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山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

肥前唐津:小笠原氏史跡旅16

2020年03月07日 | 小笠原氏史跡の旅

 幕臣の意地

長昌ー長泰―長會―長和―長国―長行ー長生

2005年11月

忠知系の小笠原氏は長昌の代の、1817(文化14)年、奥州(福島県)棚倉から九州の肥前唐津6万石へ転封された(すごい遠距離)。
唐津の前任藩主はあの水野忠邦(幕閣となって天保の改革を推進。唐津藩は長崎警備の任務を負う)

ただこの家系は男子には恵まれなかったようで、世継ぎに代々養子を迎える。
この後、藩主は長泰―長會(ながえ)―長和(ながよし)―長国と短期間に続く。

そして幕末に、小笠原長行(ながみち)が登場する。


老中・小笠原壱岐守長行

長行は長昌の第二子だが、長昌死去の時は幼少だったため庶子にされ、
藩主は養子の長泰が嗣いだ。
唐津に居場所がなくなった長行は、江戸に遊学して才覚をあらわす。
その結果、藩主長国の年上の世子となる。
しかしそれでおさまる長行ではなかった。

土佐藩主山内容堂に見込まれ、江戸で老中に出世。
幕閣として、すでに屋台骨がぐらぐらの江戸幕府を懸命に支える。

歴史の長い小笠原氏でも国司や守護、いわば県知事にはなれたものの、
幕府中枢の老中、いわば国務大臣になって内閣入りまで出世したのは、
この家系だけだ(以前に吉田家の長重が老中と京都所司代を兼任)。

1866 (慶応2)年、第2次長州戦争が起き、長州軍が小倉に攻めてくるも、小笠原惣領家の小倉藩では、藩主忠幹(29)が没し、次の藩主忠忱(30)はまだ6歳であった(→豊津)。
そこで長行が幕軍側の指揮をとるが敗北。
右の写真は長州戦争当時の長行の兜。
この元亀天正の頃のいでたちで軍の近代化をなした長州軍と戦ったのか…。

翌1867(慶応3)年、長行は外国事務総裁を辞し、
病気を名目に長国の名で廃嫡願いを出す。
すなわち自ら幕府の要職も唐津藩主の座も退く。

何のためか。
幕臣としての最後の意地を通し、薩長軍との戊辰戦争に加わるためである。

清和源氏小笠原氏は、源頼朝・足利尊氏・徳川家康に与して、
鎌倉・室町・江戸幕府の成立を支えてきた。
その末裔を自負する長行は、最後の幕臣として、700年続いた武家政権の意地を通す道を選んだ。

1868-9年の箱館戦争を経験したものの、長行は、幕軍降伏直前に身をくらまし、
1872(明治5)年になって東京で自首した。
その後は本郷(文京)区の駒込動坂(なんと私の自宅の在所!)に隠棲し、
1891(明治24)年その地で没し、谷中の天王寺に葬られた。
その後烏山の幸龍寺に改葬→東京

その間、1870(明治3)年に長行の子長生(ながなり)が唐津小笠原家の当主となった。
彼は子爵となり、東郷元帥付武官・海軍中将・宮中顧問となって、
明治の歴史にその名を残している。
長生は父長行らの墓を烏山の幸龍寺に改葬し、自身もそこに眠る(→東京)。


近松寺

唐津駅に着いて、まずは唐津小笠原の殿様の菩提寺、臨済宗の瑞鳳山近松寺を訪問。
小笠原家の菩提寺で臨済宗といったら妙心寺派の「開善寺」であるべきなのだが、ここは南禅寺派で、小笠原家が来るずっと前の鎌倉時代からあるらしい。
史実的には、室町時代の天文年間に博多聖福寺の湖心禅師を開祖としたというから、飯田開善寺の清拙正澄(聖福寺にも滞在)と無縁ではない。
ここは寺名の通り、近松門左衛門の墓があるので有名なのだが、
境内には宗遍流の茶室(写真)があり、「小笠原記念館」なるものがある。

小笠原記念館

その小笠原記念館は無人で無料。
今では唐津市が管理しているようで、見学者が手ずから館内照明のスイッチを入れる。
まずは小笠貞宗(7)の肖像(写真)が目に入る。
これは弘化年間(1844-48)に描かれた絵で小笠原長儀(浦賀奉行)の書が添えてある。
やはり小笠原家にとっては礼法の開祖貞宗公が特別な意味をもっているようだ。
また初代小倉藩主の忠真公(20)の歌の掛け軸もある。
あとなんといっても老中小笠原長行(上の兜など)、
その子で明治に活躍した小笠原長生関連の品。

