明日は我が身である。必ず失敗する。政治家の世界も一緒ではないか。攻撃一辺倒の方々が消え去ってしまったし。

 

ふうううううううううううううううううううむ。

 

今日はまともなことを打鍵してしまったなぁ。

(⌒▽⌒)

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11月1日(水)のつぶやき

2017年11月02日 05時48分47秒 | とーま君の流儀2017
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/