ボキは、絶望しているから文学だの、宗教だの、哲学などを希求してきたのかもしれない。この頭木さんのお話を聞いて気がついたのだ。
苦学生時代にずいぶんドストエフスキーに傾倒したのは、これだったのだ。つまり、オノレの才能や能力にである。臆病な自尊心がどっかにあったのだ。これまさに、山月記の世界である。それは、もしかしたら才能があるかもしれないと思い込んでいたということである。自尊心が傷つかないように、生きてきただけだったのだ。言い訳の心理でもある。
努力しないことの安全パイであった。ハンデを自分でつけていただけだった。
うううううううううううううううううううううううううううううううううううううむ。
落胆したくないから最初から努力しなかっただけだった。逃げていたのだ。博士になれなかったということのトラウマから逃げていたのである。しかも、努力もしなかったのだ。
これだったら、自分ががっかりすることもない。しかし、これだと成功することもない。ネガティブシンキングだったのだ。
良いことが起きなくても、嫌なことさえ起きなければそれで幸せになると思っていたのである。
そして、変化を恐れた。しあわせであるには、暖炉に薪をくべなければならない。定型化している定年後のジジイ生活をそのまま生きていれば、それで幸せになると思い込んでいただけだったのだ。ずーっと寝ていたら、飽きてしまうのである。だからこその生涯学習ごっこだったのだ。
極端に生活していれば、病気になる。病んでしまう。山月記はこれを示唆してくれているのだ。博士になりたい、有名な詩人になりたいと虎になっても、オノレの作品が永久に残ることを望むという精神が病気の最大原因であるのだ。それに気がつかなかった。このNHKの講話は、それを教えてくれている。
ほどほどに生きていればいいのだ。
高望みしないで。
今日は、バイトで遅くなった。月末事務処理をやっていた。このバイトで生涯学習に資することにするつもりである。無駄に使っていたら、アカン。もったいない。だから大学院受験を考え始めたのである。修士をもう一つ持つのもいいかもしれないと思い始めたのだ。仏教学である。
どうなるかわからんけど。
作家の三浦綾子先生も言っておられた。勉強して、受験して、結果は神のみぞ知るだと。
疲れた。寝ます。
2017 10 30 1/3 絶望名言【 中島 敦/なかじま あつし】/頭木 弘樹・かしらぎ ひろき・文学紹介者 NHK ラジオ深夜便 4