本記事は、全国の山根さん以外は興味をもてない内容なのをご了承ください。
さて、わが名字たる「山根」は、幕末維新の頃は長州の萩に居たが、さらに遡れば山陰が出である。
それについては、学生時代、わが家の伝承や父が購入した『山根一族』( )を参考に民俗学の授業レポートを書いたことがある。
山根と名乗る前を遡ると、すなわち山根の元は、「湯氏」であったという。
湯(ユ)というストレートな名は、その名字の地に温泉を連想させる。
その地が、そう、われわれが一泊目に泊まった、玉造(タマツクリ)温泉なのだ。
玉造温泉は、古代からの温泉で、出雲第一の名湯。
中世、ここを本拠地にした豪族がその名も湯氏。
湯氏の居城(玉造要害山城)は、玉作湯神社の奥の”湯山”(源泉の山)にあるので、名実ともに玉造の湯を支配していたことがわかる。
さっそく玉作湯神社に詣でた(写真)。
この神社、「縁結び」の神社として有名らしく、参拝者は若い(もしくはそれより年長の)女性が中心。
そもそも玉造温泉街自体、若い女の子の泊まり客が多い。
まず泉質に美肌効果があり、神社に縁結びの御利益を結びつけたのが奏効しているようだ。
参拝記念に、神社のお札を買おうと社務所を訪れたら、もう条件反射になっているのだろう、みんなが買っていく「願い石」の説明をされた。
女性らに混じって私一人が境内にうろついていては(同行者は宿に残した)、
ステキなご縁を願った乙女が瞼を開いて最初に目が合った男が私となってしまい、
御利益を大いに損ねては申し訳ないので、
華やいだ神社を早々に後にし、脇の指導標に従って、一人要害城を目ざす。
左右の竹があまりに丈夫なため、もともと少ない踏跡が不確かになってくる(実際、帰りは迷った)。
竹やぶの上のかすかな踏跡をたどって、斜面を登っていくと、「一の平」という頂上部に出る。
そこの看板地図(写真)を見ると、なんと「伝佐度守古墓」が離れた所(図の右下)にあるらしい。
湯判官佐度守(家綱)といえば、湯氏の中でも存在が確かで文書にも載っている人で、山根兵庫助と名乗ったともいわれる(史実なら、初代山根!)。
竹林で方向も距離もよく分らないので、あきらめかけたが、
竹にその指示板が打ち付けてあった。もう行くしかない。
それに従って降りて登って空堀を過ぎると、小さな苔むした石の祠が1つ稜線上に鎮座していた(写真)。
これだ!
400年の時を経て、わが先祖と対面することができた。
ここに来た甲斐があった。
湯氏は南北朝から戦国時代まで、この地にいて、尼子の家臣となったが、尼子滅亡を受けて、離散したらしい。そしてうちの先祖は毛利に服属し、萩の方に移ったらしい。
写真を撮るため、腰を下ろすと、山に登ってきたので息がはずんでいるせいだろう、
あたりの竹やぶからヤブ蚊がどっと押し寄せ、自分の服が蚊だらけになる。
その数たるや、ふつうの林では体験できない(ここが代々木公園でなくて助かった)。
そのため長居ができなかったのが悔やまれる(蚊のいない季節がお勧め)。
さて、われわれ一行は玉造温泉を後にし、道路標識に従い「大東町 16km」に向う。
信号がほとんどない道路を快走し、今では雲南市に入る大東町に達する。
ここあたりは出雲平野と中国山地の境で、まさに山の根にふさわしい。
ネット情報によると、山根氏は、ここ大東町の佐世荘の山根という地名から始まったとある。
上のサイトにはその典拠が載っていないが、佐々木系図によれば、佐世氏(湯氏の遠縁)の佐世清信の孫長清が山根と名乗ったという。
なのでここ佐世を山根発祥の地と比定したい。
といっても父には湯氏が元だと聞かされ、また『山根一族』によると湯佐度守家綱の子が関ヶ原の後、「湯氏の本城である温泉城の南麓なる古戦場に移し,地形に因みて山根と称する」とある。
ただ玉造には古戦場はなく、玉造から南西にあるここ大東町には戦国時代の古戦場(尼子氏vs.大内氏)もあるので、やはり佐世あたりになりそう。
地図によると、佐世(下佐世、上佐世)は大東町の中心部から外れた農村のよう。
下佐世に郵便局があるので、そこに行って「山根」という古い地名について尋ねようとしたら、土曜で閉局だった。
近くにいた工事作業員のおじさんに、上の質問をしてみたが、わからないという。
