と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

言葉の大切さ

2010年09月09日 20時43分30秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 毎日、早朝からまことに多忙であります。
 今日は、朝、7時05分から働いておりました。
 在校生諸君はわたくしがどこで何をしていたかよくご存じでしょう。この独特のヘアスタイルを朝から見させられたら、たまったものではないでしょうな。

 少なくとも学校にはいませんでしたが。8時25分までは。打ち合わせには間に合ったのですが。

 ま、これもまた教員の宿命であります。確認作業もあったのですが、ね。

 どちらにしても行動には注意しましょう。



 さて、今日は世間一般で言うコミュニケーションなんとかという言葉について考えておりました。

 なんか、横文字で言うと格好がいいのですが。横文字は苦手ですから、あまり使わないようにしているのです。それでも、こんなことを考えることはあるのです。

コミュニケーション行動の機能は、たんに情報の伝達にとどまらず、情動的な共感、さらには相手の行動の制御をも幅広く含んでいる。

 ↑のようなことを聞いたことがあります。
 まことに然りでありましょう。
 しかし、この文章には相手の制御という部分があります。そうすると、制御のためにコミュニケーションをとることがあるのでしょうか。これは今まで考えてもみませんでした。だいたいは対話であると思ってきました。つまり立場は対等であります。そうでない場合は、計算がある。どこかに。自己の立場を守ろうとか、そういういやらしさがある。

 お互いの立場とか考えないで、平等に対話を重ねたいものであります。
 ところが、これがなかなかできない。
 どうしても自然体で話をすることができないのが、世間一般でありましょう。

 だとしたら、隠者になるしかないのでしょうか。
 それも逃げていることにかわりはないわけです。

 立場にこだわりすぎるのもよくないわけです。
 前の職場の仕事の論理で、現在の職場を分析するというのもいかがなものか。

 あるいは先達の経験を鼻から軽視して、言うことを聞かない。
 これもまたいかがなものか。わたくしの高校生活など、いちいち突っ込みばかりやっていて、まさに自省の固まりでしたが。恩師にがつ~んとやられたこともありましったけ。高校生の時は、よくも悪くも差異を気取り、天才を気取るわけです。それもまた稚気という意味で好ましいものであります。懐かしくなります。はっきり言えば、何もわかっていないあほな時代を送ったわけです。

 


 在校生諸君は言葉感覚を磨きたまえ。
 言葉で失策をする輩は多いからであります。

 ちょっとした一つの事象で、全体を評価されてしまいます。
 何度もここに書いて来ました。
 
 それが当たっているかどうかは別としてです。 


 
 
 言葉による人への差別をしたりしてはいけません。
 当然のことです。
 家人であってもですよ。

 差別は十分すぎるほど経験してきましたから、そう言っているのです。
 よそ者であるが故にです。

 言葉には気をつけたまえ。

 ほんとうにそう思います。


 
 
 また明日! 
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二行詩

2010年09月08日 22時16分03秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 雪国という詩があります。

 三好達治先生の詩です。
 
 たった二行です。


     太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

     二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。


 見事なものです。
 これである種の世界を表しております。今日の夜は、これを使って小学生向けの授業ができないかどうかと、プレゼンテーションソフトで24枚ほどの資料を作成しておりました。いろいろな質問が可能になります。この詩は。

 ちょっと雨が激しくなりましたので、ジムはお休みして、夕方から作り始めてさきほど9時頃完成しました。才能が無いので、3時間もかかってしまいました。

 どうやってやるのかというと視点論でやります。
 なにかの機会があれば、実践してみたいことのひとつであります。

 小学生向けですから、写真を豊富にいれました。
 楽しそうな写真をたくさんです。

 さらに音読の仕方です。区切りをどこに入れるかということです。やり方は二つ。これもまた実に楽しいものです。

 楽しみ、楽しみであります。



 授業の手法を考えるのは好きなのです。
 しかしながら、柔道も一緒で、15年前に顧問を中断してセンター勤務になって以来、もう素人同然であります。逆にそれだからこそ、やれることがたくさんあるのかもしれません。

 構えていたり、どう思われるかとやっていたのではなかなか困難です。だいいち一つの事象ですぐ一般化するのが、常ですからね。人間というのは。

 この資料が役に立つことは無いのでしょうけれども、そういう心構えだけは忘れずにいきたいものです。

 

 資料作成に時間がとられすぎました。
 今日はこれが限界のようです。

 

 また明日!
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ものすごい先生

2010年09月07日 21時33分36秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 今日は午前中しか学校にいることができませんでした。
 いろいろとあるものですから。
 それに、お客様もいらして、なかなかその応対もあります。
 前後策も即対応しなくてはなりません。ここに書くわけにはいきませんが。

