話が前後して申し訳ないが、仏教における神話的要素をドライに排除する根拠を示したい。
仏教を宗教としてではなく、存在論的苦の解決法という実践的”理論”とみなしたいのだ。
絶対的境地からの”教え"(預言)ではなく、学術研究者が構築する理論の1つとみなすことで、聖典や開祖(提唱者)を絶対視する原理主義的固定化が免れ、むしろその限界を乗り越え、発展(精密化、応用化)することが積極的に推奨される。
すなわち釈尊は、ニュートンやフロイトと同じく壮大な”理論”の提唱者という位置づけ(体現者でもある)。
学術理論は常に批判的に再構築されるべきものなので、仏教理論も、前科学的認識に基づく不正確な部分は改め、さらにより説明力の高いものに洗練させて然るべき。
例えば、説一切有部の「アビダルマ」(≒倶舎論)はまさにそれまでの理論統合の成果だし、大乗仏教を切り開いたナーガールジュナ(龍樹)は、その理論をさらに精緻化し発展させたといえる。
すなわち釈尊オリジナルの教え(仏説)から遠のくこと自体がダメなのではない(なので「大乗非仏説」は大乗仏教を否定する根拠とならない。大乗経典が「仏説」と偽っている部分は削除したい)。
批判の対象となるのは、教えに潜む神話的要素である。
神話(物語・作り話)的要素は、事実という観点からは退歩であり、妄想化への逸脱といえるから(比喩としての物語は事実でないにしろ”真実”を語ることはできるが、多くの人は物語の非事実部分を事実として信じてしまう)。
特に大乗仏教は神話的要素に満ちている。
これら神話的要素を取り除いて、残った部分こそが真に価値ある理論の柱といえる。
仏教の柱は神話的要素にあるのではない(「天地創造」や「復活」を柱としている他の宗教とここが違う)。
仏教の真の価値を抽出すべく、内在する神話的要素を批判し除外して、現代に通用するまともな理論として再構築してみたい(この態度に一番近いのは禅だと思う)。