著作的には、『存在と時間』から(正法眼蔵)の『有時』(うじ)へ。
もちろんハイデガーの思想はこの書の後も進展しているし、道元の思想もこの巻に尽きるのではない。
ハイデガーを読解するだけでも苦労するのに、さらに道元という苦労を背負い込むことになる。
なぜなら、ハイデガーだけでは足りないから。
この世を生きる現存在の基礎的存在論の後に続く、より先の方向性が欲しいから。
なら、道元だけではどうなのか。
道元の書(正法眼蔵)は弟子に対して書かれたので、仏道修行者が前提されている。
なので凡夫がただ表面的に読んでも、高踏的な教説として頭の上を通り過ぎてしまう。
衆生(凡夫)が陥っている状態を明確に自覚し、そこを出発点にしたい。
すなわち、”世人”(私でない人一般)として頽落(たいらく)している(非本来的様態の)現存在(=私)は、いかに時を生きればいいのか、
「いかに生きればいいのか」という問いに対する回答を、特定の行為に帰すのではなく、「時を生きる」という基本的在り方として確立したいから。
先走って示すと、ハイデガーが示唆した「本来的」ということが、道元の示す「悟り」に繋がるのではないか。
なぜなら、人は本来(可能性として)悟れる存在で、悟り続けることこそが、存在を自覚している稀有な存在者たる現存在の本来的な在り方なのではないか、と思うから(仏道修行者が前提)。
その悟りとは、”存在”(在ること)に対する認識(思い込み・臆見)の変様を意味する。
ご承知の通り、仏教は(ハイデガーが及びつかないような)ラディカルな存在論(縁起-無自性-空)を擁している。
その悟り(存在の新たな認識)によって、現存在として時を生きる在り方(=存在の仕方)が変われるのではないか。
「時を生きる」という点に即していえば、死という絶望(将来の途絶)を終点として生きるのではなく、死を超えた先(永遠の将来)を目指して生きたい。
死を現存在の衰弱の果てとして迎えるのではなく、向上(変様)の果てとして迎えたい。
これは(世間に適応するために)世人として生かざるを得ない様態からやっと解放される(定年の)時機に達するが故に、実行可能となる課題だ。
ただし『有時』の前に道元の存在論である『現成公案』の巻と格闘する必要がある。
さらに長期的には、道元で終わらずに、私の「心の多重過程モデル」で説明したい(既存の心理学モデルは存在者レベルに留まっていて、存在レベルに達していない)。
ハイデガーは哲学者としてシステム2(思惟)の極限に達した。
道元は仏道行者としてシステム3(メタ思惟)に達した。
この境地の違いを私の心理学モデルで説明したい。