前稿「瞑想のすゝめ:レベル1」の続き。
数息観などの一念による集中ができたら、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)の自己制御への道が開けたことになる。
そうなれば、たとえば樹皮をじっと見つめて、ゲシュタルト崩壊現象を楽しむこともできる。
実はこの経験、瞑想が進むにつれて現れる”魔境”に惑わされない準備としても価値がある。
さて、一念から無念へと進んでみようか。
意外に簡単で、その一念を消せばよい。
消すとどうなるか。
意識がシャットダウンされるのではない。
そもそも意識状態には2水準ある。
1つは、意識がある/ないという、システム0のレベル。
意識があるのは覚醒で、無いのは睡眠か昏睡。
その次は、覚醒を前提として、何を意識しているかという、通常の心の働き(システム1・2)のレベル。
意識とは「何ものかへの意識である」という、志向性を前提とする現象学理論からすれば、
無念は、意識が明晰のまま意識対象がない、すなわちノエマなきノエシス、という現象学者フッサールが想定しなかった状態になる。
外部の衝撃音や閃光など、強制的な志向(システム1)が存在しない場合、システム2は意識対象がないと自分で勝手に思考や表象イメージでそれを作り出す。
それがマインド・ワンダリングだ。
それが発生しないように、無念無想を維持することは、不断の努力を要するが、不可能ではない。
実際、私は瞑想時にはMuseというニューロ・フィードバック装置をつけるのだが、無念無想になると、Calm状態という合図の鳥の声が鳴り、ポイントが付与される。→ニューロフィードバックによる瞑想訓練
ただ、無念無想に(ポイントが付くほかに)どんな意味・効果があるのか。
神経科学的には、DMNの最低状態という意味でしかない。
車のアイドリングだと、回転数が落ちたエンジンストップの直前状態であり、
むしろ、 DMNが必要以上に低下すると、認知症(脳の機能障害)につながる。
世の中には、なんでもやりすぎる人、すなわち一方向に突き進むだけの単純志向の人がいて、瞑想についても、無念無想を強迫的に追究する人がいる。
まぁ仏教自体が、瞑想(定)を欲界・色界・無色界で多段階化して、どんどん突き進むよう仕向けているフシがあるが、無念無想=心的活動の停止が仏道修行の目的ではないはずだ。
実際、仏僧プラユキ・ナラテボー師は、集中にとって邪魔になる思考や想念を悪玉視する人たちを「瞑想難民」と名づけている(『悟らなくたっていいじゃないか:普通の人のための仏教・瞑想入門』プラユキ・ナラテボー&魚川祐司、幻冬舎)。
瞑想の目的を見失ってしまった人たちだ。
実際そういう人たちは感情に乏しくなり、病理的な解離現象につながるという。
そもそも意識集中とは、認知心理学的には「情報の選択的注意」であり、他の情報の捨象であることから、この集中ばかりやっていると、「生き生きとした現実に対応する機動性や柔軟性が失われる」(前掲書)という。
マインドフルネスの正反対状態だ。
そういうこともあり、私が提唱する瞑想の次なるステップは、集中(一念)→無念無想方向ではない。
心を豊かにすること(マインドフルネス)が目的の「心の多重過程モデル」の視点でお勧めするのは、心理学を超えて、現象学・存在論レベルに深化する次の三ステップ(①〜③)だ。
①まずは、能動的表象の代わりに、受動的状態になること。
一念(集中)という選択的集中作業によって排除された入力情報に気づくこと。
無念で心の扉を閉めるのではなく、その逆に心の扉を開け放つのだ。
実際には閉眼しているから、解放する感覚は聴覚と皮膚感覚になる。
今まで無視していた微細な環境音や座っている身体にかかる座面の圧力や、顔や手が感じる空気感に気づき、これらを純粋に感じる。
すなわち、解釈(ラベリング)をしない。
解釈以前の純粋経験状態で感じる。
通常では、我々はこの純粋経験を素通りして、解釈された状態(条件刺激としてシステム1、意味づけとしてシステム2)で経験する。
それをやめて、今まで素通りしてきた、解釈前の純粋経験(システム0)に立ち戻る。
それが立ち現れているその姿を先入観なく、受けとめる。
それが自ら語ることを、そのまま聞き取る。
まるで生まれて初めて接した時のように。
これがフッサールの提唱した「現象学的態度」である。
フッサールが提唱した現象学の欠点は、それを実践することの困難さにあった。
当然だ。
日常の習慣的態度(システム1)の作動では無理だし、哲学的思考(システム2)をフル回転させている限り無理だ。
