今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

温泉はなぜ気持ちいいのか2:心理効果

2014年06月23日 | 温泉

前述した入湯による物理的効果は、水を沸かしただけの白湯でも可能であり、温泉に限るものではない。
でも温泉には家の風呂や銭湯以上の何かがあるからこそ、われわれは多大な時間と出費を厭わずに訪れているはず。
それは何か。

そもそも、白濁した硫黄泉ならまだしも、アルカリ単純泉や放射能泉のような無色無臭無味の温泉と単なる水を暖めただけの白湯との区別はわれわれにできるのか。
さらに温泉には濃度の差があり、水温が25℃以上あれば、成分がほとんどなくても「単純泉」と名乗れる(特定の効能を謳う療養泉とは名乗れないが、客はこの区別をどれほど気にするか。ちなみに下呂など多くの名湯は単純泉だったりする)。

入湯して温泉の成分を実感できる訳ではない。
実際温泉の効能といっても、そのほとんどは皮膚の洗浄効果と筋肉の弛緩効果であって、それらが白湯よりも若干優れている程度だ(スパ施設の方が弛緩効果は強いかも)。

ということは、実際にわれわれに温泉であることを感じさせるのは、湯の成分ではなく、浴槽周辺のたたずまいなのではないか。
そもそもわれわれが温泉をありがたがるのは、それが人工の沸かし湯ではない、自然エネルギーの産物であるためだ。
内湯より露天が好まれるのも、それが野山に湧出している温泉本来の姿を摸しているためでもあろう
(その他に視覚的・呼吸的な解放感、低い気温によるのぼせ防止効果=長湯可能も期待)。
自然の風景を堪能しながらの入浴、岩風呂あるいは檜の浴槽の触感、これらも温泉ならではの感覚的快である。

温泉に入るとは、日常から脱して特別な自然の恩恵の中に身を沈めることである(この転地効果は気分をリフレッシュさせる)。
ここに”ありがたみ”を感じる。
温泉とは自然からの付加価値そのものだ。

温泉の非日常性は、転地効果だけでなく、宿のそして温泉街が醸成する歓楽的快への道も開いた。
たがこれらの魅力が強くなると、湯治が目的でなくなるため、理屈上は湯が温泉である必要もなくなる。
といっても熱海などの温泉街こそが歓楽的になったのは、「湯治」という名目で出発できるためであり、名目として温泉である必要があったためだ。

そこで最後の問題。

白湯の旅宿と温泉宿の違いは何か。

温泉であることそのものがやっと問題になる。
だが、最初に記したように、無色無臭無味の温泉や成分が薄い単純泉は、化学分析をしない限り白湯と区別できない。
なので、温泉であることは、そう宣伝されてはじめて理解される。
温泉であると認識すること、そうなってはじめてわれわれの心に価値が発生する。

温泉の実際の効能は、最低一週間は湯治をしないと現れないというから(経験則としても研究としても)、
現代人の1-2泊程度の温泉旅では、効能は期待できない。

それでも温泉好きは白湯の宿より温泉宿を選ぶ。
実質的な効能は期待できないが、
演出された付加価値を堪能して、心なしか”効いた”気になれる。
自己暗示的プラシーボ効果への期待なのだ。

われわれは、薄いアルカリ単純泉でしかも残留塩素の多い日帰り温泉でも、「温泉に入った」と満足できる。

さらには私自身、温泉でなくても、○○石や木炭が浴槽に入っているだけで準温泉とみなして温泉と同じく日に4度入る。
要するに、白湯でなければいいのだ。
白湯でない「ありがたみ」の付加価値をもった湯、それが心理的には”温泉”なのだ
(この「ありがたみ」効果は、分杭峠や茶臼山などのパワースポットやご利益のある寺社と共通)。

温泉の快感は、体感的には白湯でも実現可能であることがわかった。
ただ白湯では絶対実現できないのが「ありがたみ」という気分的な快感。
この快感をもたらすのは、人工的な演出と「温泉である」という情報(たとえば脱衣場に掲示されている分析書)。

そしてその「ありがたみ」があるからこそ、白湯では考えられない多くの回数入湯する。
その結果、白湯でも同じ水圧効果と温熱効果をふんだんに受け、入湯の瞬間の至福感と湯上がり後のさっぱり感を幾度も味わう。

結果的に、温泉であることで、われわれは身体的効能と快感を、自らの行動の変化によって増すことになる。

温泉はなぜ気持ちいいのか3:エピローグ