龍樹は哲学・論理学者でなく、宗教者であるから、その目的は、何かを論証することではなく、人々に救いをもたらすこと。
すなわち、菩薩道の”抜苦与楽”であり、それをもたらしたので、龍樹”菩薩”と言われている。
その彼が言いたいことを私の「心の多重過程モデル」※で代弁すると、
大切なのは、空という概念についてあれこれ考えることではなく、言語的思考すなわちシステム2そのものへの執着を離れることにある。
※心の多重過程モデル:”心”を以下のサブシステムからなる高次システムとみなす私のモデル
既存の「二重過程モデル」(システム1・2)を上下に拡張したもの。
システム0:覚醒/睡眠・情動など生理的に反応する活動。生きている間作動し続ける。
システム1:条件づけなどによる直感(無自覚)的反応。身体運動時に作動。通常の”心”はここから。
システム2:思考・表象による意識活動。通常の”心”はここまで。
システム3:非日常的な超意識・メタ認知・瞑想(マインドフルネス)。一定の努力で体験可能ながら、体験せずに終る人が多い。
システム2とは言語的思考を中心に、空想、自我などの人類固有の心的部分である。
この能力で人類は文化を生み、文明を発達させてきた。
だがそれと同時に、システム2は人間の心を支配し、固有の苦しみを与えてしまった。
心理学における既存の「二重過程モデル」がそうであるように、人々はシステム2が人間の最高位の心であると思い込まされている(例えば分析哲学)。
初期の仏教は、人間を苦しめている原因として”渇愛”、すなわち動物的本能に由来する欲望(システム0-1)に重点を置いていたが、大乗仏教になると、人類固有の言語的思考や自我というシステム2による観念の自縄自縛こそが人間(だけ)を苦しめていることに注目する。
人間は知覚した対象(色:しき)に対して束縛される(システム1)だけでなく、実在しない空想的対象(例えば”神”)に対しても束縛される(システム2)。
仏教は、理性の場としてのシステム2を脳天気に礼賛するのではなく、人類固有の新たな苦の源泉として認識し、その超越を志す。
ではシステム2を否定してどこに行きたいのか。
既存の二重過程モデルだと、システム2を否定すると行き先はシステム1という(直感と思いつきだけの)無思考過程への退行しかない。
仏教は、システム2より高次過程としてのシステム3、すなわち瞑想という脱言語思考の行を提案する。
システム3は、それまで心の主体とされてきたシステム2を観照するメタ意識である。
なので、「空」をシステム2の言語思考で”語る”ことは無意味な営為でしかない。
システム2の想念こそが空だから※。
※:般若心経での「色即是空」どころか「五蘊皆空!」。五蘊=色・受・想・行・識。
必要なのは、瞑想によってシステム3を作動させ、システム2中心の心から離れて、
言語思考とその主機能である自我を対象化するという体験(行)だ。
それによって、自己はシステム2の自我から離れて、システム3に移動する(自我=自己でなくなる)。
ただしシステム3の自己は観照の単機能であり、自己(自我)としての内実(性格、記憶、アイデンティティ等)を持たない(空である)。
言い換えると、自己を実体視したがるのが自我(システム2)である。
われわれ人類は、システム0(生命体)からシステム1へ(動物化)、システム1からシステム2へ(サピエンス化)、そしてシステム2からシステム3へと自己超越できる存在だ、と示しているのが仏教である。
そして心の多重過程モデルも、自我を心の1機能とし、そして”無意識”を含めて実体視をしない。
後年のマズローも主張しているように、われわれの生きる目標は「自己実現」※でなはなく、「自己超越」にある。
※:マズローについて「自己実現」で終えてしまうのは、中途半端。
それは心の下位過程への執着(束縛)から脱して、より高次過程を志向することにほかならない。
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