もう1つの礼法家系
信嶺ー信之
2005年11月
武蔵武士・本庄氏の拠点であった武蔵北部の本庄(埼玉県本庄市)は、江戸時代には中山道の宿場町として栄えた所。
信州において、深志小笠原氏と惣領の座を争って破れた松尾小笠原氏の最後の主、小笠原信嶺が、1590(天正18)年、家康の関東入りに連動して、信州伊賀良(飯田)の松尾からこの地に移ってきて1万石の本庄城主となった。
この年、松本の惣領家秀政も下総古河に移ったので、両小笠原氏がこぞって信州から関東へ移ったことになる。
ただし信嶺の弟長巨(ながなお)はその後信州飯田の伊豆木に戻った(→伊豆木)。
信嶺の子信之(酒井忠次の三男から養子)は、1600年の関ヶ原の戦いでは秀忠に従軍した。
その後1612(慶長17)年古河へ転封となった。
信之が飯田移封を断って家康の怒りを買ったためという言伝えもあるが、そうなら2万石に加増されている点に合点がいかない。
おそらくその代わりに飯田に移ったのが惣領家の秀政であろうか。
そして、秀政が去った古河に信之が配属されたことになる。
本庄はその後中山道の宿場町として発展する。
本庄から(古河を経て)山深い越前勝山に移った小笠原氏は、この思い出の地・往来の人で賑わう本庄に別邸を設け、隠居した藩主が住んだという(『勝山小笠原家譜』)。
勝山小笠原氏は信州伊那よりもここ本庄が心の故郷だったのか。
本庄城趾
城趾・寺・旧宿場町がある旧街道へは、JR高崎線の本庄駅から北に歩いて10分ほどで行ける。
市役所の裏手、住宅地の一角に公園化した空き地がある。そこが城址。
本庄城は戦国末期に本庄氏によって造られたが、1590(天正18)年前田利家の軍に攻められ落城。
その後に入ったのが小笠原信嶺。
信嶺は廃虚の地の隣に平城を築いた。
1612(慶長17)年小笠原氏が去ると本庄は幕府の天領となり、本庄城はわずか56年間で廃城となる。
本庄城趾には、当時からずっと生きてきたという立派な欅(ケヤキ)がある。
今やこのケヤキが城趾の主。
ここだけでなく、大きなケヤキは武蔵野の風景の主役である。
畳秀山開善寺
本庄の旧宿場町に入り、小笠原氏が移封される各地に作られた菩提寺「開善寺」に行く(→その理由は伊賀良・開善寺)。
ここの開善寺には立派な庫裡(書院)があり、現役の寺として健在(下写真)。
住職に武田氏の一族を迎え(恩讐の彼方!)、徳川家のバックアップもあったらしい。
確かに境内墓地に武田菱の紋が彫られた宝篋印塔(ほうきょいんとう)がある。
信嶺夫妻の墓(写真)は、なんと古墳の上に建っている(二重の墳墓化)。
夫妻の墓を左右に並べて建てるのは殿様クラスによく見られ、
生前の一体感を示すとともに、妻の立場の対等性が表現されている
(ただし、作法では左>右の格差がある。この夫妻の墓は、本尊に向った写真の位置で、夫=左>妻=右となっている)。
墓前(正確には写真の手前は墓背面)には真新しい献花台があり、地元の人々の崇敬が衰えていないことがわかる。
そういう自分は、墓参に来たくせに花を買ってくるのを忘れたことに気づいた(いつも)。
子の信之の墓も境内にある。
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開善寺
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信嶺(左)・妻(右)の墓
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ふつう飯田以外の開善寺は、小笠原氏の転封に伴って引越をするものだ(墓があれば墓も引っ越す)。
だから本庄の開善寺だけはなぜ残ったのかが不思議。
やはり本庄が心の故郷だったためか、それとも武田や徳川氏との関係ができたからか。
中山道の賑わう宿場内にあったので、檀家に事欠かなかったためだろうか。
いずれにせよ小笠原氏がたった22年間しかいなかったのに、ここの開善寺は現在も立派にやっている。
歴代住職の(経営)努力を讚えたい。
近くの歴史民俗資料館にも足を伸ばした。
へんな笑顔の埴輪(写真)が見もの。
宿場の歴史も学べる。
旧街道沿いにもいくつか明治頃の建築が残っている。
それらを見ながら駅に戻れば、旧宿場町本庄の見学を一通りしたことになる。