今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

ユーザーイリュージョン:意識という幻想

2021年09月11日 | 作品・作家評

最新の科学をきちんと解説してくれる科学ジャーナリストは貴重な存在で、この『ユーザーイリュージョン』の著者トール・ノーレットランダーシュはデンマーク人ながら、国際的な活躍をしているようだ(デンマークというとヨーロッパでもマイナーな印象だが、実存哲学者キルケゴールを輩出し、量子力学の中心地にもなっている)
和訳(柴田裕之訳、紀伊国屋書店)で500ページを超えるこの本は、電磁気学のマクスウェルから始まり、情報理論のシャノン、数学者のゲーデル、そして脳内の0.5秒の遅れを明らかにしたリベット、あるいはこのブログでも紹介した意識は3000年前に発生した説(→その記事)のジェインズの研究を紹介している(ジェインズの説を補強するものとして、ヨーロッパでは西暦500-1050年の間も意識は消滅したという説が紹介されている。これがいわゆる”中世の暗黒時代”)。

論点は多彩ながら、メインは、我々が自分自身だと思っている意識(自我=私)が、いかに「自分」の上澄み部分でしかないかを(フロイトやユングと異なり)科学的に説いている。

最も分かりやすいのは、意識の情報量と感覚の情報量の比較の箇所。
意識というのは、注意集中という情報の選択(=捨象)を伴うものであるから、感覚より処理する情報量が少ないのは当然だが、bit換算すると視覚情報においては百万分の1にすぎないという(他の感覚相ではそれほどではない)。
われわれが絵画や映画を幾度観ても見飽きないのは、意識が一度に処理できる情報量があまりに少ないためである(観るたびに発見がある)。
逆にテキストは一読で情報が100%伝わるので、繰り返し読む必要がない。

著書は1997年発行なので、21世紀の「二重過程モデル」以前、ましてや私の多重過程モデル以前なので、意識とそれ以外(補集合)という二元論的発想段階ゆえ、多重過程モデルから見ると「それ以外」が未整理(システム0,1,3が混在)だが、二重過程モデルでのシステム1とシステム2に置き換えると、システム1の情報量はシステム2の情報量の100万倍ということになる。

要するに、心を構成している2つのシステムがあるのに、システム2だけに依存していることがいかに非効率的かということだ。
たとえば「意識による管理がないときに、最高の頭脳労働がなされることがある」、「人生は意識していない時のほうがずっと楽しい」という。

ちなみに、表題の「ユーザーイリュージョン」とは、「パソコン」のコンセプト(パソコンは計算機ではなく、パーソナルでマルチなメディア)の提唱者アラン・ケイ(マーシャル・マクルーハンのメディア観をスティーブ・ジョブズに伝えた仲介者)の用語で、本来は複雑なブログラム(マシン語)で動くコンピュータをユーザーにはそれを意識させずに、日常的な発想(たとえばファイルやフォルダーなどの文具)で反応するマシンと思わせる仕組みのこと(それを製品として最初に実現したのがApple社のMacintosh。私がマカーであり続けているのも、アラン・ケイの「パソコン」コンセプトに共感しているから。ビル・ゲイツにはこういう哲学もジョブズのような美意識もなかった)
著者は、意識そのものも、感覚経験のほんの一部を概念的に解釈しているという意味で、ユーザーイリュージョンにすぎないという。
ちなみに、ユーザーもイリュージョンもない状態が「瞑想」だという(これは多重過程モデルでは「システム3」として明確に位置づけている)

著者は、意識がいかにわれわれから世界を切り離し、自己疎外をもたらしているかを説き、意識を自己と同一視している(3000年来の)現代人の在り方に警鐘を鳴らしている。

だがこの問題(意識の幻想性)は、すでに2000年前の大乗仏教で指摘されていることで、だから仏教はシステム2に依存しないためにシステム3(瞑想)を主たる行としている。
私の多重過程モデルでも、ここでいう意識(システム2)は、システム0〜システム4の中の1つ(心のほんの一部)にすぎないという相対化がベースとなっている。

だが未(いま)だに意識を自己(私)と同一視している人は多いだろうから、この本の存在価値は衰えていない。
なにより、意識現象を脳科学の世界に閉じこめず、情報理論や数学(非線形数学、カオス理論など)で論じることで、科学一般の現象として扱っている視点がいい(先に紹介した自由エネルギー原理もそれに該当する)。