心理学の知識は、メンタルヘルスなどには役立つが、残念ながら”人格の陶冶”には向かない。
人間の完成を目指すには、参考になるべき人類の知恵といえる書物がたくさんある。
その代表は東洋では『論語』だが、それと並んで江戸〜昭和の日本人に影響を与えたのが『菜根譚』だという。
本書(『菜根譚コンプリート』野中根太郎訳・解説 誠文堂新光社)の前書きによると、著者である洪自誠は明末の人で(徳川家康と同世代)、まず中国で刊行され、それが日本に伝わって加賀藩の儒者・林蓀坡によって復刻版が広められ、結局、地元中国よりも日本人の精神性に深い影響を与えたらしい(菜根譚の愛読者:新渡戸稲造、五島慶太、田中角栄、野村克也など)。
著者・洪自誠は、儒家を任じているが、道教(老荘の教え)と仏教(特に禅)の視点にも立って、東洋の知恵をバランスよく配置している。
このバランス感覚は、ややもすると常識的な適応主義に見えてしまうが、威勢のいい極論に走らず、また高尚すぎて実践困難な理想主義でもない、等身大の行動指南を与えてくれる。
まず感心したのは、すでに500年前からパワハラを諌めていること。
「厳に難からずして悪(にく)まざるに難し」(厳しい態度で接するのは易しいが、人格を否定するのは難しい)、とパワハラ・モラハラになりがちな事は認めている。
だからこそ、慎まねばならない。
どうすればいいか。
「人の悪を攻むるは、はなはだ厳なることなかれ、その受くるに堪えんことを思うを要す」(人の悪を責めるときは、厳しすぎてはいけない。相手が受け容れられる程度を考えよ),ということである。
パワハラが日常化していた昨今の日本を見ると、本書の教えは庶民の間には浸透していなかった事を痛感する。
それから共感したのは、突き詰めない、満ち足りた状態を目指さないという態度。
「花は半開を看、酒は微酔に飲む」と、楽しみに溺れない(満開の桜の下で大酒飲んでどんちゃん騒ぎをしない)。
これは小笠原流礼法における「残心」に通じる(まだ居たいという心が残っているうちに訪問先を辞去するのがよい=まだ居てほしいと家人が思っているうちに客は帰るのがよい=互いに名残惜しい気持ちを残して別れるのがよい)。
まずは節度を守るわけだが、かといって節度を守ることを自己目的化しない(「操守は厳明を要して、しかも激烈なるべからず」)。
もちろん禁欲を勧めいてるわけではなく、
「欲にしたがうも是れ苦、欲を断つも亦た是れ苦なり」と、そのどちらにも傾かない釈尊の”中道”を紹介している。
基本は精神の自由を謳歌し、「家庭に個の真仏有り、日用に種の真道有り」(家庭に一個の仏がおられ、日常に一種の道がある)と、俗世間の中に道(タオ)を見出し、隠遁主義・超俗主義の自己満足性を批判する。
それでいて「安きに居りて危うきを思う」と、日頃の防災の心得もできている。
人格の陶冶を目指すのはいいが、高尚さが出過ぎるのもよくないという。
さすがバランス感覚。
「行誼は宜しく過ぎて高かるべからず」とあり、行誼を行儀と読むと、礼法の話になる。
小笠原流礼法の教えに「躾とて、目に立つならばそれも不躾」とあり、正しいからといって作法通りの所作をこれ見よがしに示すのは、場の雰囲気を壊し人に違和感を与えるという理由で、高次の不作法とされる。
正しい作法は、”作法が見えて”はいけないのだ。
あと自分の心に響いたのは、「水木落ちて石痩せ崕(がけ)枯れて、わずかに天地の真吾を見る」ということば。
茶の湯の祖・珠光の美意識「冷凍寂枯」は、利休的な「和敬静寂」に比べて理解しにくいものだが(わが小笠原流の茶は珠光直系)、
このことばによって、花も葉も落ちた冬枯れのその姿こそ、余分なものをすべて削ぎ落とした真実の姿であり、一見最も美から遠いそこにこそ美を見出せ、ということだとわかる。
本書のような箴言集は一気に読み進めるべきものではなく、
日めくりカレンダーのように、一日一文ずつじっくり"噛みしめて味わう"のがいい(なので”菜根”譚)。
ただし、原文(漢文)の書き下しだけでは、現代日本と表現が異なるため、意味が通りにくい。
本書のような、用語解説と現代語訳が必要。