公益財団法人たばこ総合研究センター発行の『談』は、現在の日本ではすこぶる貴重な知的刺激のある雑誌で(不肖私も104号に掲載)、最新号(131号)のテーマが大乗仏教のキーワード「空」(くう)。
それを読んで、おおいにインスパイアされたので、この難解な「空」について私なりの理解を加えていきたい。
私のことだから、当然「心の多重過程モデル」におけるシステム2(言語思考的心)の超克として語るのだが、その前に、この空を論理的に語った龍樹(ナーガールジュナ)のその論理を説明する。
龍樹は、「である」と「でない」(であるの否定)という1次元の論理を超克、すなわち多次元化したといえる。
概念に基づく言語思考(論理)に本来的に付随する二元論バイアスへの気づきと離脱のためである。
この本来的二元論はデジタル(0と1)化に相当するので、その表現を用いる。
今、概念Aに対する真偽判定の述定可能な最大限の命題数は0と1の1ビット(情報量単位)が組合された2ビット、すなわち2^2=4通り存在しうる(nビット=2のn乗)。
それらを説明していく。
①Aであり、非A でない(1,0)
これは二価論理の対立が整合している命題で、論理的にまったく問題ない。
A=生、非A=滅と、対立概念で置き換えると、「生であり滅でない」となり、これが真とされるのが仏教で「定見」(じょうけん)とされる生を実体化(霊魂不滅)する見解である。
②Aではなく、非Aである(0,1)
これも二価論理の対立が整合している命題で、まったく問題ない。
ただし述定内容は①とは正反対で、「生でなく滅である」となり、滅を実体化する「断見」の見解である。
ちなみに、常識で理解できる古典論理学だとAが真ならば必然的に非Aは偽となるので、Aについてのみの1ビットの簡略な命題で済む(非Aについては裏命題で自動的に真偽が決まるので省略可)※。
※:例えば法律の世界では義務または違法の命題(法文)が示されれば、その裏命題はその逆の違法または適法となる(裏命題有効の原則)。すなわち違法でないという意味での”適法”は法律では常に裏命題で含意されるのみで明文化されない。ただし、厳密な数学的論理学においては、この原則は通用されず、原命題が真の時自動的に真となるのは対偶命題だけで、裏命題は”必ずしも真でない”という意味で偽とされる。日常の論理と厳密な論理の相違点がここにある。
釈尊自身、①②をともに臆見(ドクサ)として退けている。
すなわち、仏教は最初から、論理的に整合して世間に流布(他の宗教も採用)しているこれらの見解(両端の二元論)を採用しない。
ということは、残りの可能な2つの命題に仏教が答えを見出しているようだ。
③Aであり、非Aである(1,1)
ここから二価論理(二元対立)自体が否定された超越次元になる。
ここでは、二元の”対立”が否定されている。
対立の否定(無効)すなわち両立となっている。
差異の否定(一元論)であり、融通無礙である。
「生であり滅である」となり、これを並列ではなく連続とすれば「生じるから滅する」という縁起的無常観となり、あるいは「煩悩即菩提」のように一見対立するものが同根であるという、華厳あるいは密教的見解に通じる。
④Aでなく、非Aでもない(0,0)
龍樹が採用しているのはこの命題である。
これも二価論理自体が否定された超越次元である。
ここでは”二元”の存在が否定されている分、③よりも否定度が強い。
③の両立を否定(不両立)しているから。
それが意味するのは、事象の否定すなわち無事象=無自性である。
「生ではなく滅でない」、縁起的に表現すれば「生でないから滅しない」、すなわち滅の前提が不成立となり、不生不滅となる(龍樹の”八不”の1つで、般若心経にもある)。
生滅(有無)を論じることを否定している=有無の論理は無効ということ。
すなわち二元論の一元化に向わず(不一不二)、むしろ述定そのものを拒否する方向である。
以上のように情報理論的に整理すれば、龍樹の論理もその位置づけが明確となる。
では④から導かれる「有でも無でもない」という空はどのような内容なのか。
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