水害に勝てず
貞信
2008年11月
1640(寛永17)年、下総関宿藩主の小笠原政信が病没した。
家督を継いだ養子の貞信はまだ九歳と幼いため、彼の実家(美濃石津郡多良:岐阜県大垣市)に近い美濃の高須(岐阜県海津市)に同年に転封となった。
この地は、揖斐川と長良川に挟まれた氾濫原の中にあり、住民は"輪中”という堤防内集落を形成して、木曽川を含めた三つの暴れ川(木曽三川)の中で生活していた。
三つの大河が入り乱れる日本でも特異なこの地においては、為政者は代々洪水対策に追われるはめとなる。
たとえば、この後宝暦年間(1754-55)に、薩摩藩が幕命により請け負わされた治水工事によって、多大な犠牲を出しながらも流れを変えることに成功した(たいへんドラマチックな経過を示したため、地元ではNHKの大河ドラマ、まさに”大河”ドラマ化を要望している)。
それに関する史跡も多い。
さて、この地にやってきたわれらが小笠原貞信は、城だけでなく、屋敷町や町屋・堤防などを整備し、今の海津市街の基礎を作った。
しかし1691(元禄4)年、豪雨により木曽三川が氾濫し、一帯は冠水。
この惨状に意気消沈した貞信は故郷からの転封を願い出て、石高はそのままに越前勝山に去って行った(もともとこの地で育ったわけでもないため、愛着はなかっただろう)。
越前勝山は北陸の山里であり、冬は大雪の地だが、洪水の心配はなさそう。
小笠原家が去った後、高須藩は一旦天領となるが、後に尾張支藩として松平氏が藩主となった。 この松平氏から、幕末に松平容保(かたもり)・定敬の兄弟が輩出し、
彼らはそれぞれ養子となって会津藩・桑名藩の藩主となり、
戊辰戦争までの最後の最後まで佐幕を貫徹し、徳川親藩の意地を通した。
定敬は箱館の地で、唐津藩主だった小笠原長行と見(まみ)えることになる。
海津市歴史民俗資料館
高須城の跡地に、それを復元するように立派な城館として君臨している(右写真)。
この地の自然・歴史の展示だけでなく、最上階に城内の居間が復元されている。
この裏側に市図書館があり、『海津町史』など郷土資料が閲覧できる。
高須城趾
海津の旧市街に入ると、武家屋敷があり、その中央部に城跡の公園がある。
また、近くにある高津藩家中屋敷は、小笠原氏の後の松平氏の家中屋敷があった所。
主水橋付近が面影を残している(右写真)。
菩提山寒窓寺
貞信ら一族はそのまま越前勝山に移っていたので、この地にはいわゆる菩提寺はない。
ただ一族のうちこの地で亡くなった者がいて、そのゆかりの寺が残っている。
揖斐川を渡って、養老山地の麓を南下して旧南濃町の集落にある。
臨済宗妙心寺派の菩提山寒窓寺である。
ここは貞信が、1654(承応3)年七歳で夭折した長女"じゅう”の菩提を弔うために再興したという (以前には行基に由来する臥竜山菩提寺という寺があったという)。
法名・寒窓寺殿霜山月清大師にちなんで寺名とした。
本堂にはじゅうの木像があるという(「勝山」に写真あり)。
また貞信の寺領安堵状が残っているという。
ちなみに小笠原氏の行く所、つねに在を共にしている”開善寺”も、ここ海津に建てられたが、勝山移封に伴って開善寺という寺名も移っていった。
残された建物としての海津の開善寺は、禅海寺と改称したが、大正時代に廃寺となったという。
禅海寺が所蔵していた鎌倉時代の仏像(市指定有形文化財)が寒窓寺に安置されているという。 寒窓寺は、小笠原の三階菱が寺紋となっており、その瓦があちこちにある。
当然ながら、礼法の痕跡は残っていない。
天照寺(養老町)
海津市から北上して養老町に入と天照寺がある。
貞信が師事して恕 が開山した寺。
小笠原氏の宿老・脇屋氏の菩提寺となっている。
この寺は宝暦治水の薩摩義士たちの墓もあり、そちらが有名。
ここまで来たらさらに北上して養老町の街中を目指す。
そこにも小笠原氏関係の史跡が1つあるから。
荘福寺(養老町)
養老の滝で有名な養老町には小笠原氏の一族丸毛(まるも)氏がいた。
丸毛氏は、宗長(6)の弟の兼頼から始まる支族であるが、家紋は宗家と同じ三階菱。
その丸毛氏の中興の祖・長照は、応仁の乱で京都に従軍していた。
その戦乱で全焼した京都東山の長清寺から長清(1)の遺骨を持帰り、丸毛氏の菩提寺のここに葬ったという。
寺には木製の骨壷があり、「文明二年二月十五日」と記してあるという(県指定文化財)。
なぜ遠い分家の丸毛氏が長清の骨を持ち帰ったのか。
実はその頃の小笠原氏たちは、信濃では本家争いの抗争中であり、京都の小笠原氏は没落の危機に瀕しており、それどころではなかった。
その間隙を縫って丸毛氏が由緒ある小笠原氏の後継に名乗りを挙げたということか。
だが皮肉なことに、この丸毛氏は織田信長に呑み込まれ、歴史の舞台から消えてしまう。
寺はそれなりの敷地をもっているが、骨壷を見せてもらうわけにもいかない。
それ以外の小笠原を忍ばせるものは見当たらなかった。
参考文献
『南濃町史 』『海津町史』
『海津市の文化財誌』