フッサール自身が提供できなかった現象学的態度を実現する方法が、瞑想(サティ:マインドフルネス瞑想)である。
ちなみに、この「純粋経験」を提唱したのは、フッサールではなく、ましてや西田幾多郎でもなく、アメリカ心理学の祖・ウイリアム・ジェームズである。
心理学の祖は、心理的経験の原点(始点)から心理学を始めようとした。
私の「心の多重過程モデル」もそこに立ち戻りたい。
これによって、人は通常の心理学的経験次元(システム1・2の既存の「二重過程」)を越えることになる。
この貴重な経験をできるのが瞑想だ。
②そして、純粋経験を経験し続けていると、その純粋経験の時間”変化”が二次的に経験される。
純粋経験の一刻一刻が、つぎつぎと経験される(だから解釈をしている暇はない)。
その変化は境界のないとうとうと流れる”流れ”ではなく、ひとつひとつが区別して経験される。
日常では、その微小な”境界”を無視して、いっしょくたにして、おおざっぱな流れとして解釈しているのだ。
経験できる一刻一刻を可能な限り細分化した状態が仏教でいう”刹那”である。
その刹那は流れてはおらず、それぞれの刹那ごとに切り替わっていく。
動画として見えるフィルムの正体が、個別の静止画からなっているように。
この刹那の切替え現象を、すでに仏教では”刹那滅”として捉えていた。
通常の時間の流れではなく、この刹那滅を経験できるのも瞑想ならではだ。
ここでも瞑想は、通常の心理学的経験レベルを越えている。
③気づきに満ちた純粋経験を刹那ごとに経験することによって、経験の深度が深まっていく。
心理レベルから実存レベルに。
フッサールの現象学レベルから、ハイデガーの存在論レベルに。
ハイデガーによれば、存在していることをうすうす了解しているわれわれ(現存在)は、存在とその彼岸の無に直面することを恐れる(不安)ため、日頃は、あえて”存在忘却”している。
すなわち、”忙しさ”と”暇つぶし”で時間を満たすことによって、存在(と無)に直面することを避け続けている。
その結果、生(せい)として与えられた”時間”はただひたすら浪費され、そのくせ、時間が足早に通り過ぎたことをいつも悔やむ。
自分という存在に直面するとは、時間をきちんと生きることである。
自分が、今、ここにいて、すべてを実感する刹那をつぎつぎとじっくり経験する。
それが瞑想だ。
瞑想は退屈? とんでもない。
”忙しさ”にも”暇つぶし”にも逃げないで、”存在と時間”※を味わう、贅沢な経験だ。
瞑想こそ、最も充実したひとときだ。
忘却していた存在(在ること)を実感する。
瞑想で得られる充実感はこれに尽きる。
表層の心理生活レベルではなく、存在論レベルで生(せい)を生きている経験。
※減っていく一方の時間の中で、存在忘却しないでどう生きたらいいのか、という問いをハイデガー哲学に投げ掛けた結果(こういう実存的問いを投げ掛けられる相手はハイデガーしかいない)、ハイデガーが最晩年にほのめかしたことを自力で探った結果が、瞑想だ。
追記:その方向でハイデガーの先にあるのが、ひたすら坐禅せよと言った道元・『正法眼蔵』内の「有時」(存在=時間)の章であろう。
そしてこうやって存在をきちんと実感することで、存在することの喜び、存在への慈しみ、すなわち存在愛が育まれる。
愛の対象は本来、存在だ。
存在(在ること)に自己も他者もない(個々の自己とか他者とかは、”在るもの”すなわち”存在者”)。
あるのは存在者(在るもの)を存在たらしめる存在(在ること)※という現象のみ。
※存在(在ること)と存在者(在るもの)とを分ける存在論的差異がハイデガーの要諦。彼の存在論は存在者ではなく存在を問題にする。
そこには自他の峻別を前提とするエゴイズムはないから、自利=利他となる。
仏教の慈悲は、自己を含んだ存在愛であり、自己を除外した対象愛(強迫的な自己犠牲を強いる)ではない。
また慈悲は、世俗道徳の反映ではなく、存在に達することでおのずと湧き出るものである(押し付けられた規範ではない)。
仏教にはすでに”慈悲の瞑想”なるものがあるが、それに依らずとも、瞑想それ自体が存在論レベルに達すれば、慈悲の心になる。
以上の瞑想では、雑念はなく、集中対象もないという意味で無念無想状態になっているともいえる。
だがそれ(心の空虚)が瞑想の目的ではなく、マインドフルになることが目的であり、無念無想は付随現象にすぎない。
このレベル2でも瞑想は充分に価値があるが、さらに次のレベル3がある。→「瞑想のすゝめ:レベル3」へ