小笠原記念館内部
貞宗肖像
長生肖像

そう唐津小笠原藩は西日本の数少ない佐幕派だった(小倉藩は新政府軍側)。
そのため、ななんとここの小笠原家は新選組と接点がある。
その接点こそ、三好(みよしゆたか)こと小笠原胖之助(はんのすけ)である。
※:三好と名乗ったのは(長行も一時名乗った)、小笠原一族の阿波・三好氏にちなんでらしい(岩井)

小笠原胖之助墓

胖之助は、唐津二代目の藩主小笠原長泰の次男(四男とも)で江戸で生まれた。
江戸の武士(唐津藩士)として彰義隊に参加して上野で戦い、
そして輪王寺宮の逃避行に随行しながら、会津から箱館へと転戦して
(箱館渡航時に新選組に入隊)、そこで戦死した。
戒名は「新圓館三好院殿儀三良忠大居士」。

その小笠原胖之助の墓がここ近松寺にある(このことは地元の旅館の女将のホームページで知った)。
実際には函館郊外七飯町の寶林寺に埋葬されたので、武州日野の石田寺の土方歳三の墓のように、ここにあるのは記念碑的な墓(供養塔)だろう。
わずか17歳で蝦夷地に散った胖之助(市村鉄之助の1歳上)。
その時旧幕軍に小笠原長行もおり、実の弟のようにかわいがっていた胖之助の墓(寶林寺)に詣で涙したという(岩井)。

小生、小笠原流礼法の総師範にしてやはり函館で戦った幕臣(鎌田造酒之助)の子孫
そして新選組(土方)ファンであるわけだが、
それら3つがこの「小笠原胖之助」において統合される。

明治になってきちんと建てられた胖之助の墓は、隣接する他の小笠原一族の墓よりも立派で、まるで顕彰されているかのよう(建てた当時、旧幕軍は世間的には国賊扱いだったはず)。

私は墓の見学に来たため、墓参りという意識がなく、
花など準備をしてこなかった(いつもそう)
いそいで寺の外にある花屋で花を2束買い求め、本堂前に置いてある線香2本に火をつけて拝借し、線香立てに本堂前のローソクの燃え残りを取って、墓に引き返し、寂しかった墓前を飾った(写真)。
忘れられた新選組隊士小笠原胖之助にとって、久々の花と線香の香りかもしれない。


唐津城

天守閣が立派に復元された唐津城。
海岸沿いにあり、横に広がる白砂青松と天を突く天守閣の組み合わせが爽快。
小笠原氏は江戸後期になってから唐津に来たものの、最後の殿様でもあったので、結構三階菱のついた展示品が目についた。
中でも家臣に伝授されたものという「礼書」の展示を見つけた時は思わず顔をほころばせたが、江戸時代に「小笠原流礼法」を庶民に広めた水島卜也の礼書からの写しであり、小笠原家オリジナルのものではなかった(もともと、この家系は糾法的伝されなかった)。
小倉の惣領家に教わりにくいワケがあったのか。


唐津市立近代図書館

唐津駅前にある”近代建築”の図書館らしからぬ建物。
ほぼ隣のビジネスホテルに泊ったので通うのに便利だった(写真左側)。
基本資料『唐津市史』で唐津小笠原家の系譜がわかる。
礼法には関係なかったが、いろいろ楽しい発見ができた。
また小笠原長生の著作などがある。

唐津市内には他に 「唐津くんち」の山車の展示館がある。
また、知る人ぞ知る「宝当神社」に行ったけど、ご利益はなかった。
あとイカの活造りが有名。

ここから福岡に行くには高速バスが便利(市内でチケットを安く変える)。
その福岡で聖福寺に立寄った。


参考文献
中村和正 『唐津城の殿様たち』 (唐津市近代図書館所蔵)
岩井弘融 『開国の騎手小笠原長行』 新人物往来社 
他に、小笠原長行の生涯が生き生きと描かれた小説に、滝口康彦の『流離の譜』(講談社)がある(胖之助も登場する)。

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