どうせ死ぬのなら、なんも生き急ぐ必要はないと思うのだが。
座間市の殺人事件のことを毎日のように見聞きする。なんとまぁ9人である。被害者が。そして、自殺サイトというものが密接に関わっているのだという。
若い身空で、なんで自殺を選択するのだろうか。
どうせミンナ死んじまうのである。なにも生き急いで、自殺を選ぶことはないと思うのだが、そう思うボキの方がおかしいのであろうか。
古来、自殺を選択する方々がいる。文学者も多い。芥川龍之介、太宰治、川端康成、江藤淳、三島由紀夫等々である。
そういう風潮が、若い方々を自殺に誘ってしまう。
むろん、若い方々ばかりではない。老人もいる。
ここに一冊の本がある。
「ゆびさきの宇宙 福島智・盲ろうを生きて」(岩波現代文庫)という本である。Amazonの内容紹介には以下のように書かれている。
ヘレン・ケラーと同じような障害をもつ東大教授・福島智。無音漆黒の世界にただ一人、果てしない宇宙に放り出されたような孤独と不安。それを救ったのが母の考案した「指点字」とその「通訳」の実践だった。盲ろう者として幾多のバリアを突破してきた福島の生き方に魅せられたジャーナリストが密着、その軌跡と思想を語る、と紹介されている名著である。
どんなに大変な生き方であったろうかと思う。されど、福島教授はめげない。さらに「コミュニケーション」の大切さを言われる。盲ろうであるから、それがどんなに大変なことであったか。想像してもつらかったことであろう。
ここがミソである。つまり、「コミュニケーション」である。
言うことはたやすい。カタカナで「コミュニケーション」と語ればいいだけであるから。
それが苦手であるということが問題だと思う。
コミュニケーションはすべての人間関係の基盤である。家族だってそうである。職場はさらにそうである。
だったらなぜそれが苦手になるのか。
アドラー心理学はそういうように思うことになった自分自身に原因があるとのたもう。そりゃそうである。自分がそういう設定をしているからだ。
しかし、ちょっと視点を変えてみることも大事である。コミュニケーションが苦手だと思うのは、もしかしたら誤解しているのかもしれないということである。
なぜそんなに他者が気になるのだろうか。
他者なんか、自分と一緒に死んでくれるわけはない。したがって、コミュニケーションが大事だというのは、他者に気に入られるためにあるのではない。
気に入られなくてもいいではないか。他人は他人、自分は自分である。
そこのところを誤解していると人生を誤る。
死ぬのは自分。死んだと言っても、誰もなんとも思ってくれない。死んだその日から、過去の人間になってしまうのだ。そんな人間がいたというだけになってしまう。
現実は現実でそれなりに対応していくしかないではないか。
死に急いではならない。
どうせ誰だって死んじゃうのだから。
それをである。自殺なんかしないことである。なにも生き急いでいくことはない。
福島教授のように、障がいがあっても豊かな人生を送っていくことができるということの方が大事である。
☆
腰はだいぶ改善されてきた。まだgymには行けないが。昨日、九十九里浜にあるかんぽのスパに行って腰を温めてきた。そしたら、ぐっと改善した。
大事にせなアカンですな。
まだまだボキは生きていたいからである。
世のため、人のためにである。
マジに。
ヾ(*´∀`*)ノ