神や仏は我々人間の行動の中に、もしかしておられるのかもしれないと思っているけど
東日本大震災の思い出は実につらいものがある。
九十九里浜でも16名の方々が亡くなった。
思い出したくない記憶である。しかし、ボキはこの経験である宗教を棄教した。十字架の宗教である。あまりのことに、神も仏もあるものかと思ったからである。
その時のことはあまり書きたくない。今でも辛いからである。
まだボキは現役の仕事人であった。だからあらゆる手段を講じて学んでいる生徒たちと連絡をとれるようにした。その時に役に立ったのがTwitterであった。今では感謝している。生徒たちも、ボキが発信する情報をつぶさに見ていてくれた。アクセス数が異常に増加していたからである。
ボキは、学校に籠城していた。当たり前である。責任者としての当然の行為である。その時に関係者の励ましは非常にありがたかった。古い校舎でいつ倒壊するかという不安はあった。余震が凄かったからである。祈るしかなかった。まったくナニを今さらである。
しかし、無力だった。
被害は全国各地に広がっていった。
人智の及ばない災害であった。非常にクヤシイ体験であった。
生涯学習ごっこなんてやってきたけど、なんのチカラにもならなかった。
今日もそういう記憶を呼び覚まして、今後の生活にいかしていかなくちゃならないと思っていた。いろいろな映像dataを見て。Youtubeで探すといくらでも出てくるからである。
さらに、ボキの居住地にある図書館で「東日本大震災 7周年祈念 読み書き歌い語り継ぐ集い」という企画がある。午後2時30分からである。歩いて行ってこようと思っている。献花と紙芝居、土人形の報告、朗読の文芸賞「海へ」受賞作品よりという朗読会もある。最後にまた紙芝居がある。
こうした地元の方々の熱心な活動が人々を動かしている。
神も仏もないと慨嘆していたボキである。しかし、最近はそういう絶対者の代わりに、ボキのような庶民・凡人の地道な活動こそが世の中を動かしていくのではないのかと思うようになってきた。それがもしかして、神や仏の回答であったのかもしれないとも。神や仏は、人間自身の中に存在するのかも知れないからである。
宗教関係者には、なにをムチャクチャ書いているのだと叱られてしまうだろうけど。教養のないボキのことである。
許されよ!
ヾ(@⌒―⌒@)ノ