前回の講座2で自分の体から気を出すことができたら、次は外部の気(外気)を取り入れることをやってみよう。
なにしろ、体内の気(内気:ないき)を出すだけだと、内気が枯渇してしまうから。
では、元の内気はなぜあるのかというと、呼吸や食物などの気(水穀の気)がエネルギー源となっている。
なので、きちんと食事をし、深呼吸をすることも外気を取り入れる営為であることにかわりはない。
もちろん、ここでは前回の気と同種の気の取り入れの話だ。
町の気功教室では、自分の手から気を出すことができたら、次は生徒同士で向かい合って気を出し合うエクササイズをすることだろう。
ただここの”通信講座”的カリキュラムだと、それができない(身近に気を出せる人がいればやってみるとよい〕。
そこで相手を換えて、他者ではなく、樹木(生きている木)にお願いしよう。
もちろん樹木も生命エネルギーとしての気は人間と同じ。
樹木であって、草花でないのは、人間レベルの気の量の交流をするので、相手には少なくとも人間並みの体積がほしいから。
もちろん樹木なら、人間以上の体積なので安心(ある意味人間以上に安心)。
ではどういう樹木がいいかというと、生命エネルギーが活発な木がいい。
高藤氏※の言を借りれば、新緑・新芽が出ている元気な木で、成長過程の若い木がいい。
※:高藤聡一郎氏の一連の著作(+映像)は、多いに実践の参考にさせてもらった。
逆に、”神木”とされるような巨樹は、実は老木であって、エネルギー的には弱いのだ。
樹木は人間とちがって、老齢になると体が小さくはならず、年輪を重ねて直径が増える一方なので、老木ほど巨樹になる。
だから巨樹は、見た目の容積的にはエネルギーに満ちているが、その活性は低いのだ。
神社境内の神木に人が群がって、樹皮をベタペタ触って、神木から気を吸い取ろうとしている光景を目にすることがある(たとえば伊勢神宮)。
それを見るたび、心が痛む。
動物では不可能な数百年という長寿を達成している神木という老木に対して、いたわりことすれ、そこから気(生命エネルギー)を奪おうとするとは…
触れることは気の理論的には不要で、また老木に対するいたわりの心がほしい(屋久島の縄文杉も触れないように囲いができている)。
エゴ中心※でないこういう態度こそが必要。
※そもそもこういうエゴ(システム2)中心段階の人は、パワーのまねごとしているレベルで実質的な効果は得られない。
ではどうすればいいか。
奪う一方ではなく、交流するのである。
ちなみに、若い木なら、エネルギーに満ちている(樹木は天と地からエネルギーを吸収し続けている)から、樹木に比べて小さい人間が、手先から少々気をもらう分にはまったく支障がない(ただし素手でさわるのはよくない。巨樹の樹皮そのものが小さな生命たちの生態系の場になっているのだ)。
私は個人的に、気をもらうだけよりは交流をしたいので(気は循環させること自体に価値がある)、ここでは気の交流の仕方を述べる。
まず、自分で気に入った(元気な)樹木を選ぶ(幹や枝だけでなく、葉の状態もチェック。一部でも枯れていたら対象から外す)。
その樹木の前に立ち(根を踏まないように)、両手を適度な高さで、樹皮にかざす(樹皮には触れない)。
心を落ち着かせて(閉眼してもよい)、体内の気が肩から腕、そして手を通って樹木に向って出ていき、
同時に樹木にかざした手のひらから、樹皮からにじみ出ている気を感受する。
私の場合は、左手が気を出し、右手が気を受けるとはっきり分かれているので、左手を縦にしてやや高い位置で樹皮に向け、
右手をそれよりやや低い位置で、手を横にして樹皮に向ける。
すると左から冷気が樹木に向って出ていくのがわかり、右手には樹木から暖かい気を受けるのがわかる。
これが樹木との気の交流だ。
互いに元気になるよう、自分の良い気を木に送り、木からも良い気を受けていると感じながら
しばらく、この交流を楽しむ。
すがすがしい気持ち(リフレッシュ)になったら、交流を終え、樹木にお礼を言ってその場から去る(敬意と感謝が必要)。
不必要に交流を強制しないこと。
気の交流は、相手※に対するいたわりと感謝が必要である。
※:相手は人、樹木以外に、石(パワー・ストーン)や岩、パワー・スポットなども可(気・パワーを感じれば)。非生物の気は生物のようには減らない。ただ浄化が必要。
人と気の交流をする時、気を相手に出すだけだと自分の内気が枯渇する。
自分の気が減退したら、ここに記したように、元気な樹木から気をもらうことができる。
言い換えれば、講座2の気を出すだけで、気をもらうことができないのは、中途半端な状態である。