 応待辞令とはよく言ったものであります。
 何かに対応していく。それがどれだけの真摯さを持つか。それで違ってきます。結果が。



 木田元という方がおられます。
 大学者です。ハイデガー研究での泰斗です。この先生、山形県と関わりある方とは知りませんでした。県立図書館からいろいろ先生の本をこの日曜日お借りして、章ごとにまとめ読みをし、さらに打鍵しながらノートを作っているのです。先生の受験体験が凄まじい。海軍兵学校を終戦で終わった先生ですから、終戦後は役場の嘱託とか、小学校の先生とかしながら県立の農業関係の教育機関に学びます。
 
 それが、ドストエフスキーと、キルケゴールに出会って、それからハイデガー。本格的に勉強をしたくなって、つまり原語で学びたくて受験勉強開始。とうとう仙台の大学哲学科に合格。それからが、もの凄い努力の日々。

 やはり文献学者であられる方の努力ぶりは、ほんとうにすばらしい。
 まねをしたいのですが、とてもとても資質に欠ける。困ったものであります。ニーチェだって文献学をしこたまやったのです。

 どうもニーチェというと思いつきの、あるいは直感の哲学者と思われるようです。
 さりながら、膨大な読書と、精緻な読解力に支えられている大先生であると、わたくしは思っております。

 国文学史とか、哲学史とかを研究なされる方はそういう方でないとできないのです。

 気の遠くなるような営みであります。
 
 通り一遍のことでは人と会話することもできません。

 もっともこれはわたくし自身に言っていることなのですが、ね。
 在校生諸君、共に学びましょう。

 学問、体力養成、人物育成。
 教育トライアングルであります。






 また明日!
 
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また記事になりました

2010年09月06日 20時06分26秒 | 先公ごっこ2008年から2012年




9月1日の大衆日報様に記事にしていただきました。

大変ありがたいことです。

地域の皆様に愛され、期待をいただき、ますます邁進してまいります。

どうかあたたかいご声援を。

一日体験入学のことを扱った学校新聞を紹介していただきました。

県銚は内容で勝負します。

きびしく、あたたかくです。


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問いと解

2010年09月03日 21時40分35秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 もう言いたく無いのですが、どうしてこんなにいい天気なんですかね。
 関東に出てきた昭和45年の秋がこんなふうに暑かったのを記憶していますが、歴史的にも一番暑いのだそうですね。参ります。まったく。

 わたくしの小学生時代に、男の先生も半ズボンであったようなかすかな記憶があります。山形県ですから、例のフェーン現象で夏はことのほか暑かったのです。熊谷市に抜かれるまでは日本一暑い土地でありましたから。

 銚子は夏涼しく、冬暖かく、こんな住みよい土地はない。それがこれだけ暑いとなると大都会はいかばかりか・・・・・。

 今日は、情報カードを前に、学校のある出来事・行事を哲学的に分析するとどうなるかということを真剣に考えていました。図解をしながら、考えていくわけです。情報収集をしながらです。インターネットで得た情報はカードに印刷をして、分析に入ります。

 システム的に妥当かどうかということと、個別の論理に照らしあわせた時に、論理性に齟齬がないかどうかということを考えていました。ある問いをたてて、その解を考えるという手法を10代からとってきましたから、慣れっこになっています。

 しかし、これだけですとなんのことやらご理解いただけないと思いますが、それはそれ。これ以上言うと守秘義務にひっかかりますから、後は内緒。

 つまり言いたいのは、そういう時にやはり理数的な教養が必要ですよということなのです。考えるのは国語的教養ばかりとは限らないのです。あるいは倫理社会という科目を持っている地歴公民の教科とも限らないのです。総合的な教養が無いと、非常に優れた知識人に振り回されます。

 その意味ではわたくしなぞまだまだであります。振り回されてばかりです。乱暴な思考方法と粗雑な言語になかなか適切な対応がとれない場合もあります。あ、学校のことではありませんよ。社会生活一般のことです。
 
 特に学校以外の組織でもいろいろ関わっていますから、人間関係は実に複雑であります。それがわたくしの特性でもありましょう。まだまだ学校と、柔道以外に関わっているものがありますから。ほとんどボランティアですからね。つまりボランティアである以上、それは他人には言うべきではないと思っていますから。人に自慢げに言ってしまったら、もうそれは奉仕の精神から逸脱してしまうことになります。
 
