今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

小笠原氏史跡旅:伝説集

2020年03月07日 | 小笠原氏史跡の旅

 伝説集

鏑矢で魔物退治

義家:堀川院に悩み有った際、勅命を受け、弓弦を鳴らして悪霊を払った。

遠光:高倉天皇が不眠で悩んでいた。遠光が鳴弦の矢を射て、物の怪を払った。その功で王の字を賜った(三階菱の家紋の由来)。

貞朝:化け物が毎夜に障碍をなす。射法秘伝を以て、これを射るとそれは梟だった。あるいは、秘法蟇目の術をもって矢を放ち、怪物を退治したとも。


大鑑禅師と貞宗

大鑑禅師が遷化した時、貞宗は禁中にいたため、臨終に間に合わず、駆けつけた時は禅師はすでに棺の中だった。
貞宗が涙を流すと、棺の中から声がして、棺を開けると禅師が起き上がり、
硯を求めて、「再来(また来る)」と書いて貞宗に与えた。


夢の力

政康:結城合戦の陣中で夢を見た。異人と争う夢の中で、弓弦甲番の術を発明し、実際の城攻に使った。

宗康:忠岳聖が善光寺で政康と会い、その夜犀川で溺死した夜、政康の妻は忠岳が体内に入る夢を見て宗康を身ごもった。生まれた宗康の手に「忠岳」の字があった。それゆえ宗康は忠岳聖の再誕といわれた。ちなみに宗康の諱は「忠岳正信」


狐の母

長時の母(=長棟の妻)は、一段の美女であり、ある人によれば野狐が化けたのだという。


狸膏薬

清宗:厠に行ったら、怪しく動くものがあったので、刀を抜いてその手を切った。後日、狸が来て手を返してほしいという。
その手を返す礼に膏薬の製法を教わった。

⚫︎伊豆木小笠原屋敷:上とまったく同じ伝説が、伊豆木(飯田)の小笠原屋敷にもある。
屋敷内の便所にひそんでいた狸をこらしめ、膏薬の製法を教わった。
この膏薬は戦前まで伝わっていたという。
つまり狸の話は薬効を神秘化するための、おきまりの部分であり、薬そのものの宣伝にすぎない。
その製法まで同じである。
これら材料は屋敷のまわりに植えられていて、いつでも使えるようになっていた。
接骨木、スイカズラ(忍冬)は解熱効果、腫れ物の洗浄用。セキショウは鎮痛効果、青木は火傷。

狐膏薬
木曽馬籠から中山道で美濃の落合宿に降りる道沿いにある医王寺に「狐膏薬」の看板がおいてある(私が実際に見た)。
そこでは寺の住職が夢でその製法を狐から教わったという伝説だったが、その膏薬には「小笠原」と記してある。
このあたりは飯田と交流があり、飯田の小笠原家が販路としたかもしれない。
狸が狐に替わっているが…

以上から、小笠原家はオリジナルの薬も販売していたらしい。


秀政:岡崎城で、家康に年賀の儀があった時、諸大名の最初の方に座っていた秀政が、座敷の中央まで来た時に、身体を屈めて、右の袴の裾あたりに手をやって、それから立ち上がって歩き出したら、それに続く大名たちが、皆それと同じ所作をした。
後日、犬山城主平岩氏が秀政に、あの所作をした理由を尋ねたら、秀政は袴の裾がほつれて足にからんだので直しただけの事と答え、二人で大笑いしたという(『小笠原流作法秘伝書』小笠原 豐氏の解説にある話を山根が編集)

ただし、家康が岡崎に居た頃は、秀政は遅くとも新生児の頃なのでありえない。
秀政は幼少時に人質として家康の家臣石川数正に預けられて岡崎城に居たので、その頃の話か(1586年数正は秀政を連れて秀吉に帰属)。
平岩氏が犬山城主になるのは1602年以降で、その頃なら家康は江戸城にいた。
諸大名列席というのも江戸城なら理解できる。
ただし秀政が古河から飯田に移るのが1601年で、微妙に時期が合わない。


忠真:明石城主時代、客臣の宮本武蔵に桑の木の湯たんぽを作らせて、それを将軍家光に献上したという。
武蔵は木彫りの才もあったというから、あながち嘘でないかも。

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