出勤直前に体操団体の金メダルが決まった。「加藤」と耳にすると、凌平君はほんとによかったけど、沢男さんを思い出してしまう世代にとって、やはりオリンピックというと体操だ。
娘を送ったあと、城北埼玉前セブンイレブンの駐車場で表彰式を観る。萩野選手の表彰式は見られなかったので今回初めて聞く「君が代」だった。テンポおそ。これが正式バージョンなのだろうか。ちょっとうちは演奏しきらないと思う。
しかしオリンピックが始まって三日で、もう何度泣いただろう(じじいかっ!)。
重量挙げの三宅選手といい、内村選手といい、メダルの背後にある人生そのものの重さ厚さが、年をとればとるほど見えてくるのだからしかたがない。
なんでもいいから俺等も出ようと、幼馴染みと中学のグランドにあつまり朝練をしていた夏は、モントリオールオリンピックだったかな。なんにも考えてなかったな(遠い目 … )。
そのころの4年は長かった。それが今は、もう4年経ったの? という感覚だ。
選手たちの感覚はどちらがわなのだろう。
4年準備して、生活のすべてをオリンピックにために費やして、本番の日、もしくはほんの数時間体調がおかしくなっただけで、または一瞬気の迷いがあっただけで、実力を発揮できずにおわる。
むしろそれが普通という感覚でいないといけないのだろう。
それが普通だから、もっとやるという感覚。本人のなかでは失敗でも、他人から見れば成功に見えるレベルに達するほどの努力を積むのだろう。
われわれ凡人は、コンクールでも、試験でも、「本番だけ失敗しちゃって」みたいなことを口走ったりするけど、そんな次元でとらえる人が世界の頂点に立つことはない。もちろん推測でしかないが。
インタビューする方々はせめて、それくらいの推測はして声をかけてあげてほしいなあ。
「今のお気持ちは?」しか言えないのは、小学生の学級新聞レベルだ。
喜びの言葉を口にしながら、心から喜びをかみしめながら、同時に自分たちの演技がパーフェクトではないと感じている内村選手の話を聞きながらそう思った。
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