 今日は高齢化社会とジェンダーということを考えておりました。教育とも密接にむすびついております。特に、高齢化社会になったときに、女性の役割は介護やケアの面で非常に重要になるということをいろいろ情報収集をしながら、考えておりました。それでは男性の役割はどうなるのか。男性は高齢化社会で、どのような役割を果たして行くべきなのか。積極的にです。そして、そこに結びつく学校教育の役割をも。これはまた自分自身の問題でもありますが。

 つまりそれが問いです。 
 わたくしなりの。
 そして、その解を考える。それが県銚の将来像にも結びつきます。一校を任せていただいている以上、あらゆることに興味を持って、自分を鍛錬していくしかないのであります。
 
 楽しいことばかりです。やったらやっただけ、成果はあがります。武道と一緒です。本当にそう思います。勉強も一緒です。やるかやるまいか考えているより、行動です。すばやく行動しましょう。
 
 英単語の記憶と一緒です。
  
 やるしかないのです。



 今日は、ジムの帰りに、複数の知らない方から挨拶をしていただきました。
 最近、そういう機会が増えております。
 海上中学校の教え子と呼ばれる方々ですと絶対に覚えておりますが、どうもちょっと年齢層がお若い。
 
 もしかしたら、本校の卒業生かもしれないとも思いつつ・・・まぁこれだけの個性的なヘアスタイルですから、たぶん目立つのだろうとか、勝手に思っています。県下の高校校長で、こんなアタマをしているのはわたくしだけすからね。笑ってしまいますが。

 人間関係というのも、職業生活あってのことでありましょう。
 しかし、いつまでもそれにこだわって、未練たっぷりしがみついているのもいかがなものか。年相応ということ、分相応というのも当然あります。わたくしなぞは、他人に自慢げに誇るべきものは何もないし、こだわりもない。無為自然でしかありません。

 ただし、知性はほしい。
 そのために努力する時間もほしい。
 それは絶対的教養に乏しいから、知性がほしいと思うからであります。まだまだ成長したいのであります。年をとってもですよ。

 愛が大切であると説かれるのは、愛が無いからであると言われた西洋哲学者のように、それはそれで必要な思考方法であると思うからであります。

 欲張りましょう。
 遊んでいる暇はないのですよ。






 ・・・・・・・また小言になってしまいましたが。

 勉強なさいませ。



 
  
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それもまた一興

2010年09月02日 21時38分14秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 今日も月刊高校教育を見たということで、激励のはがきをいただきました。昨日は封書でありました。

 ありがたいものであります。県銚を取り上げていただいたことを素直に喜んでおります。さらに銚子を紹介していただくわけです。銚子の地名そのものをずばり名乗っておるわけですから。記事にぬれせんべいまで登場してきます。

 そんなことを考えながら、種々様々な書類作業をしておりました。ところがやはり今日も暑いのであります。きついものであります。毎日そのことばかり言っています。情けない、情けない。

 昨日授業を見させていただいておりました。そのときの在校生諸君の学ぶ教室の快適なことこのうえない。

 環境もやはり大切であります。もっとすばらしいのは在校生諸君の授業態度。実にいい。保護者の方々のご期待どおり。ただし、これまたうるさいようですが、受け身だけの学習になっておりませんかとだけは申し上げたい。ある教科の授業で、ノートを二つにして、左側半分だけ使っていた生徒がいました。後で、復習をするつもりなのかな?と感心してきました。

 今日もいろいろ文書を作っておりましたので、ワープロに字数計算をさせましたら、5000字を超えていました。アイディアも、メモも、なんでもキーボードをたたいて作りますので、致し方なし。

 
 さて、夕方はジムで尊敬する哲学者の鷲田小弥太先生の「晩節を汚さない生き方」PHP新書を読み終えました。ジムのドアを開ける前に、ショッピングセンターの書店で買ったのです。おもしろそうだと思って、ストレッチバイクというのですが、それをこぎながら読了してしまいました。マーカーをつけるわけにもいきまんせから、興味のあるページは折り込んで読み進めます。

 ですから今日の消費カロリーは相当なものになりました。

 この本を読みたいと思うわたくしの心の中はまだ書きません。ただ、「無為」という鷲田先生のある種の表現には心ひかれるものがありました。年の取り方とか、ケアに絡む生死の学問とか、本当に興味があります。
 
 そもそもわたくしの読書は量的には少ない。核となる分野がきっちりとあって、その周辺をめぐっているだけです。当然、教育書はその核となる量より質の分野であります。年をとってきたのですから、雑書を可能な限り排除しようとしています。ところが、これがなかなか難しい。興味が拡散していくのです。いかんいかんと思いながら、新書などをメインに買ってしまいます。

 鷲田先生は、晩年は読書を楽しみ給えと言われる。古本ならば谷崎潤一郎全集が9000円で買えるではないか、とも。少なくとも退屈はしないでしょうとわたくしも思います。

 だんだん鷲田先生にはまっていくようです。
 それもまた一興であります。


 また明日!