上佐世の小学校の向かいに地域交流センター(合併前の公民館)があり、開いていたので入ってみたが、誰もいない。
そこの書棚には「大東町誌」があり、それを旅行前に読んでくる予定だったのを思い出した(旅から帰って読んだ→後日譚)。
近所の住民の氏名が載った看板(住宅地図のようなもの)があったが、「山根」さんは一人もいない。
山根発祥の地であって、山根さんたちはここから出ていって、東西に散らばったのだろう。
ここに来たもう一つの目的は、登山をやっていた者の関心として、ここの山根は何ていう山の根なのか、すなわち山根の”山”を確認することであった。
地図では佐世の南西にある「(御)室山」に当りをつけたが、実際には目立った”山”という感じではなく、むしろ特定の山というより漠然とまわりの低山に囲まれた地という感じで、
山根の名にふさわしいのんびりした所だ(写真:右側の山が室山)。
あえて車から降り、足で歩いて、空気を吸って、風景を眺め、体全体で山根発祥の地を味わった。
そして郵便局の前で待っているレンタカーに乗り、この地を後にした。
後日譚
本来行く前に見る予定だった『大東町誌』『新大東町誌』を帰宅翌日に国会図書館で見たが、「山根」に関する記述は、人名にしろ地名にしろ見当たらなかった。
そこで同館の地図室で明治時代の5万図などいろいろあたったら、発行中の『島根県道路地図』(33P右)の大東町のページ33(右下)に、下佐世(C4)からから東南東へ5キロ、同じ大東町の箱渕(G6)という所に「山根」というバス停を見つけた(地名だろう)。
ただそこは地図で見る限り、深い谷の合流点なので箱渕という字名の方が合っている。
平氏のように追手を逃れて隠れ住んだわけではないので、ここが発祥の地とは考えにくい。
また、同地図の大東町中湯石(G3:玉造からほぼ真南)に「山根生コン」という工場マークとその西隣に「湯神社」がある。
湯神社についてネットで調べたら、南隣の海潮温泉を古代から守る温泉神社で、湯氏が勧進したものではなかった(祭神も異なる)。残念!
ちなみに『角川日本地名大辞典』の「島根県」には「山根」は1つも載っていない。「鳥取県」には6箇所も載っているのに(三朝に行く途中の倉吉市内にも山根の地名があった)。
→皆さんから情報をたくさんいただきました(コメントをご覧ください)。
鳥取県伯耆町二部に千年前から存在します野上荘神社の宮司家にその手掛かりがあると存じます。
島根より鳥取の方に”山根”が拡がっているようですね。ウチは出雲→萩の流れなので、鳥取(伯耆)方面は視野に入っていませんでした。
紹介いただいた宮司さんはFacebookをやっているようなので、まずはネットであたってみます。
石見部では結構、小さな城の城主として名前が残っています。
近江の佐々木氏が元と、また「山根谷」が発祥という話もきいていますが、それが近江にあるというのは初めてです。
また石見の城主についても初めて知りました。出雲と萩の間に山根氏の活躍の場があったのですね。
まずは「山根谷」を確認したいと思います。
頼政系統の話は初耳です。
うちは長州系なので、もちかしたらこちらの系統とも関係があるかもしれませんね。
私なりに調べてみようと思います。
佐々木一族の支配地域に重なった部分が確かに有ると思います。
あと関ヶ原の後、石見から長門の方に移り住んだ一族も有るみたいです。
毛利の直臣ではなく、益田氏や周布氏の家臣団としてですが、両家が治めていた地域に行くと結構山根姓を見ます。
ネットで「山根谷」を検索したら、島根県の邑南町にヒットしました(浜田に近いようです)。
まぁ、地名としての山根は愛知や茨城にもありますが。
鳥取県日野郡古市の山根家は進氏の子孫で進九郎三郎の嫡子幸定が古市に下り山の根にあたるので山根と改称し家紋も桔梗紋に改めたと伝えられているようです。
これは伯耆山根姓のルーツですね
伯耆、出雲、石見それぞれ別系統があるようですね。鳥取には山根という地がいくつかあり、まさに地形から取りやすい名字ともいえます。ただ山根は山陰に集中しているけど。
あと家紋から探究するという手がありますね。
ちなみにうちは男紋と女紋があり、男紋は六連銭でなぜか信州真田氏とほとんど同じです。女紋は「三つ沢瀉に姫蔦」というのですが、実物は見ていません。