高校時代から宗教とりわけ仏教に親しんできた私だが、宗教では一般に「教祖の教えに準拠すべき」という原理主義が最も説得力があるため、自分も自然にその立場となり、日本に広まっている大乗仏教は釈尊の直接の教えから乖離したもの(大乗仏典に登場する釈尊はすべてフィクション)として、しばらく価値を見出せないでいた(さらにより純粋(素朴)な宗教形態を示している神道の方に関心を移した)。
ところが、(他宗教における)宗教原理主義のアナクロニズム(戯画)性を目の当たりにし、また真理を追究するために常に前説を乗り越えて進化する科学に身を置いている(つもりの)者として、宗教自体も積極的に進化する必要があるという反原理主義に移行する事になり、大乗仏教も仏教の進化形として受け入れられるようになった。
むしろ、その大乗仏教もそろそろ新しい進化の段階に達していいのではないかと思う昨今、仏教の当事者としてそれを試みているのが、藤田一照・山下良道の両氏で、『アップデートする仏教』(幻冬舎)の続編にあたる『〈仏教 3.0〉を哲学する』(春秋社)は、この二氏に哲学者の永井均氏を加えた(朝日カルチャーセンターでの)鼎談の書籍化である(以下、本書)。
そもそも、仏教を含めた宗教は、”信じること”(信仰)を求める。
何を信じるのか。
その宗教固有の物語(フィクション)である。
アップデートは、皮肉的に言えば物語の書き換えにすぎないかもしれないが、少なくとも現代の知性に適うレベルに上げてほしい(仏教はキリスト教やイスラム教と違って現代科学と齟齬がなく、その意味でも現代化できる)。
一方、哲学は既存の自明視された知を”疑うこと”を実践する知的営為である。
なので仏教がアップデートするために必要なのは哲学の実践である。
仏教が真にアップデートを試みるなら、信じていた物語そのものを疑うことから始めなくてはならない。
二人の仏教者は、仏教の基本命題である「諸法無我」にずっと違和感をもっていて(普通の仏僧だったら、さもわかっているような顔をしてこれを説く)、これは哲学者の永井氏からみれば幼稚な言説にすぎないという(他の基本命題「諸行無常」は「そんなの当たり前じゃん」で終わる)。
本書で問題となるのは、諸法無我の我(自我)である。
「比類無き私」を問題にしてきた永井氏と、瞑想で無我の境地に達している二人の仏僧の計三人は、いずれも「私であること」の二重性に気づいている。
ただその話を、聴衆や読者は、自分の”私”の問題としてどこまで理解できただろうか。
なぜなら、通常はその二重性は気づかれない(一体の)状態として、同一視されているから。
その二重性は本書では、「私」と〈私〉を皮切りに、以下のように多様に表現されている。
「私」:本質、中身、有心、雲、映画(物語的)
〈私〉:実存、存在、無心、青空、気づき(マインドフルネス)
哲学者なら論理的に説明できることでも、読者にとっては実体験を伴わない論理はまさに物語と同じで、単なる”お話し”でしかない。
また瞑想でしかそれを経験できないなら(永井氏も瞑想者)、瞑想でそこまで達していない人には、やはり実感を伴った理解ができない。
これがこの本の限界といえるが、少なくともその二重性を主題にして、それを仏教のアップデートのキーワードとしていること=限界にまで達していることは画期的といえる。
なぜならこの問題こそが、これまでの仏教1.0(日本の伝統的葬式仏教)および2.0(マインドフルネスで人気のテーラワーダ仏教)でもウヤムヤにされてきたから。
その限界性をあえて指摘すると、本書には心理学・精神医学、すなわち”心の科学”の視点がない(哲学が扱う心はおおざっぱすぎる)。
それがこの二重性についての理論的・経験的説明の不足をもたらしている。
鼎談のメンバーにその説明可能者が思いつかなかったのは仕方がないが、
2022年の現在なら、私が「心の多重過程モデル」の視点でこの問題を心の構造からもっとすっきり記述できる。
とりあえずその視点で本書の議論の限界を指摘してみる。
本書では哲学的な議論は進んでいるが、いまだ前提としているものがある。
たとえば〈私〉・「私」の二元論(同一視していた段階よりは進んだ)。
では、自己はこの2つのどちらかに分属されねばならないのか。
多重過程モデルでいえば、上の二元論・二重性はあくまでシステム2内の問題であって、これにシステム0の「内界」・システム1の「主体」などの次元を異にする”自己”現象との階層的関係の方が根源的問題である。
実は二重性の問題は、すでに(私以前に)学的に言及されている。
上の対比にフッサール、安永浩、私の概念を照合させると下のようになる(特に安永の概念が重要)。
「私」:経験的自我、極自我(思考・行動主体)、システム2
〈私〉:超越論的主観性、現象学的自極(主観点)、システム3
本書で話題となった「無心か有心か」という問題も、”心”を単一とみなすと、無と有は両立できない矛盾となるが、心は多重過程からなるとみなせば、無心と有心の対象とする”心”の過程(サブシステム)がそれぞれ異なることで矛盾でなくなる(もちろん有心=システム2、無心=システム3)。
私が他の記事で書いたように、形式論理性を確信犯的に無視した大乗仏典の”論理”も、心を多重過程とみなすことで矛盾でなくなり、仏典の論理の言いたい事が見えてくる。
一方で私が膝を打ったのは、「あとがき」で山下氏が心理療法(認知行動療法)としてのマインドフルネスの限界を指摘していること。
瞑想が、世間的適応を目標とするメンタルヘルスの単なる技法になることは、瞑想本来の目的と違って、世俗的価値の枠内に人間の心をとどめさせることになる。
心理学徒の私がシステム2(既存の「二重過程モデル」)を超えたシステム3(テーラワーダ仏教段階)を見出した後、そこで終らずにその次のシステム4(大乗仏教段階)を志向し、科学的心理学の枠(限界)を破ってあえてトランスパーソナルの世界に向かったのも、そのためである。
言い換えれば、マインドフルネスは世俗的価値と宗教的価値の接点であり境界でもある。
超個的な慈悲を根源的態度とする宗教的マインドフルネスこそ、人類の心をアップデートする方向性としての意義をもっている。
それが仏教3.0の進むべき道だということが山下氏にとっての本書での結論となっている。
その意味では本書に(システム2までの視野しなかい)心理学者は不要だった。
これこそ私が期待した仏教の進化であり、人類の心の進化の方向性である。
ただし、本書の主題である「私であること」の二重性は、本書のまま(アップデート以前)では心理学的説明になっておらず(哲学的・宗教的な抽象レベルのまま)、また私の「心の多重過程モデル」のミソでもあるため、本書とは別の心理学的説明を稿を改めてしてみたい。
→"私”の二重性の心理学1:病理現象として