 
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クチやかましく

2010年09月01日 22時00分01秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 毎日同じような話題を繰り返しております。
 つまり「アツイ」ということであります。

 今日は午後から中学校にちょっと行っておりましたので、各中学校の快適さにまたまたびっくりして参りました。大規模校の中学校様でした。

 しかし、様変わりをしたものです。中学校の職員室に冷房が入っていたのです。これには驚きました。本校は無いからです。

 心頭滅却すれば火もまた涼し。
 
 こんな心境になりたいものですが、非常に困難でありましょう。普段、クチに出して言っていることと、実際その場に立ちあったら違ってくるのが普通なのかもしれません。誰でも他人には厳しく評論をし、自分には甘いからです。これはわたくしも当てはまります。反省しなくてはなりません。



 告知の問題をどう考えるか、おまえならどうだ?と問われています。ケアの学習で、です。いやぁ参りました。正直考えてもみませんでした。その場になってみなくてはわかりません。
 
 つまり他人事なのです。すべてが。教育もそういう他人事でとらえていると、真の意味でのケアができません。さりとて、どこてどう対処するかということもまた大事な問題であります。

 心身一如という言葉があります。東洋の視点から考えるものもあります。武道しかり。行動と心身の働きを一如ととらえて、両面の発展を願う。西洋はデカルトに代表されるごとく心身二元論であります。別だととらえるわけです。

 このことを扱っておられる大学者の湯浅泰雄先生の著書"身体論 東洋的心身論と現代 (講談社学術文庫)"がほしくて、インターネットで注文して、あっという間に次の日に自宅に届けられました。

 以来、あちこち読んでおります。すぐれた方であります。そして、そこになんらかの回答があるのではないかと思い始めました。

 告知の問題も含めてです。

 あまりにも大きな問題であります。とてもとてもわたくしごときの手に負える問題ではないのかもしれません。こういうのは、問いの連続になるのかもしれないと思うからであります。もしかしたら、解がないのではないかと思っています。まだわかりませんが。先生に問われて初めて自分の意識に上ってきただけで、逃げているのかと追い打ちをかけられそうです。安易なごまかしをすることなく、「問いと解」を自己に問うていきたいとこの暑い中を耐えているわけです。



 しかしながら、一言で解決策が授けられるほど世の中甘くはありません。そういう解決を考えていくとなると、これは若干危険です。ですから、幸福になる10の方法とかのノウハウ本は、実に危険きわまることになるとそれこそ体験的に思うのであります。確かに片言隻語に真理はあるのかもしれません。されど、真理は一つというのもわたくしは簡単に首肯できないと感じておるのであります。

 30日の始業式で、ちょっとだけ述べました。それは鎌倉時代の日本思想で、それこそエベレストのように険峻なる思想家の理解に苦しんでいると。10代後半からの本当にチャレンジでありました。以来ずっとやっています。しかし全く歯が立たない。そして、西洋哲学のハイデガーが深く関わっているということを知って、今更ながら数学や、物理の真摯なる世界を理解できていないことを後悔しているのであります。理数的な深い教養なくして現代哲学は理解できません。理数的教養をお持ちの先生方がこころの底からうらやましいのです。哲学書を読んでいても、論理的な記述に遭うといちいち立ち止まり、調べなくてはなりません。浅学非才とはよく言ったものであります。齢を重ねても、知らないこと、勉強しなくてはならないことが多すぎるのであります。だから浅学であり、非才なわけです。

 高校生時代というのは、誤解を恐れずに言うならばうぬぼれと、世間知らずと、愚昧が同居しているようなものです。

 ですから、簡単に成績が悪かったからと言って特定教科を捨ててはならないのです。教科の深い精神性を捨てることになるからです。もったいないではありませんか。せっかく保護者の方からのご援助で、衣食住の心配をせずに生きることができるのですから。ですから、すべてを学問に捧げ、体力養成をし、人物を磨くべきであります。自ら勉強することです。何度も言ってきましたが、英単語を覚えるのは自分です。NHKのテストの花道で勉強法を探るのもいい。しかし、方法論だけ学んでも、実際に行動しなくては、これは話になりません。覚えるのは自分です。どうか努力してください。

 もっともこれだけ言っても理解できないのかもしれません。
 
 それでもわたくしはクチやかましく申し上げたい。それがわたくしたち教師の宿命であると思うからであります。





 また明日!




  
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/